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2005年8月

2005年8月23日 (火)

『ヒトラー最後の12日間』 2 ◇総統は自ら墓穴を掘った

「総統は自らの監獄を地下に作りたもうた」

映画は、ほとんどがベルリンの総統官邸地下壕(というか地下要塞)で進行します。それ故に、普通の建物を見るようには全体像が容易に判りませんよね。映画を見ている側には、そこが広いものなのか、狭いものなのか、あまり実感が湧かなかったのではないでしょうか。その上、困ったことに地下壕は他にも出てきます。例えば傷ついた兵士の足を切断している地下壕が出てきてましたが、あれは何処の地下壕なの?とか。いろいろ混乱なさったのではありませんか。あるいは、何処から何処までが総統官邸の地下壕なのかも実は良く判らないまま、モヤモヤしている方も居られるのでは・・・と言うことで、まずは、その点を少し解説しながらお話を始めたいと思います。

総統官邸の地下壕建設に関しては、少しばかりミステリーじみた逸話が伝わっているのをご存知ですか。実はヒトラーが首相官邸の主になったばかりの1933年頃には、既に建設が始まっているのです。35年には官邸の裏側に迎賓用大広間(映画の冒頭で総統最後の誕生日を祝っていた場所)を増築したのですが、この際も地下壕を併せて作らせました。38年には映画にでも出てくるアルベルト・シュペアー(軍需相)が設計した新総統官邸が建設されます。その時にも本格的な地下壕が予め設けられました。新総統官邸地下壕の規模は、全長180メートル以上、部屋数90以上という大きなものです。また、既設の地下壕とは地下通路で結ばれ、その全長だけでも90メートル以上あったとか。まさに総統官邸の地下は迷宮そのものだったのです。

ただ、これらの地下壕はどちらかというと防空壕的性格を持つもので、長期に籠城する地下要塞のような性格は有していませんでした。さしずめ、首都空襲の際に避難場所を確保するのが目的ではなかったかと思われます。というのも、第一次大戦終了後、つかの間の平和を享受していた欧米の軍事専門家の間では、ドゥーエ(Giulio Douhet)が大戦前に提唱した『制空権とその獲得』(1909年発表)についての議論が盛んに行われていました。ドゥーエは制空権無き戦いは必ず敗北すると予言し、航空機による都市の爆撃のみで敵を屈服させられると提唱していました。第一次大戦で本格的な兵器として実用化された航空機が、エンジン等の性能向上でさらなる発展の様相をみせていた時代です。また、多くの犠牲者を強いた大戦の悲惨さが、味方側に死傷者を出さない戦い方への関心に向いていた時期だけに、この議論は伯仲していたとも云えます。例えば、アメリカでは陸軍航空隊のミッチエル(William Mitchell)が『戦略爆撃』の有効性を軍上層部に唱え、陸軍航空部隊の分離と新たに空軍の創設を強く訴え過ぎて、ついには罷免されるという事件までおこっていました。

特異の感を持っていたヒトラーが、こんな軍事論争に無関心な筈がありません。あるいは彼は、直感的に航空機によるベルリン爆撃の可能性を予想していたのではないかと、私は思っています。航空機が軍事革命を起こせるのか否かは、第二次大戦開戦まで結論がもつれ込みましたが、ヒトラー率いるドイツ第三帝国・国防軍が『電撃戦』という空陸一体(戦車と対地支援攻撃機の連動による奇襲戦法)の攻撃方法を編み出し、それが世界の軍隊に大きな影響を与えたという事実を考えると、この推察も荒唐無稽と片付けられない気がします。(これをもじって昨年の米軍によるイラク侵攻作戦を『麻痺戦』と例える人がいます。いまだに電撃戦思想は健在なんですね)

それにしても、地下壕建設を進めている時、まさにナチスドイツは日の出の勢いで、欧州中に国威を発揚していたのですから、本当に不思議なお話です。この辺りにも、ヒトラーが映画で見せていた極端な悲観と楽観という彼の性格の端緒を現しているようなお話ですね。

