2009年4月11日 (土)

40数年前の日本でも

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090411-OYT1T00553.htm

「東南アジア諸国連合(ASEAN)関連会議が開かれているタイ中部パタヤで11日午後、アピシット政権退陣を求めるタクシン元首相派実動部隊「反独裁民 主戦線(UDD)」のデモ隊が会議会場のホテルに侵入、数人が負傷し、現場は大混乱に陥った。アピシット首相は「日本を含む会議参加国が一連の会議の無期 限延期に合意した」と述べ、パタヤを含むチョンブリ県に非常事態宣言を発令した。」

タイの混迷ぶりも此処に極まれりという印象を世界中に配信してしまいましたね。

このニュースを目にして連想されたのは、「ハガチ」という名前でした。「ハガチ」とは当時の新聞が書いていた表記で、本当は「ジェイムズ・キャン ベル・ハガティ(James Campbell Hagerty)」と言います。彼はドワイト・D・アイゼンハワー政権期(1953年 - 1961年)のホワイトハウス報道官でした。

彼は1960年6月10日に東京国際空港(現在の羽田空港)へやってきます。当時の日本は日米安保条約改定に反対する運動が高まり、一種の騒乱状 態でした。丁度記事にあるタイの状況に似ています。ハガティはアイゼンハワー大統領訪日(戦前戦後を通して米大統領が初めて来日する話だった)の日程を協 議するため来日したのですが、空港周辺に詰め掛けたデモ隊に、その車は包囲され、日本の警察力では何とも出来ないと判断されて、アメリカ海兵隊のヘリコプ ターで救助されるという事件に発展。後に「ハガチー事件」と言われました。米軍が日本の中で戦後に活動した珍しい記録でもあります。

当時の私は・・・生まれてませんv(≧∀≦)v

教科書に出てこないお話しとしては、こういう危機的状況を背景にして、当時の岸信介総理は警察だけではデモ隊を抑えられないと判断。今ではあり得 ないお話しですが、右翼の大立て者児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆(要するに暴 力団)の会合に派遣。松葉会会長・藤田卯一郎、錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダー尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意し たんです。って、要するにデモ隊鎮圧に暴力団や右翼が参加していたというお話しです。

それでも一向に収まらない騒乱に岸総理は不安を拭えず、防衛庁長官赤城宗徳に対して陸上自衛隊の治安出動を要請。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたのですが、当時の赤城防衛庁長官は出動要請を断固拒否。 当時の政治家は大局を見て判断できる人が居たと言うことでしょうか。

ノイローゼ状態になった岸総理は自殺まで考えたそうですけど、6月15日に起きた暴力団と右翼団体によるデモ隊襲撃で多くの重傷者が出て、さらに 警官隊とデモ隊が国会議事堂正門前で大規模に衝突して、デモに参加していた東京大学学生の樺美智子が圧死するという事件が起きるに至り、在京新聞社7社 (『朝日新聞』、『毎日新聞』、『讀賣新聞』、『日本経済新聞』、『産業経済新聞』、『東京新聞』、『東京タイムズ』)]は、6月17日に共通で「議会政 治を守れ」としたスローガンを掲げた社告を掲載。国会デモ隊の暴力、社会党の国会ボイコット、民社党との過度の対立を批判した七社共同宣言が出されます。 無論、左翼側はそれを批判して「新聞が死んだ日」とも評されたんですが、まあこういう歴史を知らずにえらそうにタイを批判するのは止めましょうね

こういうハードは反政府運動が国民の支持を急激に失う原因にもなったんですが、そこは後援者のソ連や中国もしたたかで、『ベ平連』(正式には「ベ トナムに平和を!市民連合」)というソフト運動へと転換していくのです。小田実はこの運動で有名になった作家です。日本は平和国家を戦後標榜し、どんな戦 争にも反対するという運動は、当時も今も日本人には参加しやすい運動です。でも、この運動が実は反米運動だったとご存じですか。

何故かと言えば、1979年に中国がベトナムへ侵攻した『中越戦争』、ソ連がアフガニスタンへ侵攻した『アフガン侵攻』は、『べ平連』運動のように盛り上がらないどころが、第二『ベ平連』も出来なかったし『ア平連』も出来なかったんですから。

中学時代の担任は『ベ平連』運動に参加してた平和運動に熱心な人でしたんで、1980年の同窓会で再会した際、当時大学生の私は「先生、ア平連やりましょか!」と持ちかけたんですが「なんや”ア平連”って?」という反応でしたからね。

日本の平和運動の大きなのは大半が反米工作だと確信できた瞬間でした。

タイの騒動にはどんな背景があるんだろうとここまで読まれて思われた方、貴方はリアリストです。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年4月 3日 (金)

三ツ矢サイダーの話

「『三ツ矢サイダー』は1881年に同商品の淵源となる“天然鉱泉水”が発見され、1884年に商品化された歴史のある炭酸飲料。以来、時代の変化に応じ てフルーツフレーバーやデザインボトルなどの商品を展開しており、04年には天然素材の香りのみを使用し、風味と品質の向上をはかっている。」

http://gourmet.oricon.co.jp/64628/full/

いきなり三ツ矢サイダーの話ではなくて恐縮です。

夏目漱石の『行人』といえば、漱石の後期三部作の内の一作です。順序で言えば『彼岸過迄』→『行人』→『こころ』ですが、皆さんご記憶ですか?

以下はその『行人』の中の一節です。

お兼さんは黒い盆の上に載せた平野水(ひらのすい)と洋盃(コップ)を自分の前に置いて、「いかがでございますか」と聞 いた。自分は「ありがとう」と答えて、盆を引き寄せようとした。お兼さんは「いえ私が」と云って急に罎を取り上げた。自分はこの時黙ってお兼さんの白い手 ばかり見ていた。その手には昨夕気がつかなかった指環が一つ光っていた。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/775_14942.html

中学生の頃、夏休みの課題図書に、この『行人』が指定されました。小学生の頃に『三四郎』や『それから』は読んでいたので、楽勝だと思っておりま した。しかし、読んでみると全然判らないんです。もっとも、妻の愛を試すために弟と二人で一夜を過ごさせたりする夫の気持ちなんて、中学生に判るはずもな いんですが、文学小学生だったプライドで悪戦苦闘した想い出が今は懐かしいです。

さて、上に引用した「平野水」もかなり苦労したひとつです。国語辞典を引くと

      

