トップページ | 2005年5月 »

2005年4月

2005年4月15日 (金)

反日暴動を見て思うこと(再び)

今週末も中国で反日デモが予想される報道が続いています。予定では17日の日曜に北京で日中外相会談が予定されているので、まだまだ騒動は収まりそうにありません。

日本人の感覚としては、「中国の人々が凄く怒っているなぁ・・・やはり、ここは日本が一歩引いて丸く収める方がいいのではないの。それで中国にも恩が売れるし。」という辺りが普通の思いではないでしょうか。謙譲の情で自分の思いよりも他人の思いを優先する気持ち。これは和を乱すのが一番良くないという日本人独特の精神文化です。いわば日本人は「和」の民族なのです。例えば、日本人の伝統的な座り方は正座です。身分に関わらず全員が正座をします。しかし、韓国や中国で正座をするのは、本当に身分の低い者や罪人だけです。ですから、土下座をするのは大変な恥辱です。その土下座を日本では、正式の場で目上の者に対して集団で行うのを厭いません。(我々はこれを礼だと思っていますから平気ですが、見方を変えれば土下座に見られるのです。)さらに日本人が和を乱さないよう平等を常に心懸けようとします。独り勝ちや独り締めといった言葉が悪い事と位置付けられているのは、そうした精神構造の現れでしょう。

日本人の悪いところは、自分達の思いが伝わらない相手に対して、対話を続けようとするしつこさが無く、すぐに諦めて仕舞うことです。一旦諦めると、今度は相手が何を言い立てて来ても取り合おうとせず、自分の思いだけで行動しがちです。こうした態度が、隣国の韓国や中国との摩擦や誤解を生み出している遠因だと思います。

その韓国は「怨」の国です。自分に対して敵対する、或いは恥辱を与えた者を「怨む」ことで、自己を確立しようとする精神構造の民族ですから、自己への敵対行動にはハッキリとモノを云いますし、妥協はしたくないという思いが前面に出てきます。ですから、お互いに云いたいことを言い合い、喧嘩をして、自分の存在を確認しようとします。それで相手に思いを伝えようとするのです。日本人からすれば、強い語気で喧嘩腰に詰め寄られては、まずは引いて様子を見ようと思うのは仕方がないのですが、韓国人からすれば日本人は自分達の思いを受け止めようとせず、ただ逃げるだけの不甲斐ない相手と思えてしまいます。こうして日韓の人々は、延々と誤解の再生産を何百年も続けているのです。

では、中国はどうでしょう。彼等は「克」を大切にする民族です。何千年も覇を競い合いながら、繁栄と滅亡を繰り返してきた歴史的経験からか、負けることはとにかく嫌います。克つことが大切なのです。中国人に妥協を迫るには、相手の面子を立てた上で、実利面での見返りを堂々と要求するのが常識です。とにかく他人から相手に負けたと烙印を押されれば、精神的には死んでしまうと恐れる民族なのです。結果を大事と考える中国人は、最後に相手を屈服させれば良いとも考える気の長い人々でもあります。しつこく何度でも自己主張を繰り返すのを厭いません。それで相手がウンザリして、折れてくれれば儲けモノなのです。哲人孔子が、中道を説き、「仁」と「義」を大切にしようと勧めるのも、それだけ中道は難しくあるからでしょう。

こういう理解の仕方で考えてみると、中韓の人々が語気荒く自己中心的な主張をしていると、我々が腹を立てるのは、誤解の元だと判ると思います。

ですから、今回の反日デモと、教科書問題や歴史認識問題に代表される外交を混合してはいけません。デモは以前も解説したように、官製のデモンストレーションであり、社会矛盾への不満をガス抜きする目的で行われています。このところ、中国政府がデモに自制を求めるのも、ガス抜き以上にデモが発展することを恐れているからでしょう。反日が、外国排斥に拡大したり、あるいは反政府活動に利用されはしないかと懸念しているのです。もし、デモが全国的に暴徒化して、日本以外のアメリカや欧州企業への襲撃事件や、外国人への暴行や殺害事件が多発し、中国政府がそれを収拾できない姿を世界中に報道されれば、政府の面子は潰れます。これから控えているオリンピックや万博の開催にも疑問符が呈されるでしょう。そんな事態だけは避けたいというのが中国政府の本音だと思います。

そうした意図が判るのが、中国警察による、先のイトーヨーカ堂襲撃の15人を拘束したという報道です。日本人は嫌いだが、事態の拡大は押さえたいというサインがよく現れています。けして、日本に妥協をしている訳ではありません。

 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/anti_japanese_protests_in_china/

その逆が、日本のガス田試掘権手続きを中国が「重大な挑発」と論評した件です。日本人は ガス田をめぐって、日本側が中国に地下構造のデータ提供と開発中止を求めてきたのに対して、一切これに答えず、日本との共同開発を主張しきたことを知っています。経緯を知る我々には何とも横暴な言い分に思われます。しかし、中国政府は今までこの経緯を公式に公表してこなかったのですから、「中国の権益と国際関係のルールに対する重大な挑発だ」と非難する談話を発表し、日本側に抗議したことを明らかにするのも、一方で国内向けであり、一方では国益に適う行動なのです。下手に妥協すれば、従来から主張している排他的経済水域(EEZ)の境界線(沖縄トラフ)問題に関しても足をすくわれる事に成りかねません。ですから、談話でも「中日双方には東シナ海の大陸棚の境界問題で係争があり、中国側は一貫して双方が外交交渉を通じて解決すべきだと主張してきた」と強調することを忘れていませんし、「日本側は中国側の正当な主張を無視し、一方的に主張する『中間線』を中国側に無理に押しつけようとしている」として、日本側の主張を「中国は承認したこともないし、承認するつもりもない」と切り捨ててみせるのです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050414-00000003-yom-int

ここで、注意しておかないといけないのは、中国政府がガス田の共同開発を主張している点です。先に中国人が面子を重んじる話をしました。国費を投じて建設した櫓を取り壊すような妥協を彼等は望んでいないと云うことです。開発は認める。ただし、噴出した天然ガスは全て中国から日本が独占的に買い取る。こういった妥協案で中国政府の面子を立ててやり、日本が実利を要求するので有れば、彼等は国内には日本に勝利したと喧伝できるというものです。

互いの国の精神構造の違いを、日本人も正しく理解して、日本は日本の主張を自信を持って貫き通せば、それでいいのです。もし、反日デモ隊が日本までやってくるなら、それなりに歓迎してあげましょう。懐の深さは、中韓の人にも理解できます。

実際、今回の事態では、世界の主要メディアの論調も、中国政府の意図を察し、中国が「歴史カード」を使い、民衆の不満をあおっているとする冷めた分析が多いのです。

11日の米紙ウォールストリート・ジャーナル(アジア版)は「日本は過去についてもっとすべきことはあった」としながらも、「中国自身の歴史の歪曲(わいきよく)の度合いは日本よりもはるかに大きい」と指摘している。「中国は世界のなかで重要な地位を占めるようになっており、政府には国民が世界を正しく理解し、恨みの感情で行動しないようにする特別の責任がある。日本に対して繰り言を言う前に、中国自身の歴史解釈を見つめるべきだ」とも強調している。

同様に、12日の英紙フィナンシャル・タイムズは「日本が過去を正直に認め、無条件に謝罪すべきだ」とした上で、「直接の問題は中国の指導者が暴力的な反日デモを容認していることだ。日本の戦後の平和主義や経済面での中国への寛容さを国民に知らせず、日本で歴史がゆがめられていると中国が訴えるのは偽善だ」と指摘したている。

辛辣なのは、11日のフランスの保守系フィガロ紙だ。「日本の“修正主義者”への怒りを表明することは真の民主主義への渇望を表明するより容易だ。共産主義体制ではナショナリズムは常に欲求不満の方向を変える代替品としてイデオロギーの役に立っている」という見方を示している。

台湾の各紙は、日本の立場に理解を示し、「日中が緊張した場合、台湾は日米に接近せよ」という学識経験者のコメントや、「中国市場から撤退する日本企業を台湾に誘致するチャンス」との行政院(内閣)内部のコメントを伝え、したたかなところを見せています。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050414-00000001-san-int

という具合ですので、週末のデモの報道も、あまり気に掛けず、冷静に見守りましょう。

2005年4月13日 (水)

温泉に行こうよ

kuri04温泉は冬に訪ねるのが一番楽しいと思う。出来れば雪深い東北か北海道が良いと思う。しかし、冬には訪ねられない温泉もある。あまりに雪深くて、冬季は休業するからだ。有名な秋田の玉川温泉も昔は冬季休業だった。それがあまりの人気で、最近は国道が除雪されるようになった。それでもバス停からは宿の雪上車が出迎えてくれないと辿り着かないらしい。そんな難所でも玉川温泉を目指す人は絶えないという。確かに素晴らしい温泉だし効能もある。でも、秘湯が秘湯でなくなるのは何となく寂しい気がする。宿の人も20数年前に訪れた頃とは比べ物にならないほど、人裁きが上手くなり、食堂の食事も朝夕はバイキング式になりコジャレている。泊まり客の小父さんに一合瓶の2級酒を奢って貰う雰囲気はなくなってしまった。変わらないkuri00のは温泉だけ。