炭酸水の別名。もとは兵庫県川西市平野の鉱泉からくんだ炭酸水の商標名。

とあるんですが、何のことだか判りません。炭酸水なんて当時知りませんでしたし。インターネットもありません。結構拘る方だったんで、この際兵庫 県川西市平野へ行って鉱泉を訪ねるしかないだろうと思うようになって、母に頼んで交通費を出して貰い、一日川西へ行くことにしました。幸い、川西市へは電 車を利用して2時間は掛からない距離です。

そして夏の暑い日に、川西市へ。駅で聞けば判るだろうと平野の鉱泉の場所を聞いてみました。すると対応してくれた駅員さんが駅長室へ連れて行って くれ、事情を説明してくれたのです。親切な駅長さんはちよっと待ってというと部屋を出て行き、すぐに戻ってきました。手には三ツ矢サイダーの瓶が二つ。何 のことだろうと思いながら黙っていると、駅長さん曰く。

「平野鉱泉は炭酸水が湧いてくる泉として江戸時代からしられていたんだよ。明治時代になって宮内省がこの炭酸水を宮中での晩餐会などで使うために 御料工場を造って、炭酸水の瓶詰めを作るようになった。洋酒を炭酸水で割るカクテルなどに使うために必要だったし、外国のモノは高くて不便だったんだね。 その御料工場が民間に払い下げられて、その経営者は炭酸水に甘い味を付けてサイダーという商品を考えたんだ。それがこの三ツ矢サイダーだよ。」

と言って手にした瓶をひとつくれたのです。なんだなんだ平野水は何時も呑んでる三ツ矢サイダーなのかと思った瞬間でした。

後々調べてみると、「三ツ矢」の由来は、平安時代中期に摂津源氏の祖源満仲が住吉大社(大阪市住吉区)の神託に従い「三つ矢羽根の矢」を放ち、矢 の落ちた多田(現在の兵庫県川西市市内)に居城を建てたという地元の伝説によるらしい。それに伝説では平野鉱泉は満仲が狩の際に発見したと伝えられている のだそうです。

http://www.jttk.zaq.ne.jp/sfuku239/kawanisi/hiranokousen.htm
http://www.asahiinryo.co.jp/company/information/enkaku/

帝国海軍の公式なディナーのメニューを見ると、この平野水がちゃんと出てきます。
こういうサブ知識が役立つ時もあるということです。海軍ではサイダーが高級品で、普段はもっぱら軍艦で「ラムネ」を飲んでいたのをご存じですか? どうして「ラムネ」が愛されたかと云えば、軍艦には消火設備として炭酸ガス発生装置が備えられていたから。炭酸と砂糖と瓶があれば「ラムネ」は作れちゃい ます。後日にはラムネ製造器を備えるようになったんですけどね。この「ラムネ」の語源が「レモネード」だというのは有名な話ですけど、未だに諸説あるそう です。

ついでに書いておきますと「サイダー」を「cider」と英語表記しますけど、これをフランス語読みすると「シードル(cidre)」になりま す。要するにリンゴ酒のこと。林檎を発酵させて造られるアルコール飲料で大抵は発泡性です。リンゴ酒といえばカルヴァドス (Calvados) ですけど、こちらは蒸留酒です。それとノルマンディー地方以外のリンゴ酒はカルヴァドスとは名乗れませんので念のため。

ということで日本とその領土の一部であった韓国以外の国で「サイダー下さい」といえば、大半はこのリンゴ酒が饗される可能性が高いということで す。まあ、このサイダーの一例を見ても韓国は日本の文化に深く影響されてると言うことです。ライスカレーもオムライスもありますしね。それと戦時中は「サ イダー」は敵性語ということで「噴出水」と読み替えられていたんだって。

http://en.wikipedia.org/wiki/Chilsung_Cider

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

既に制海権争いは始まってる

http://www.recordchina.co.jp/group/g28286.html

 

00924日、仏AFP通信は中国の潜水艦の活動が活発化していることを報じた。3日、米NGO・アメリカ科学者連盟(FAS)発表の報告が指摘した。その活動回数はロシア海軍をも上回ったという。4日、環球時報が伝えた。同報告は米海軍定常の機密情報をもとに制作された。2005年は一度もなかった中国海軍潜水艦の遠隔地活動は、06年に2回、07年に7回、08 年には12回と急速にその数を増やしているという。FAS核情報プロジェクト主任のハンス・クリステンセン氏は「活動回数から中国海軍が保有している潜水艦数が予測できる」と指摘、現在の保有数は54隻だと推測した。また潜水艦の活動増加は新たな任務を担っていると話し、おそらくは太平洋の防衛ラインをより東側へと拡大するためだろうとの見解を披露した。」

039_

(「宋級(039)」潜水艦)

 

2009127日、英シンクタンク・国際戦略研究所(IISS)は報告書「ミリタリーバランス2009」を発表し、2009年は人民解放軍が中国国内から海外展開へと転換する転機になると報じました。

 

中国は経済成長を超える速度で軍事費を急増させており、20年連続で軍事費を二桁成長させており、経済危機にもかかわらず09年には前年比176%増の572億ドル(約51300億円)に達しています。日本の09年度予算では防衛費は47740億円が計上されており、7年連続のマイナスとなる見込みなのとは正反対です。中国の軍事費は既に07年から日本を上回っており、二桁成長の中国とマイナス成長の日本との差は今後開く一方となっていく可能性があります。また中国の場合、公表されている軍事費は実情を反映していないと以前から批判されていて、実際の予算はその2倍以上と指摘する専門家もいるほどです。

 

軍事面での中国脅威論が高まるなかで、中国政府は常に長い国境線を有するだけに、一定程度の軍事力が必要だとしてその正当性を主張しています。しかし近年では、単なる装備の近代化にとどまらず、空母建造が取り沙汰されたり、衛星利用測位システム(GPS)の整備を進めるなど、行動範囲の拡大が目立ちます。これは経済面だけではなく軍事面でも米国に次ぐ超大国・中国の台頭を意味するだけに、日本をはじめとする近隣諸国にとって大きな脅威となってのしかかっているのが現状です。

 

その中国が今頻りに増強を表明しているのが、その海軍力です。目的は自国の輸出入の大半を占める海運ルートの確保を目指す制海権の範囲を、東シナ海、南シナ海、インド洋の一部、太平洋の一部まで広げたいということだと思われます。

 