偶然に訪れた須川高原温泉は、そんな昔の秘湯の趣が残る宿のひとつである。中尊寺のある岩手県一関市。その郊外の栗駒山中腹にある一軒宿の温泉。一関市内から車でのんびり行って1時間ほどの距離だった。バスも一ノ関駅から出ている。この温泉は豪雪地帯故、毎年5月から10月までしか営業していない。5月でもストーブが出ている高地にあり、夏でも朝夕は涼しい。この温泉のお薦めは露天風呂。とにかく他にはない開放感がある。その上、強酸性の明礬緑礬泉は玉川温泉にも劣らない。のんびり湯に浸かれば開放感も伴って心身共に癒される。宿の人の話だと、此処の温泉は、玉川温泉、川湯温泉(北海道)と並ぶ日本の三大酸性泉とのこと。強酸性泉に入浴すると、人間の身体は刺激を受ける(驚かせて)。この刺激が人間に備わった自然治癒能力を高めてくれるという。強酸性泉が医者に見放された難病を治癒させたというのも、こうした効能のせいだろうか。また、須川高原温泉では湯に明礬が含まれているので、肌にも優しく接してくれる気がする。無論、湯上がりは肌がすべすべになる。こんな効能がある温泉だから、出来たら2泊3日位はのんびりしたい。この宿には湯治客のための宿泊も用意されている。自炊でのんびりできる部屋は、一泊4千円代からとお手軽らしい。開放感が最高な露天風呂に浸かり、高原の澄んだ空気を吸いながら、ボーツとすると、ストレスも消えて頭の中も整理できる。できるなら、この宿への到着は午後4時頃にして欲しい。陽のあるうちに、まず露天風呂を楽しめれば、その後の気分は爽快である。山歩きの好きな人は、この宿を足場に日帰りの登山もできる。付近には間欠泉や霊場など見所も多いの滞在しても退屈はしないだろう。宿泊料金もそんなに高くない。一泊二食で1万3千円前後から。

  須川温泉 須川高原温泉                                    

〒021-0101 岩手県一関市厳美町マツルベ山  

TEL:0191-23-9337・FAX:0191-23-2550                             

須川高原温泉のHP http://www.isop.ne.jp/sukawa/front.htm

この須川温泉に行く気になったら、遠方の方は空路で花巻に降りて欲しい。車の運転が出来る人は、ここでレンタカーを借りることをお薦めする。                     

花巻で有名なものと云えば宮沢賢治。市内には記念館もある。興味があれば立ち寄りをするのも楽しい。私は花巻に来ると、宮沢賢治が花巻農学校の教員時代に愛した蕎麦屋に顔出すことにしている。賢治は、この蕎麦屋でいつも天麩羅蕎麦を注文し、一緒にサイダーを楽しんだと云われている。東北の天麩羅蕎麦は、ごま油で揚げる関東風の天麩羅が多い。関西人の私にはしつこく感じさせる。しかし、ここは菜種油なのであっさりして口に合う。別に他の蕎麦を食べても構わない。どの蕎麦も美味しく頂ける。                                     

『やぶ屋』 「よく藤原嘉藤治氏や友人同僚を誘って,今日はBUSHへ行きましょうか,などといって,吹張町の藪そばへ連れて行きました。藪そばのものでも,特に天ぷらそばは賢治愛好の食品ですから,たびたび食べに行かれました。病中にも天ぷらそばを思い出して家人と話された事があるそうです。原稿がどんどん売れたら,友だちと好きなそばでも食べようなどと冗談も言っておりました。たしか東京の知名の文士にトラック1ぱいの原稿を送り,今度原稿料が入ったらBUSHへ連れて行くぞと愛弟の清六さんににやにや笑いながら申したと言うくらいですから,BUSHは相当賢治にとって魅力があったわけです。」                                                     

やぶはBUSHのこと。昔は英語の隠語がお洒落だった。

「やぶ屋のメニューの中でも,賢治の好物は天ぷらそばでした。また,サイダーも好物で,賢治が1杯飲みましょうかと誘うのは,お酒ではなくサイダーで,天ぷらそばとセットで注文するのが常でした。」                                         

当時はかけそば6銭、天ぷらそば15銭、サイダー23銭、なんと天ぷらそばよりサイダーのほうが高かった。宮沢賢治の当時の月給は80円。賞与は100円だった。経済的にはそんなに困っていなかった。当時はサイダーが最先端のハイカラな飲み物だったらしい。賢治は実家が裕福で、本当は坊ちゃんだった。そんな彼の感覚が天麩羅蕎麦より高いサイダーを注文できるところに見て取れて面白い。

花巻を出たら、一ノ関で中尊寺や高館、厳美渓などの名所旧跡をまわるのは楽しい。芭蕉の奥の細道を辿るのも面白いし、義経に思いを馳せるのも楽しいだろう。ここは東北の京都といっても良い古都なのだ。

今年も須川温泉が開かれる日が近い。温泉に行こうよ。                                                    

2005年4月11日 (月)

キリスト教原理主義とハリウッド映画の関係

picture2

『ナショナル・トレジャー』を観てきました。この映画は、ニコラス・ケージ版のインディー・ジョーンズともいうべき作品でした。歴史を題材にした謎解きが、やがて宝探しにつながっていく推理の掘り下げの面白さと、お約束の二転三転する物語展開は単純明快で、誰でもワクワクさせてくれる魅力がある気がしました。

『ナショナル・トレジャー』の話の核になるのは、フリーメイソンとテンプル騎士団です。フリーメイソンが闇の黒組織という姿では描かれず、テンプル騎士団に連なるキリスト教原理主義者として描かれていて、ナショナル・トレジャーをアメリカで守るための秘密結社として扱われています。物語にちりばめられた謎も、フリーメィソンの世界観を題材にして作られているのも、一層謎に感じられて面白みを煽ります。そのひとつが一ドル札の裏に描かれている謎のあの絵なんです。(上段左上の絵)

映画の筋がネタバレになってしまうので、ここまでにしておきます。ただ、『ナショナル・トレジャー』を見て思うのは、近年のハリウッド映画には本当にキリスト教の原理が筋立ての下地になっている作品が多いなということです。

例えば、日本でも大ヒットしたキアヌ・リーブスの代表作『マトリックス』。この作品の続編が公開される度に、描き出される内容は(普通の日本人には)難解になり、日本ではあまり評判が上がらなかったような気がします。『マトリックス』が描く世界観は、未来社会に姿を借りた欧米神話的寓話であると解釈すれば、意外に理解が出来るように思います。勿論、その中心にあるのはキリスト教の原理です。例えば、人間側の代表としてマトリックに戦いを挑む、ネオ、トリニティー、モーフィアスの3人の仲間。彼等の名前の意味を知る欧米人には、素直に脚本の意図を感じ取ることが出来ると思うのです。

キャリー・アン・モスの演じたトリニティー(TRINITY)は(カトリック・英国国教会で)三位一体の神をさす言葉です。あの「神と子と聖霊の名において」は、このトリニティーを現すキリスト教の中心的教義の文句です。アウグスチヌスは三位一体論で「神の三位一体性を人間の心的活動(記憶と悟性と意志・あるいは精神と認識と愛)の三位一体性と類比的に説明しようと試みました。マトリック(仮想現実世界)によって人間の心的活動を奪われた人類。その人類が人間性を取り戻す過程は、まさに自らの記憶を取り戻し、自らの存在を悟り、自らの意志で行動することです。また、トリニティーは転じて三組という意味も持ちます。(トリプルの語源もこの言葉です。)ネオ、トリニティー、モーフィアスの3人の仲間も、三位一体を象徴すると考えれば納得しやすい存在です。もし、この3人をアウグスチヌスのいう心的活動に置き換えられるなら、ネオは「精神」を、トリニティーは「愛」を、モーフィアスは「認識」を現しているのかも知れません。この三位一体の思想は、ヒンドゥー教においても、創造、維持、破壊を司る三神一体の神「梵天」、「ヴィシュヌ」、「シヴァ」を象徴していたり、古代エジプトではピラミッド(直角三角形)は宇宙や自然の象徴とみなし、底辺はオシリス(或いは男性原理)を表し、垂直の線はイシス(或いは女性原理)、斜辺はホルス(或いは両原理の生産物)を表していたとされています。古来から神を現す図式としてあった思想に、三位一体との関係があったのは興味深い一致です。

モーフィアス(MORPHEUS)は、ギリシャ神話に出てくる夢の神モルペウスの読替です。夢の中で、人に人間の形を認識させ、それを変化させる夢の神だとされています。まさに映画のモーフィアスの役柄そのものを象徴する名前です。ついでにいうとモルベウスは「モルヒネ」の語源となった言葉でもあります。

そして主人公のネオ(NEO)。ネオは、「新しい」とか「最近の」という意味です。あの「ネオナチ」のネオがそうです。映画の中のネオは新人類(或いは超人類)を象徴する意味でネオと名付けられたんだと思われます。

モーフィアスの恋人ナイオビ(NIOBE)。こちらもギリシャ神話に登場するニオベの読替です。ニオベは人間で初めて大神ゼウスの恋人となり沢山の子供をもうけますが、増長してしまい神を嘲る態度を取ったため、神に子供を皆殺しにされ、彼女自身もゼウスに石にされたと言われています。この神話からニオベは、子を失って悲嘆にくれる女の代名詞になりました。これでは二人は結ばれるはずがありません。

現代イタリアの代表的な美人女優モニカ・ベルッチが演じた謎の美女パーセフォニー(PERSEPHONE)。メロヴィンジアンの妻でありながら、ネオとのキスと引き換えに、「キーメーカー」の居場所を教えた彼女。こちらもギリシャ神話のペルセポネの読替です。パーセフォニーはゼウスとデメテルの間に生まれた女神ですが、やがて冥界の王ハデスにさらわれて妃となり冥界の人となってしまいます。彼女は母デメテルによって冥界から連れ戻されますが、既に冥界の食べ物を口にしていたため、一年の三分の一を冥界で、残り三分の四を地上で過ごさざる得なくなります。このペルセポネが冥界に行っている四ヶ月間、母デメテルが大いに悲しむため、地上に穀物が育たない冬がやってくると言われています。何とも意味深な役名ですね。