この構想は元々段階を踏んで行われてきたもので、何も今に始まったことではないのですが、あまりにその動きがゆっくりなために、日本のような時間の国では分かり難く(要するに忘れてる)なってるだけです。実際には1970年代から、ひとつの方向性を持って制海権の確保はすすめられてきたのでした。大まかに年代別に分けると以下のような感じになります。

039a

(「ユアン級(039A)」潜水艦)

 

 

 

1970年代:周辺海域から南シナ海への進出開始(西沙諸島への侵攻と占領)

1980年代:南沙諸島(赤瓜環礁など六カ所)の占拠、軍事施設の建設 

1990年代:「領海法」の制定(尖閣諸島・南シナ海全域の領有を主張、ミスチーフ環礁占拠、東シナ海でのガス田開発)

2000年代:シーレーン防衛への関心増大(エネルギー需要の増大に伴う輸送路の確保のため)、日本周辺海域での海軍艦艇の活動増大と海洋調査海域の拡大

 

その理念を示すものが、1982年に海軍司令員であった劉華清が示した「海上防衛構想(内部国防方針)」です。それによると中国海軍は、

 

*第1列島線(領海<排他的経済水域を含む>内、台湾/対米有事の際の作戦海域)

*第2列島線(領海外の制海権保有水域、有事の際に米海軍の来援を阻止・妨害する海域)

 

という海上国防圏を設定し、その確保に順次動いていくという方向性が示されています。恐らくはこのドクトリンに基づいて、中国海軍増強のタイムスケジュールは、以下に書くような段階を踏みながら整備されてきたのではないかという気がします。

  

①改革期(1982年~2000):中国沿岸海域の完全防備体制を整備

②前期躍進期(2000年~2010):第1列島線内(近海)の制海能力獲得*

③後期躍進期(2010年~2020):第2列島線内での一定の制海権能力確保

④完成期(20202050):米海軍の太平洋・インド洋における独占的制海権を阻止し、米海軍と対抗できる海軍を整備する

 

*中国政府の言う「近海」とは、黄海、東シナ海、南シナ海をさす。これらは中国の海であるという主張。

 

現在は前期躍進期にあたっており、ここ最近の中国海軍の動きを見てみれば、潜水艦の活動が目立ちます。その運用は東・南シナ海での活動からスケールアップして、グアム島付近までの中部太平洋海域へと拡大されて来ています。米機動部隊の接近は、その音紋採取が目的でしょうし、日本の領海内を含む太平洋での海洋調査は海中の精密な海図を製作していることが伺えます。また海中の温度等の計測による音響学的な調査を行うことで、パッシブソナーの開発や運用に対するデーター収集を行っているのでしょう。また、中国海軍が通常空母2隻を建造・運用した後、原子力空母を2隻運用したいという話も最近出てきていますが、これは④の完成期の理想像ではないでしょうか。

091

(「ハン級(091)」原子力潜水艦)

 

 

<近年の中国海軍潜水艦の動き>

200411月:「漢」級SSN がグアム島周辺海域まで進出、帰途日本領海を侵犯 

200509月:東シナ海日中中間線付近での最新型中国艦艇の示威行動 

200605月:新型潜水艦兵力の増強 <1>

200608月:中露合同軍事演習

200610月:東シナ海で米空母の至近距離で「宋」級SSを発見 

200612月:06年中国国防白書が海軍の近代化を明記 <2>

200804月:海南島の南部三亜に潜水艦用を含む大海軍基地を建設 

 

<1>新型潜水艦兵力の増強=キロ級SS12隻の購入に加えて、2010年までに「宋」級SS 12隻、「元」級SS 2隻、「商」級SSN 5隻、「晋」級SSBN 2隻の建造を見積り<米国防省「中国の軍事力」>

877_

(「基洛級(877)」キロ級潜水艦_)


<2>近海での総合作戦能力の増強と、SSBNによる核反撃能力の向上を目指す。胡錦濤主席は「中国は海洋大国。国家の主権と安全を守り、海洋権益を保護するために強大な海軍を建設せよ。」(0612)と明言している。

 

 

中国は経済成長を継続させるために、安定したエネルギー資源や原材料の輸入を必要としています。その為に、例えば、中東からの石油の輸送路であるインド洋や東シナ海、南シナ海の制海権を独自にコントロールすることを目指しているのです。逆に言えば、この海域の制海権を現在握っているのは米海軍ですから、米中対立が逼迫した事態になった場合、中国は米海軍によって経済の発展を止められてしまう可能性があるということになります。

 

この場合、水上艦艇による制海権の確保には、機動部隊(空母任務群)によるコントロールを行っている米海軍に対して、空母無しでの対抗は不可能です。したがって空母を運用出来るようになるまでは制海権の確保は不可能と言うことになります。しかし、旧ソ連海軍や嘗てのドイツ海軍が行ったように、潜水艦による制海権確保は潜水艦部隊を有すれば可能です。米海軍に対抗する空母群の完成までは、中国海軍は潜水艦による対抗を目指すというのが、その戦略なのではないかと思われます。

 

そう考えてみると、海南島に潜水艦用の大型基地を持ったことは、自国の海としている東シナ海、南シナ海の制海権確保に大変重要な拠点を得たことになります。裏を返せば、米海軍はこの基地を無視しては同海域で活動ができないと言う事態に立ち至っていると言うことです。これは何も米海軍のみの脅威ではありません。日本のシーレーンは、まさにこの海域に集中しているのです。それは台湾や韓国、極東ロシアも同じです。Hainanfull

仮に台湾有事に立ち至った場合、中国海軍が南シナ海からバシー海峡の出入り口までを、水上艦艇や潜水艦によって制海権確保を行い、台湾周辺海域を戦闘海域として宣言されてしまうと、日本はスンダ海峡を通り、小笠原へ至るルートでしか中東方面のシーレーンが確保出来ないという事態になります。また東シナ海や南シナ海を船団を組んで海上自衛隊が護衛しながら通過するにしても、偶発的に中国海軍との衝突が起きたりすれば大変な事態になるかも知れません。

 

冷戦期、日米海軍(海上自衛隊)は、チョークポイントという日本の領海に存在する3海峡(対馬・青函・宗谷)を封鎖することで、極東ソ連軍の潜水艦部隊や水上艦艇を日本海に封じ込める作戦を計画し、平時も常に監視する態勢を敷いていました。この戦略は有効に機能し、事実上ソ連の潜水艦部隊は太平洋に出ても日米海軍に監視され、その所在が明らかにされていることが多かったと言われています。そのためソ連海軍は潜水艦による太平洋の制海権確保を実施する確信が持てず、極東正面での戦略は頓挫したといっても良かったでしょう。

しかし、中国海軍の潜水艦部隊の場合、封じ込められるのは日米海軍の方で、仮に第2列島線までの制海権確保を許せば、日本はシーレーンの大半を失い、自国の領海内での制海権すら確保出来ないという、嘗て米海軍によって行われた飢餓作戦の二の舞を体験することになりかねません。

そういう観点で日本政府が海上自衛隊の将来像や、艦艇等の整備を計画しているのかといえば、さに非ずで、相変わらず十年一日のように、冷戦後の軍縮と称して粛々と縮小を行うのみ。本当にこんなことで良いのでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月13日 (金)

歴史の悪戯にしても・・・

私のように戦史を趣味にしている者にとって、歴史は後世の人間から見ればとんでもない皮肉なことをしでかしているなぁと思うことがたまにあります。

今日はそんな一例を書いてみたいと思います。昭和13年6月当時、朝鮮軍(司令部:龍山)として北鮮を守備する第19師団は度重なるソ連軍との国境紛争に手を焼いていました。一例を挙げれば、乾岔子(カンチャーズ)島事件、張鼓峰事件、沙草峰事件などがそれに当たります。

第19師団は精鋭として帝国陸軍では聞こえた部隊です。この頃の師団長は尾高(すえたか)中将。花の16期と呼ばれた陸士16期の出身でした。同期には、岡村寧次、土肥原賢二、板垣征四郎、永田鉄山、小畑敏四郎など昭和史を飾る将帥がいます。

その中で尾高は教育者として知られていました。中尉時代に陸士の生徒隊付として勤務したのを振り出しに、少佐の時に歩兵学校教官、中佐で教育総監部課員、大佐になって陸士の本科生徒隊長という経歴故ですが、第一戦車隊長として第一次大戦後に注目された戦車部隊の育成にも携わるなど将来戦への知識も身に付けていました。将来の陸軍中枢での軍政家としてよりも実戦部隊を統べる将官として期待されていた人物です。この期待は張鼓峰事件、沙草峰事件で果たされます。歴史上、彼は独断で出動したと師団長とされていますが、出動後は中央の命令(大陸令第154号)「張鼓峰付近に於けるソ軍の不法越境に対し、所要に応じ在鮮の隷下部隊を国境近く集中することを得。但し実力の行使は命令に依る。」を良く守り防衛戦に徹して敵の攻勢を退ける戦いをやり通しました。 

さて、19師団には2っの歩兵旅団がありました。歩兵第37旅団と歩兵38旅団旅団です。旅団は2個連隊と付属部隊で構成されています。それぞれの連隊長は下にあるとおりです。

第19師団(羅南):師団長尾高亀蔵中将(陸士16期)

歩兵第37旅団(咸興)
  歩兵第73聯隊(羅南):連隊長 田中 勤大佐(陸士25期)
  歩兵第74聯隊(咸興):連隊長 長  勇大佐(陸士28期)

歩兵第38旅団(羅南)
  歩兵第75聯隊(会寧):連隊長 佐藤幸徳大佐(陸士25期)    
  歩兵第76聯隊(羅南):連隊長 上村幹男大佐(陸士24期)

少し戦史に詳しい方なら”えっ”と言われたり、名前を見て驚かれたりされていることだと思います。

第73聯隊連隊長、田中勤大佐は、この後1年間第4師団の参謀長を務めると、第17歩兵団長、独立混成第15旅団長、第61独立歩兵団長、第61師団長を歴任して、支那事変から終戦まで中国大陸で戦い続けた人です。典型的な野戦の武人タイプでした。

第74聯隊の連隊長、長勇大佐は後に沖縄戦で参謀長として第32軍に赴任し、その声望に麾下の軍が勝利を期待した人物です。彼は橋本欣五郎中佐らが率いた「桜会」の重要メンバーの1人として知られ、政治色の濃い昭和期の典型的な人物です。10月事件のプランナーとしても有名ですが、元々彼は参謀本部支那課のエースでした。敗戦後、生き残っていれば戦犯として東京裁判に召喚されかねない昭和維新の侠客なのです。何せ中尉時代にやくざ10人と喧嘩したという逸話まで持っています。彼は張鼓峰事件の停戦交渉で、持ち前の胆力を発揮してソ連軍代表をあっといわせて国民に英雄ともてはやされたりもしました。彼は大川周明とも親しく、当時の右翼とも太いパイプを持っていたと云われてます。

歩兵第75聯隊連隊長、佐藤幸徳大佐はインパール作戦で命令に反して撤退を行い抗命罪を問われた師団長として有名です。彼はこの後国境守備隊の隊長を務め、第23歩兵団長、第67独立歩兵団長、第31師団長と進むのですが、彼は統制派の活動家として若手将校時代から有名な、いわば札付きの異色な人物でした。それが昇進に影響していた時期もあるようです。「相沢事件」の皇道派相沢中佐を福知山連隊で孤立させ暴発させたのも彼です。東条英機にも近く、桜会に参加して橋本欣五郎にも信頼されていました。ですから、同じ桜会の牟田口廉也とインパールで対立するのも皮肉な話です。

歩兵第76聯隊連隊長、上村幹男大佐は陸大教官も務めた戦略家で、この後歩兵第5旅団長として支那事変に参加。台湾軍参謀長、俘虜情報局長官、第57師団長、第4軍司令官として終戦を迎えます。

これだけでもへーと私などは思うのに更に同じ師団の砲兵連隊長(山砲兵第25連隊)には、あの田中隆吉大佐が赴任していたのです。彼こそは第一次上海事変を起こした張本人。あの川島芳子を愛人として、土肥原賢二と組んで綏遠事件(蒙古独立運動)を指揮した人物としても知られています。彼が東条英機の引き立てで砲兵連隊長のあと陸軍省兵務課長に抜擢され、その後第一軍参謀長を1年務め上げて、兵務局長へと栄進するのは有名なお話しです。それほど東条の信任が厚かったのに、東条の腹心中の腹心、武藤章と馬が合わず、対立の挙げ句が生来の神経過敏から来る病を得ての入院。そして待命、予備役編入に追い込まれ、それを逆恨みした故に、東京裁判ではキーナン判事の隠し球として法廷に現れ、東条こそが戦争の主導者だと告発する役を演じるのですから皮肉なお話です。