そしてネオ達が守ろうとする覚醒した人間の聖地ザイオン(ZION)。これはシオン(エルサレムにある丘の名前)の読替です。シオンは転じて、イスラエルやユダヤ民族の事を現しますし、エルサレム(天国)やユダヤ人が理想とした神政政治も現す大切な言葉です。ネオはシオンを守るために復活した超人類。モーフィアスはネオを復活させる賢者。トリニティーは愛で二人を支える聖者。物語はキリストの復活を下敷きに、マトリックスに支配された世界から、人類を覚醒させ、真の世界に導いていくという十戒のような世界観を、コンピュータープログラムの世界に置き換えているだけという解釈も成り立つ気がします。ネオはバグとして必然的に発生し、キーメーカーにより修正プログラムとなって、マトリックの修復を行ったという表面の物語に、こうした聖書の世界観を織り込むことで、人々に理解しやすくている演出だとも云えるかも知れませんね。

『マトリックス』は、公開時にエジプトをはじめとして、主にイスラム教国で上映が禁止されたというのも、判る気がします。ユダヤ人がユダヤ人のために製作した映画とも解釈が可能ですし、イスラム教徒には反感を買いやすいストーリーです。必然というか、キアヌ・リーブスがマトリックスの後に選んだ作品『コンスタンチン』は、ローマ皇帝コンスタンティヌス一世(constantine)の名を冠した題名でした。コンスタンティヌス一世はローマ帝国でキリスト教を最初に公認した皇帝です。新首都をコンスタンティノープル(Istanbulの旧称)に建設したことでも、歴史に名を残しています。天国と地獄を見ることの出来る超能力を有した青年コンスタンチンが、死神と闘うキリスト教的世界観は、既にマレーシアで上映禁止になっているそうです。

ここ数年、ハリウッド映画は、こうしたキリスト教的世界観(原理主義的思想)を物語にする作品が増えてきている気がします。これから公開される『キングダム・オブ・ヘブン』も、その流れにある作品です。先日亡くなられたローマ法王の葬儀に、現職大統領として初めて参列したブッシュ大統領。彼の参列も、アメリカ社会でキリスト教原理主義の台頭を意識してのことなら、イラク戦争はさしずめ十字軍の遠征。正義のない戦争を、正当な戦いに置き換える大衆誘導なんだろうというほど、私は陰謀論者ではありませんけどね。

2005年4月10日 (日)

反日暴動を見て思うこと

中国で再び反日デモが盛んになっています。4月9日に北京で一万人規模の反日デモが起き、一部が暴徒化しました。今月3日に日本の国連安全保障理事会常任理事国入りに反対する青年らの抗議デモが発端となって、いつのまにか反日運動へと拡大してしまい、四川省成都市では日系スーパー『イトーヨーカドー』への襲撃や数千人規模の反日デモに発展。広東省深セン市でも同じ日、約二千人が反日デモ行進。その他にも東北部(旧満州)や広東省の省内で日本商品の不買運動が伝えられるなど、反日気運はあっという間に中国全土へと拡大しています。既に、尖閣諸島の領有権を主張する『中国民間保釣(尖閣防衛)連合会』という民間反日団体が、先月からインターネットを通じて日本の歴史教科書問題や安保理入り運動に反対を呼びかけていましたが、それに呼応したかのように署名活動が各地に広がりをみせるなど、とにかく反日運動のネタには事欠かない様相です。

この抗議デモの報道を見て、貴方は何を感じられたでしょうか。私達は、どうしても自分達の尺度で出来事を考えがちですが、例えば中国の抗議行動に関しては、日本人の尺度では測れない問題が隠されています。中国の憲法には「中華人民共和国の市民は、言論、出版、集会、結社、進行および示威の自由を有する。」(第35条)という条文が存在します。日本人から見れば当たり前の条文のように思えますが、ここにいう「進行および示威」(デモ行進)を、中国政府が市民に無条件で許しているかというと、そうではありません。実は政府に対して批判的なデモは認められない仕組みになっているのです。中国でもデモを行う時には当局に届け出をしないと行けません。デモはすべて当局の許可制になっているのです。当然、政権を批判したり、政府にとって都合の悪い抗議行動は許可されません。こんな仕組みですから、反政府デモの届け出をした個人やグループは当然は当局からマークされますし、実際にしばしば政治犯として逮捕されているようです。当然ですが、誰も当局に目を付けられたくありません。自然に反政府デモの届け出はなされないということになります。どうしても反政府デモを行いたければ無届けで実行に移すしか有りません。そうすると当局は無届けを理由にデモの参加者を摘発するのです。つまり、相当な覚悟がなければ、政府への非難を大衆運動としては起こせないシステムが確立されいます。このことがひいては言論弾圧につながっているのですから、中国に実質的な言論の自由があると思い込むのは誤りなのです。少し忘れかけている方もおられるかも知れませんが、1989年6月4日に北京市で発生した天安門事件を知れば、この話はよく理解できると思います。あの頃、政府に対して民主化を求めるデモ行進をした人々が、戦車と兵士によって鎮圧されたのですから。

<天安門事件について>
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

同様の事例で私が個人的に印象に残っているのは、2003年の12月に報道されたひとつの事件です。中国のウェブサイト上で、言論や結社の自由を認めるよう中国当局に呼びかける論文を発表して、「国家政権転覆罪」で逮捕、起訴されていた中国・西安の元中学教師顔均氏に対し、西安市中級人民法院(裁判所)が懲役2年の有罪判決を言い渡したのです。顔氏は天安門事件の再評価、失脚した趙紫陽元首相の軟禁解除、自主独立労組結成の解禁などを求める5本の論文をネット上で発表した行為が訴追の理由だそうです。日本で同様のことをしても、当たり前ですが逮捕されることはありません。しかし、反日の書き込みをいくらしても中国で摘発はされないのはなぜなのでしょう。

<【中国】ネットで「言論の自由」訴えた元教師に懲役二年>
      http://world.seesaa.net/article/2255.html

こうした仕組みを知ると、今回の様々な形での反日抗議運動が実施可能だったのは、中国政府が許可をしたデモで有ったからということが判ります。表面的には、成都での日系デパート襲撃事件と反日デモとの背後関係は不明と報道されていますし、深センの抗議デモは反日グループが組織していることは伝えられています。産経新聞の記事によると「中国政府は安保理問題では”日本の歴史問題への反省が必要”と大衆に迎合的な態度をとっており、反日行動を抑止する動きは当面出ていない。」と控え目な論評していますが、歴史問題への反省が必要というキーワードが、ある事実を伝えようとしている気がして成りません。

中国の官製デモの特徴は、実際のデモのテーマと関わりなく、必ず「日本帝国主義を打倒しよう」というスローガンがアレンジを変えた形で登場することです。例えば、2003年9月に広東省珠海で発生した日本人団体による集団買春事件。ホテルに500人余りの売春婦を一度に呼んで、セックスパーティーを行った事件を憶えておられると思います。事件自体は破廉恥な行いであり、非難を免れないのは事実です。しかし、この事件の起こった日が、満州事変から72年目にあたる日の前後にあったことを喧伝し、世論をさらに悪化させる工作があったのも事実です。中国国内のインターネット上には、連日「人面獣心の日本人」とか「第2の国恥」という表現が飛び交い、「エイズを日本に輸出しろ」、「日本製品を買うな」という扇動的な文も踊っていました。そして、この事件を取り上げた韓国のマスコミまでもが、「日本の歴史教科書問題と戦前の日本の化学兵器による被害などが重なり、反日感情は最高潮に達している」とエールを送るに至っては、何をかいわんやです。

<韓国中央日報の記事>
 http://japanese.joins.com/html/2003/0928/20030928185344400.html

今回の安保理問題では、韓国も北朝鮮も反対の姿勢ですから、中・韓・北朝で、反日気運を国民運動という形で盛り上げやすい情勢が存在していました。これが国内的には不買運動や暴動といった事件を正当化しやすい状況になったのも幸いでした。普通なら、オリンピックや万博の開催が控えている中国で、暴動が多発することは治安の悪化を世界に喧伝するようなものです。けして好ましいことではありません。本来なら政府が必死になって暴動の拡大の防止と鎮圧に走り回ることでしょう。それが反日運動であるだけで、何ら積極的な治安活動が行われないのは、つまりは政府にとって、治安の不安定というダメージと引き換えにしても良い事態だったということでしょう。ある意味、暴動に発展しても仕方がないし、ある程度は争乱も許容しておこうという判断が当局にあったと思われます。そして、他の問題に転嫁しないように、ちゃんと収拾できる治安部隊を配して見守ったというのが現実の姿だった気がしてなりません。今回の日本大使館への投石事件も、投石までは許容範囲で、あれ以上の発展は許されないことだったのでしょう。

普通の日本人の立場からすれば、1979年から開始された対中国ODAが既に累計供与額で約3兆5千億円に達し、26年間ものあいだ税金を注ぎ込んできたのに、未だに「反省していない」、「歴史認識に問題がある」などの苦言を長年に渡って呈されては、質の悪い詐欺にあっているような気分にすらさせられます。公式には日中両国政府の間で、国交の正常化が行われた際に、中国は戦後賠償の請求権を放棄しています。さらに言えば、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」という日本側の謝罪も明記され、まさに日中間の国交は正常化されたのですから。