ある人は当時をこう表現しています。「第19師団長・尾高亀蔵中将は、軍隊教育の権威であるとともに積極敢為な将軍として知られていた。また隷下部隊長も豪気な者が多く」と。普通に読めばふーんですが、此処まで読んでこられた方は、豪毅も豪毅、よくも集めたというようなメンバーだということがよく理解できると思います。従って、当時の陸軍部内でも、張鼓峰事件は陸軍の謀略だという噂が絶えなかったのも頷けます。

では、誰がこんな人事をおこなったのかと当時の陸軍人事局長を調べてみたら、後宮淳と阿南惟幾ということが判りました。人事課補任課長は加藤守雄。無名の人ですが人事畑が長かった人で、歩兵34連隊長を務めている最中に病に倒れ、その後舞鶴要塞司令官、仙台幼年学校校長と異動しましたが幼年学校校長在任中に病没しています。どうも何か意図があったというよりも偶然の悪戯的な人事のようですね。

本当に歴史は時々こういう悪戯をしてくれるものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月 5日 (木)

どうちぇさんへ

どうちぇさん

折角頂いたコメントの返信を資料付でメールしたら、実は不達だったことが判明しました。
メルアドが変わられたんでしょうか?
私は昔のままのメルアドです。
niftyのFDRの頃の。
もしこれを読んだらメールを下さい。

                                  孔子

| | コメント (1) | トラックバック (0)

もう舵は戻されてる

「読売新聞社が1月31日~2月1日に実施した面接方式の全国世論調査で、首相に最もふさわしいと思う国会議員を聞いたところ、トップは小泉元首相の 14・4%で、小沢民主党代表13・7%、舛添厚生労働相7・5%が続いた。麻生首相は4・7%で、自民党離党で注目された渡辺喜美・元行政改革相の4・ 6%をわずかに上回った。」

マスコミとしては悔しいんだろうなぁ。ここ2年ほど小泉改革を叩いてきたのに、世論はそのベクトルを無視してるんだから。

曰く”小泉改革は格差社会を出現させた”、”小泉改革の成果であった派遣法の改正が今のネットカフェ難民を生み出した”、”外資の参入を大幅に認めた結果、日本はハゲタカファンドに根こそぎやられてしまった”等々。

でも、少し頭のある人なら、小泉総理が竹中平蔵氏を経済政策のブレーンに据えた時点で、アメリカ型の小さな政府という方向性は見て取れたはず。小 泉改革が目指すのは、真の自由競争と自己責任社会への転換。つまり政府や自治体が財政によって様々な支援をするのではなく、競争に負けてホームレスになる のも自己責任。そもそも税金を払わない時点で市民でも国民でもないという冷徹な社会改革を目指していた。

それを国民に伝えようともせず、景気回復優先、財政再建優先という矛盾する改革を、国の予算の見直し、公務員の削減による人件費の抑制という緊縮財政に読み替えられるというペテンに相乗りしたのはマスコミだったんじゃないですか。

私自身、派遣労働者が3年だったら正社員なんていう詭弁は信じる気にもなれなかったですが。2年11ヶ月で一旦解雇して、1ヶ月後に再雇用なんて 芸当は教育界では昔々からやってた手法ですからね。要は3年継続して雇用しないなら正社員にする義務はないと言うやり方は経営者の立場からしたら当然で しょう。だからこそ真の自由社会なら、そこで各個人が弁護士を立てて地位保全を訴えて、100人斬ったら、100件の訴訟が起こるような社会にするため に、弁護士の大増員を目指して法科大学院が出来たんじゃないですか。

なのに共産党などは相変わらず自治体の財布をアテにした生活保護申請に向かわせようとしてる。その財政基盤はどこから手当てするのかは、派遣労働 者の中で派遣斬りにあった全員が生活保護を受給して、財政的に破綻する状況を作り出してから、全体の予算の配分を政治問題にする腹なんです。でも生活保護 から抜け出せない人が増えていったら当然共産党はケツをまくるんです。弱小党ですから、国会審議で我々の主張は無視されたと言えばいいんですから気楽です よ。取り敢えず「政府の責任だ!」で何でも括れちゃうんだから。

セーフティーネットは出来るだけそのネットを使わないで頑張るというモラルで維持されるものです。みんなでネットにぶら下がれば糸は切れて全員が 沈んでしまう。「働かざる者、喰うべからず」と言ったのは中国共産党でした。ソ連では失業して三ヶ月経っても職が見つからない者は不労罪で収監される法律 がありました。共産主義国家でもセーフティーネットの張力は日本の現状と大して変わらないと言うことです。

日本社会は1950年代後半からの社会主義的資本主義国家として、ヨーロッパ型に近い社会機構の整備をして、世界第二位の経済大国まで登り詰め た。なのに、血液型の違うアメリカ型資本主義こそが第一位への道とばかりに、輸血出来ない筈の血液を入れようとするから、拒絶反応が強く出て来るんです。

小泉改革だって、結局景気対策を先にやらざる得なくなって、不良債権処理に国が組織を作り、法律を作って対応したから、昨年までの好景気が出現したんです。国民が小泉元総理を未だに支持してる理由も、そこにあるんです。

一方で小泉改革は財政再建の御旗も降ろせないから、歳出面で三位一体改革を進めて、地方への補助金をカットする一方で、金だけ渡して地方が使い道 を決めるという丸投げも抱き合わせてやったり、財政削減のために医療費カットを目指して「後期高齢者医療制度」なんていうペテンも実行し、改革という名で 予算削減に大なたを振るった。今その効果が出てきた。地方も使えるお金がないから、国を見習って財政削減を嫌でも進めないといけなくなって、知事にはそれ が出来る人を有権者が選ぶようになってきました。

ダイエットすると誓ったのに、あちこち不便で苦しいから止めますというのなら、昔の暮らしが良いと思うのなら、規制緩和はやめて規制強化に動いて いくしかないんですよ。外資の金融への参入は20年前のレベルに引き戻し、ハゲタカファンドが一流企業の株主になれないようにしないと、雇用を守って従業 員と共生する企業なんてやれる訳がない。なにせあちらは、もの言う株主さんです。仕事がないのに無駄な労働力に無駄金を払うなと圧力を掛けてでも配当は払 えと迫ってくるんですから。