☆日中共同声明(抜粋)
五、中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

 <日中共同声明全文>
    http://www.panda.hello-net.info/data/seimei.htm

それでも中国国内では「ODAは戦後賠償の代わりであり、もらって当然」と考える人は多いようです。要するに、中国の一般の人は『日中共同声明』の内容は知らされていない(教科書等で取り上げられていない)ということでしょう。そうなると日本のODAが戦後賠償に近いものだと考えるのは自然な捉え方です。また、ある程度の事情通は別の意味で日本の戦後補償は僅かしか行われていないと感じる事情もあります。それは、ODA累計供与額の約9割を占めるのは円借款だということです。実は返済不要な無償資金協力や専門家派遣などの技術協力費用負担は、残りの一割に当たる約3千5百億円ほどしかおこなわれていません。円借款も低利で長期の融資ですから、返済の負担が重いとはいえませんが、華やかな経済発展の裏側で、貧困にあえぐ九億人の農民を抱える中国には、引き続き日本の援助を期待している面が無いとは思えません。では、どうして日本を逆撫でするような当て擦りをするのでしょう。

一部の評論家もいうように、国内の不満をガス抜きする方便として、反日を誘導するというのは納得のいく指摘です。古今東西、国内の閉塞感を外に向けさせることで解消するのは常套手段です。しかし、反日誘導は、それだけに止まらないのではないでしょうか。敢えて不買運動にまで拡大させることで、日本の世論を誘導しようとする効果を狙ってもいると思いませんか。このまま不買運動が拡大すれば、中国に進出している日本企業は被害を受け続ける事に成りかねません。これでは日本企業は悲鳴を上げてしまいます。例えば、アサヒビールの不買運動は、アサヒビールのライバルとなる国内のビール会社にアサヒビールのシェアーを与える効果も狙えます。事態が沈静化しても、このシェアーの回復は企業の努力でしか補えません。まして、民衆の中から起こった不買運動では誰にも損害賠償を訴える訳にはいかないのです。こうした被害の数々が少なからず日本の政府にも圧力となって伝わります。念が入っているのは、この問題に小泉総理の靖国参拝問題を絡めて、すべての元凶が日本政府の現政権にあるかのように転嫁することです。こうなると、日本政界にいる親中派の人々が、これを好機と倒閣運動や平和運動の旗を振るのですから、日本にも被虐的な政治家や扇動家がいるものです。さらに、中国政府からすれば、日中の経済水域で政治問題化してきた『春暁』ガス田開発、さらには日本がアメリカと友に勧めるミサイル防衛など、中国にとって頭の痛い問題を、同様の手で揺さぶり続ける布石にもなっているといったら被害妄想ですか。一部の人は経済的な結びつきを心配されると思いますが、まだまだ中国が独自に製造できない工業部門の製品は沢山あります。また、日本向けに輸出する食品や衣料品などで潤っている産業が有る限り、『政寒経暖』の関係は存在し続けるのです。まあ、金の切れ目が縁の切れ目という関係ではありますが。

中国の政治活動は、例えていえば囲碁のようなものでしょう。どの国家も自らの国益を優先して内政と外政を行うのは当たり前のことです。また、外交的には二枚舌も三枚舌も信義に悖る行いとはいえません。我々も中国からの批判に恐れず、批判は批判として聞く耳を持ち、領土問題のように将来に渡り禍根を残すような問題には正論で堂々と対応するべきだと思います。戦後60年、極東の政治情勢は様変わりをはじめています。特に中国との対立は、これからも増えるでしょう。差し手を誤らず、勝とうとはせずに、負けない算段をすることです。勝とうとすれば無理をしなければなりませんから。碁石の中にはアメリカという強力な黒石もあります。日本一国で碁をさすのではなく、二極から三極に碁盤を広げる外交を選択すべきだと思います。

2005年4月 7日 (木)

少子化対策への提案

最近、貴方の住む町の公立の幼稚園や保育園の廃園や民営化が盛んに行われていませんか。あるいは、近くの公立幼稚園と公立保育園の統合化が盛んになっていませんか。

こうした動きは、どうも幼稚園の人気が今ひとつなのが原因のようです。 保護者側のニーズとして、幼稚園の使い勝手が良くないのは確かです。朝9時頃の開園で、夕方3時半頃に閉園する運営スタイルは、共働きの夫婦にとって、子供の送り迎えだけでも負担になります。専業主婦のいる家庭や、送り迎えを頼むことの出来る祖父母や兄弟が近くにいる家庭でないと、利用がしにくい施設になっています。 一方、保育園の方は、早朝や夜間に子供を預かってくれる制度があったり、預かってくれる年齢も0歳児から小学校就学前までと幅があったり、多様なニーズに対応する利用しやすい施設になっています。最近では『一時保育』といって、どうしても1日だけ早朝からお昼まで子供を預けたい場合に、事前に予約をすれば受け入れて貰える制度もありますし、奥さんが入院したとか、家族が入院して看病が暫く必要な場合などに、幼児を預ける事の出来る『短期保育』という制度なども用意されています。

実は、法的に見ると、幼稚園は教育施設として設置されていて、保育園は児童福祉施設として設置されています。所管する官庁も、幼稚園は文部科学省、保育園は厚生労働省と違います。ですから、幼稚園教諭という教員免許はありますが、保育士免許は教員免許ではありません。看護士と同じ資格免許なのです。前述した幼稚園と保育園の運営の違いも、この制度の違いに端を発しているのです。幼稚園は教育施設なので、『学校教育法施行規則』に則った運営を法律で義務付けられています。行われる教育の内容も『幼稚園教育要領』に従って指導計画を作成することになっています。小中高の学校と基本的には同じ運営方法なのです。無論、一週間に何時間の教育をするのかも定められていますので、授業時間を現場の判断で長くしたり短くしたりは出来ない仕組みです。他方、保育園では『保育所保育指針』に 保育の基準が示されています。この指針の大前提は「保育に欠ける乳幼児を保育する児童福祉施設」として機能することです。ですから、保育する対象のニーズに応える義務があるのです。その保育の内容も6ヶ月の乳児から6歳の幼児まで、それぞれの年齢に応じた発達段階を踏まえて定められています。指針は時間的なカリキュラムを細かく定めるのではなく、保育士が子供と関わる上での内容と配慮事項が決められているだけですから、実際の指導計画は現場の保育士が実状に応じて組み立てることができます。こうした点が保育園を保護者のニーズに反応しやすくしているのです。

少子化の原因として、子育ての煩わしさ、育てにくさを上げる夫婦も多いといわれますが、遅蒔きながら、国も子育て支援の立場から、幼稚園と保育園の垣根を取り払い、保育と幼児教育の両立を目指す動きを始めているところだとおもいます。ただ、所管官庁同士の既得権争いや、補助金の問題、職員の待遇面や労働条件など、詰めなければならない問題は多いために、市町村によって改革の速度が随分違っているようです。急速に進んでいる市町村合併によって、幼保一体の施設が増えてくるのは確かです。

こんな風に子育て支援を進めるのなら、国に考えて欲しいことがあります。それは義務教育との絡みですが、3歳児から義務教育を始めてみませんかという提案です。要するに保育料は3歳児から無料にして、給食費や雑費のみ徴集する方式に変える方が、少子化対策としては有効なのではないかと思うのです。ご存知のように現在の義務教育期間は12年です。3歳から始めると小学校で義務教育期間は終わることになります。あとは国民の選択でしょう。税金が増やしてでも中学の義務教育を辞めないか、ある程度の補助金を出す条件で中学の有料化に踏み切るかということです。個人的には有料化を薦めますが。

一見、無茶な意見のように思われるかも知れませんが、高校の教師から見ると、義務教育下の中学では、3年間一度も学校に登校していない生徒でも卒業させていますし、小学3年生程度の学力の生徒でも卒業させています。理由は義務教育だから、無理にでも3年間で卒業させるしかないからです。これだから、中学に留年は相当な理由が必要ですし、退学は当然のことですがありません。学力低下を問題にするなら、義務教育の制度を見直すべきだと思うのですが、この話題は後日に譲ります。

さて、保育園で3歳児から義務教育化する話以外にも、子育て支援としては、早朝や夜間の保育時間の延長や、土曜日曜などの休日の保育がある方が保護者のニーズに応えられると思います。無論、こうした基本外の利用は有料にせざる得ないですけど。究極の共働きの国である中国では、月曜に子供預けて、金曜の夜に子供を迎えに来る保育園が普通にあるそうです。預けられた子供は週に5日は保育園で合宿生活です。こんな極端な例は日本では受け入れにくいでしょうが、1日や2日の宿泊を含めた保育には潜在的なニーズがあると思います。現実に無許可の保育所では宿泊保育も珍しいことではないようです。

こんな風に、共働きを継続できる環境を整えた社会では、ある程度の少子化は歯止めが掛けられると思います。出産にはどうしても女性に負担が大きくかかり、社会復帰を難しくしているのは事実です。産前産後の出産休暇を6ヶ月間有休で取れる制度の確立などへの取り組みも政治的に進められる課題です。それより問題になるのは社会復帰後の子育てなのですから、この部分に注目した支援を広げていくことと、金銭的な負担を軽減していくことが、結局は少子化の歯止めになるのだと私は思っています。人口減少に歯止めを掛けられれば、税収の面でも、年金や健保の面でも、その見返りは将来に必ず還ってくるのですから、国力の維持という大局的な発想で少子化問題に取り組む姿勢が欲しいですね。

トップページ | 2005年5月 »

2015年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
フォト
無料ブログはココログ