実際は、ライブドア事件や村上ファンド事件で株主が一番偉いと公言した時代の寵児二人が司法の壁の向こうへ落ちた時点で、日本政府は小泉改革を否 定する路線にハンドルを切ってます。100年に一度の不景気は、実は規制強化・政官主導の中央集権化への追い風なんです。国債を景気対策のために大増刷し て、内部留保のある銀行に引き受けさせて、兎に角公共投資で金をばらまいて、自民党の本来の支持基盤である建設土木業界を勢いづかせる。食糧自給率向上の ため支持基盤の農協を通して公的資金が農業振興につぎ込まれる。減反じゃなくて米増産、米輸出で儲かる農家を作るとか言う。政権を渡してたまるかと自民党 は選挙のためにも公金をばらまくのは当然です。

麻生総理は消費税の増税に拘ってるのは、ヨーロッパ型社会へ戻すためには、消費税は15%程度は必要。そうしないと、このバラマキの後始末が出来 ないという心配からです。そして日本は20年後には消費税20%を越える国になるでしょう。労働人口の納める所得税はあてに出来ない。無職の人でも生活保 護の人でも、ものを買えば消費税は支払う。その納税がセーフティネットを支える原資になる。そういう社会への転換が始まろうとしてるんです。

むろん、アメリカはそうなったら決まり文句の門戸開放とか言い出すでしょう。でも少なくても数年はそんなことには構ってられないでしょうから、今が絶好のチャンスなんです。日本はどうやってもアメリカ型の社会機構には馴染まないんです。ぬるま湯大好きなんですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月27日 (火)

「クメール・ルージュ裁判」というのを御存知でしょうか

http://www.mofa.go.jp/mofaj/i/press/danwa/2006/das_0703.html

「クメール・ルージュ裁判」というのを御存知でしょうか。

カンボジアで1970年代後半に自国民大虐殺を行ったクメール・ルージュ(ポルポト)政権の幹部を裁くため、国連の技術的・資金的協力を得て3年 間の予定でカンボジア国内裁判所に2006年6月13日に設置された特別法廷(ECCC=Extraordinary Chambers in the Courts of Cambodia)のことです。

日本はカンボジアの最大の支援国として、クメール・ルージュ裁判を重視して、国連負担分予算(3年分、約4,300万米ドル)の半分に相当する約 2,160万米ドルを拠出し、判事として野口元郎(のぐち もとお)国連アジア極東犯罪防止研修所(UNAFEI)教官兼外務省国際法局国際法課検事を派 遣するなど、裁判の運営を支援する外交努力を展開してきました。特別法廷は二審制で、2007年11月から一審の公判が開始されています。一審裁判官(判 事)はカンボジア人3人と外国人2人で審理が進められ、二審はカンボジア人4人、外国人3人で構成され、野口氏は二審判事を務めます。
http://www.cambodia.gov.kh/krt/pdfs/Royal%20Decree%20appointing%20Judges%20etc.pdf

その割りに日本のマスコミはほとんど関心無し状態なんですけどね。

法廷は訴追対象者として、ポル・ポト元首相が1998年に死亡しているため、政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表議会議長(82)やナン バー3のイエン・サリ元副首相(83)、タ・モック元軍参謀長・最高司令官(80)らを含む5~10人の元最高幹部らを大量虐殺の罪や人道に対する罪など で訴追したい意向でしたが、カンボジア政府が強く抵抗を示したため、その人選が難航しました。

どうしてこんなことになっているかと言えば、現カンボジア政権自体がクメール・ルージュ政権時代に、権力闘争などでベトナムに亡命した指導層で運 営されているということ。さらにクメール・ルージュを投降させる際に、当時の暫定政府が免責を約束していた点などがあると言われています。

要するに本当の反対理由は、訴追された幹部の証言次第で、現政権の閣僚が訴追される可能性を怖れたということなのでしょう。

こうした紆余曲折を経て、まず、2006年7月に、多くの犠牲者を出した政治犯収容所S21(トゥールスレーン)の元所長ドゥック(Duch、本 名:カン・ケク・イウ、Kang Kek Ieu、65)が訴追され身柄が拘束されます。ついで、2007年9月にヌオン・チア(Nuon Chea)元カンボジア人民代表議会議長(82)が身柄を拘束され、同年11月に政権ナンバー3だったイエン・サリ(Ieng Sary)元副首相兼外務大臣(78)と妻のイエン・チリト(Ieng Thirith)元社会問題相(75)の二人が身柄を拘束と続き、キュー・サムファン(Khieu Samphan)元国家幹部会議長(76)も同月に訴追されて身柄が拘束されるに至りました。なお、訴追対象者として有力だった軍最高司令官のタ・モック は、2006年7月に80才で死去し訴追を免れています。

昨年、この裁判は困難の連続でした。2月にイエン・サリ元副首相が体調悪化のため入院。ヌオン・チア元人民代表議会議長は公判前拘置に不服申し立 てを行い審理の延期を要請。7月にはイエン・サリ元副首相の弁護団が、被告はすでに過去、大量虐殺で有罪となった上で国王恩赦を受けているため再度、特別 法廷での本裁判に付されるべきではないとの主張を展開。

今年に入ると1月にヌオン・チアの弁護団が、クメール=ルージュ法廷における収賄容疑で、同法廷のカンボジア政府側最高責任者スィアン=ヴィソッ トに対する刑事訴訟手続に入るようプノンペン市裁判所に提訴するという戦術にでます。訴えによると同法廷のカンボジア人従事者たちが給料の一定割合を上司 たちへ強制的にキックバックさせられていると非難していて、同法廷の前人事部長カエウ=ティヴットの占めた役割についても調査を求めています。しかもこの 提訴はプノンペン市裁判所に受理され、近々捜査が始まる予定です。

当たり前ですが、この収賄で動いているとされる金銭の半分は我々の税金から拠出されたもの。 日本政府は法廷の運営に関してカンボジア政府に圧力を掛ける立場にあるのですが、国政が今あんな状態なので誰も関心を示す様子がないのを良いことに外務省も動く気配がありません。

どうして日本が動かないといけないかといえば、この法廷に対する国民の支持がカンボジアで失われていく動きが広がれば、公正な裁判を期待していた カンボジア国民に、その運営を支援してきた日本への失望感が広がりかねないからです。大半の日本人が忘れていますが、日本はカンボジアの復興支援と民主化 の過程で選挙監視に当たっていた日本人警察官が殉職するという犠牲を払っています。それだけに責任を持って民主化に当たらないといけない立場なんですが、 相変わらずの”金だけ出して口は出さない”メッシー君外交。

こんなんでいいのかね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

どうすればいいのやら

http://www.asagumo-news.com/news.html

「空自F4戦闘機の減勢に伴い、防衛省は島嶼部に対する侵略や領空侵犯などに実効的に対応する体制を確保するため、7空団204飛行隊(百里)の F15戦闘機と83空302飛行隊(那覇)のF4EJ改戦闘機を20年度内に配置換えすることを決めているが、その第一弾として1月8日、百里基地の F15戦闘機10機が那覇基地に空輸された。同10日までにF15約20機すべてが那覇に到着し、204飛行隊は“新天地”那覇で年度内の運用開始を目指 す。」
800pxjasdf_f4ejkai
一般には関心がない話かも知れませんが、航空自衛隊は今や日本の最前線となった南西航空混成団の戦闘機部隊、第83航空隊・第302飛行隊の配備機であるファントム(F-4EJ)が旧式化し退役するため、百里基地に展開する第7航空団第204飛行隊のイーグル(F-15J)を沖縄へ配置換えすることにし、これを完了しました。
800pxf15_2_yokota_tokyo
これまで中国を刺激するという政治的な配慮からイーグルの配備を遠慮していたというんですが、今回の302飛行隊の移駐は、現実問題として空自からファントムが去るため、イーグルしか配備できなくなったという異常事態を物語っています。要するにF-15の後継機が決まらず、これまで必ず主力戦闘機は二枚看板でやってきた伝統が崩壊し掛かってるということです。

実際に、今月16日の空幕長会見で、外薗空幕長は次期主力戦闘機FXの機種選定について、「現在、候補という形で6機種があり、議会による禁輸措置のため情報が開示されていない米のF22最新鋭ステルス戦闘機以外はほぼ必要な情報が得られている」ことを明らかにしました。その上で、「わが国を取り巻く戦略環境として、近い将来わが国周辺にもステルス機を保有する国が出てくるだろう。その時にわが国にステルス機がないというのは防空面と軍事的バランス面でデメリットがある。防空面ではわれわれもステルスを持ってそれをどうやって発見、探知、追尾するかを勉強せねばならない。周辺国にあって日本にはないのは大きなハンディキャップを背負うことになりかねない」と述べた。最終的にF22を取得できるかについては「私どもはF22に強い関心を持っているが、まだ何 とも言えない。全般状況を踏まえながら情報収集に努めたい」と述べるにとどまってはいます。
750pxtwo_f22a_raptor_in_column_flig
ですが、オバマ新政権の誕生を前にして、日本は(航空自衛隊は)F-22をまだ諦めてませんよという、これはアピールです。折からアメリカは空前の経済危機に突入。F-22の生産数も予定数通りに生産されるどうかも判らない情勢です。また米空軍関係者は2010年11月にはF-22ラプターの生産ラインは閉鎖されるという話をしています。予定数を下回った生産ではメーカーも採算が取れにくいとなれば、ステルス技術の海外移転を恐れるよりも、軍需産業振興の観点から、輸出向けに一部スペックダウンしたF-22の改造機型が出てくる可能性もあるかも知れません。

空幕長の発言は、此処で日本が主力戦闘機の後継機として全面的にF-22を支持し、150機程度を買う意志が示せたら、アメリカ議会も自国の軍事産業を守るための妥協を期待する表明なのかもしれないですね。

でも、1機200億円とも言われる高級機が三桁単位で買えるほど日本の財政も豊かじゃないと言うのも事実です。これは、どうすればいいのやら・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月23日 (金)

やっぱり日本に金をだせってことか

http://mainichi.jp/select/world/news/20090123ddm002040053000c.html

「韓国人強制連行被害者らによる慰謝料請求訴訟で韓国最大手の製鉄会社「ポスコ」(旧・浦項製鉄)は22日、被害者救済の基金へ出資するよう求めたソウル高等裁判所の和解勧告に対し異議申請書を提出した。韓国の裁判所が戦後補償問題で韓国企業の社会的責任を促した初の和解勧告が不調に終わったことで、被害者らが準備を進めている基金創立に向けた資金集めは厳しい見通しとなった。」

「韓国人強制連行被害者」というのは、日韓併合時代を経て日本人になった朝鮮半島の人を、日本が日本本土に強制連行して苦役をさせられたと訴えている、あの強制連行の人々のことです。

日本でも同様な訴訟が起こりましたが、1965年に締結した『日韓条約』(正確には「日韓基本条約」や「日韓請求権経済協力協定」などの総称)では、締結交渉の中で、日本が経済協力資金を拠出する代わりに、韓国が個人補償など8項目の対日請求を放棄する方針に両国が同意しています。日本の裁判所は、同協定で対日請求問題が「完全かつ最終的に解決された」と明記されており、韓国政府と同国民の対日請求権が消滅したとする解釈を示して門前払いになっていたと記憶しています。

1965年当時の韓国は朝鮮戦争の痛手から立ち直り、国家を再建していく過程で日本からの資金援助を必要としていた時代背景がありました。『日韓条約』はいわば、その資金を引き出すために結ばれたといっても過言ではありません。実際、日本との請求権経済協力協定による経済協力資金(無償3億ドル、有償2億ドル)を得て、韓国政府は重工業を興すことから始め製鉄会社「ポスコ」(旧・浦項製鉄)を設立したという経緯があります。この後もベトナム戦争に韓国軍が参戦し、その見返りとしてアメリカ政府から資金を引き出したりもして、「漢江の奇跡」と自画自賛した韓国経済の隆盛を作る基礎を固めたという歴史は、軍事独裁政権であった朴正煕(パク・チョンヒ)大統領時代の話なので、どうやら民主化以降の韓国国内では忘れられた歴史になっているようです。

ソウル市内の地下鉄建設も最初の路線工事の原資は日本のODAから出た資金ですし、『日韓協定』以後に、有償・無償を含めて現在の価値で2兆円以上の資金が韓国には提供されたと言われています。

記事にもあるように韓国最大手の製鉄会社「ポスコ」(旧・浦項製鉄)は、日韓国交樹立の際に締結された援助金のうち1億1950万ドルをつぎ込んで、1968年に設立された会社です。同時に日本は造船技術も韓国に提供し、製鉄所の鉄が造船所で船になり、一時は世界一の造船大国になる基礎を固める道筋をつけたのも、この頃の話です。

今回の裁判で原告である韓国人強制連行被害者達は、請求権経済協力協定で韓国に提供された5億ドルは韓国国民への戦後賠償金であって、それを国が使うのは不法であり、国民一人一人に支払うべきだという論理から、その資金の約4割を使って設立された「ポスコ」を訴えたという訳です。つまり、「ポスコ」は被害者の受け取るべき資金を使ったため補償が妨害され、精神的苦痛を受けたという趣旨での提訴でした。

ソウル地裁は2007年8月に、その訴えを棄却。原告が控訴していたので、裁判所は和解勧告を出して、被害者を救済する基金を設立することにして、「ポスコ」にも資金の拠出を求めたが、それが拒否されたというのが記事の内容です。

この動きには実は裏があります。

盧武鉉前政権時代の2005年1月。日本の経済協力資金で1975年に実施された民間請求権補償法が不十分だったとして、盧武鉉大統領は追加支援を表明。2008年6月に、死傷者1人当たり2000万ウォン(約134万円)以下の慰労金支給などを盛り込んだ『国外強制動員犠牲者等支援法』が施行されました。申請者約3万5千人の中から、約7千名が支給を受けたとされていますが、政府は財源不足を理由に支援法対象者から無傷の生存者を除外したために、運動を続けてきた被害者団体内部で死傷者家族と生存者との間に亀裂が生じていました。

そこで被害者団体の一部勢力が、政府の財源不足を補充するため、日本の経済協力資金で設立された「ポスコ」や「道路公団」に資金拠出を働きかけをはじめ、それが上手く行かないために、「ポスコ」に慰謝料を求める訴訟へと動いたのでした。ポスコ訴訟を起こした崔鳳泰弁護士は「ポスコが和解に応じて基金に拠出すれば、他の企業も同調する可能性がある。最終的には日本の責任ある企業にも働きかけ、日韓の和解を目指したい」という趣旨の考えを話しています。
http://mainichi.jp/select/world/news/20090116ddm007040112000c.html

要するに韓国で前例を作り出し、次に日本で強制連行された労働者を使役したとされる日本企業にも同様に資金の提供を求めるというのが本当の狙いでしょう。日本政府を訴えても裁判自体が門前払いとなるのなら、民間企業へその矛先を向けるしかないというお話しです。

ついでに書いておけば、日韓の和解をしたいんだったら竹島をまず和解交渉の俎上に載せなさいって。

まあ、こんな陰険戦法を考えつくのは、北朝鮮のイリーガルな連中なんじゃないですか。

私見ですが、朴大統領の方針は今の韓国を見たら判るように、正しかったと思います。もしも戦後賠償金を国民に分配してたら、そんな僅かなお金はとうに使われてしまい、韓国は未だにユニセフが食料援助をしないといけない最貧国の一つだったかもしれませんし、民主化なんて夢のまた夢だったかもしれません。

自分達の過去の歴史を学ばないということの愚かさを知る反面教師のようなお話しです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月22日 (木)

「あたご」の事故にひとつの判断が出た

http://mainichi.jp/select/today/news/20090122k0000e040072000c.html?link_id=TT005

「海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」が昨年2月に衝突した事故の海難審判で、横浜地方海難審判所(織戸孝治審判長)は22日、あたごの所属 部隊、第3護衛隊(当時は第63護衛隊)に対し、安全航行の指導徹底を求める勧告をするとの裁決を出した。審判所は「あたごが動静監視を十分に行わず、清 徳丸の進路を避けなかったことが事故の主因」と判断した。裁決が確定すれば、海自組織に対する勧告が初めて発令される。裁決は一方で、事故時の当直士官、 長岩友久・前水雷長(35)ら個人4人への勧告は見送った。」

実際に事故に関しての操艦を担当した当直士官、後潟桂太郎航海長(36)と安宅辰人船務長(44)と長岩友久・前水雷長(35)、それに艦長の舩渡健(53)に関しては、個人としての責任は海難審判では問わないが、事故を起こす原因となった安全航行に関する問題での指導不足を重く見て「あたご」が所属する護衛隊に勧告をだすという判断をしたという記事です。

海難審判所の勧告は、元々海難審判自体が、海難事故の原因を究明して、同じ事故を繰り返さないという目的のためにあるので、こういう話になってるということです。ただし勧告を受けて是正を行わないで放置しておけば、もちろんいけない話です。特に海上自衛隊は国の機関ですから、他の船舶の模範とならないと行けない立場でもあるんですから尚更です。

実は海難審判の審理の過程で、昨年の9月12日に開かれた第3回海難審判で、あたごが所属する第3護衛隊(京都府舞鶴市)を代表して出廷した前司令の末次富美雄一等海佐(52)が、安全運航の教育指導の在り方を問われて、「艦長に任せていた。反省はある。これまで出入港時だけだった部隊による運航指導などの調査を通常航行時でも行う。また、艦橋とレーダー監視を担当する戦闘指揮所(CIC)との連携不足については当直員に能力や知識はあるが、緊張感がなかったとの印象だ」と証言。組織の責任を認める踏み込んだ発言をしていました。

ですから、今回の「裁決」はある程度予想された範囲内の裁定だったといえると思います。

ただ、本当は海難審判所がさらに踏み込んで置かねばならなかったのは護衛艦の乗員定数の問題だったのではと思います。

「あたご」型は満載排水量1万トンを越える大型の軍艦ですが、乗員定数は300人。実際は280人程度しか乗っていません。四半世紀前のミサイル護衛艦「たちかぜ」型は「あたご」の約半分の排水量で定員は250人だったのにです。

海上自衛隊は省力化という名目で、大幅な自動化や少人数化をすることで、現実に起きている護衛艦の定員不足を糊塗してきました。しかし「あたご」の事故でも判ったように、20名の当直員が各部署で任務に就いていながら、その連携は悪く、操艦指揮を執る当直士官の判断も稚拙であった訳です。これは副直士官の時代から操艦の上での訓練が不足してきたという推測を呼びますが、その点も海難審判所は踏み込みませんでした。現実にはCICに当直士官が詰めていることも多く、いわゆるハンドリング(操艦)に関して、昔の(昭和50年代頃まで)初級士官に比べると操艦技術に自信が持てる士官ばかりではないのではないか。当直士官としての資質を単に知識だけで計っていないかなども迫ることが出来たでしょう。

ですから、護衛隊への「勧告」というのは、こうした意味も含まれていると海上自衛隊側が「勧告」の意図をくみ取る努力をしない限りは、事故は再び繰り返される可能性があるのではないかと言えるのかも知れません。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

«オバマ大統領就任演説 「変革」から「行動」へ