さて、お話は再び官邸地下壕に戻ります。第二次世界大戦に突入した後の1942年。既設の地下壕よりも深いところに、通称「カタコンベ」といわれる地下要塞的性格の施設を設計し建築することを、ヒトラーはシュペアー率いる軍需省建設局に命じています。「カタコンベ」は一説では地下10メートルの地点に、コンクリート厚3メートル以上の防護壁を持つ頑強施設として構築されたといいます。

ちょうど、この時期はソ連との戦いにも陰りが見えていた頃と符合しますので、いずれは首都で籠城する事態が生じるかもしれないと、彼が予想し用心のために(自らを安心させるために)建設を命じたのかも知れません。この工事を契機として、以後、ウイルヘルム通りとフォス通り、ヘルマン・ゲーリング通りの三つの大路に囲まれた官庁街の中心に建つ総統官邸は、「カタコンベ」が完成した後も地下壕・地下施設の増築を繰り返すようになります。官邸裏の庭は常に何処かしら掘り返され、鉄筋とコンクリートが何十トンも埋め込まれていきました。こうした総統官邸の工事は終戦の時まで止むことはなかったそうです。かつてはドイツらしい整然とした庭園の風景は、まるでヒトラーの心中を現すかのように雑然としていったのは、どこか象徴的な話ではないでしょうか。この官邸裏に広がる地下壕には、映画にも出てきた車両用地下壕、使用人用地下壕などの他、総統府の幕僚達の宿舎壕などが設けられ、まさにドイツの心臓部が全て地下に移ったようでした。

当のヒトラーは、「カタコンベ」の中に設けられた20室ばかりの部屋がある、ぶ厚いコンクリートに囲まれた空間に居ました。そこで、彼が安心して過ごせたかと云うと、実はそうではありません。そんな彼の気持ちを現していたのが、ヒトラーの私室にあった酸素ボンベです。この酸素ボンベは映画の中でも、ちゃんと描かれていましたが、皆さんはお気付きになりましたでしょうか。実は地下深い要塞の換気は電気で駆動する装置に委ねられていました。もし、換気装置が止まれば酸欠になります。その恐怖から逃れるために、彼は酸素ボンベを用意させたのでした。この点を演出する必要性からか、監督は何度も発電機を操作する電機技師の姿を挿入していましたね。あの発電機を動かすことはヒトラーの命を動かすことと同義と描きたかったのかもしれません。

しかし、敵に追いつめられて自殺の道を選ぶことになる彼の末路を思えば、それはまさに杞憂としかいいようがない心理です。自らの身の安全にこれほど過敏な人物が、自殺を選ばざる得なかったのです。最後の数日に彼が見せた苛立ちや諦観、時折ぶり返すような生への執着は、こういう複雑さの中で出てきたものだと思われますが、皆さんはどう思われましたか。

そんなヒトラー終の棲家である「カタコンベ」の中は、映画でも描かれているように事務用の什器類があるだけで、まともな家具と呼べるものはエバの部屋とヒトラーの部屋にある僅かなソファーやテーブルのみでした。映画の中でベルリンを去るシュペアーがエバの部屋を訪れた際に、彼女がシュペアーのデザインした家具をわざわざ誉めるのは、そんな侘びしい暮らしを癒してくれた家具への愛着を通して、さりげなく彼への感謝と別れを伝えようとしていたのではなかったでしょうか。家具という道具に対する感覚は、日本人と欧米人では随分異なるようですし、特に欧州では代々家具を受け継ぐなど、生活に欠くべからざる装置であったと云われますので、コンクリートの壁に囲まれて暮らす辛さを、シュペアーデザインの家具達が癒してくれていたのでしょう。

ところで、ヒトラーが建築に対して並々ならぬ関心を持っていたのは有名な話です。そういえば、映画の中でも、シュペアーが設計した将来のベルリン都市計画をモデリングした模型を前にヒトラーとシュペアーが語る場面がありました。ヒトラーの夢想していた未来と、地下壕へ立て篭もっている現実の対比は、まさに悲劇以外の何者でもありませんね。そんな建築マニアが自ら作らせたコンクリートに囲まれた監獄のような部屋で、やがて自らの死を考えねばならなくなるのですから、総統は自ら墓穴を掘ったようなものでした。いずれにせよ、長い地下暮らしは、ヒトラーを心理面でも蝕み(肉体面では暗殺未遂事件以来右手が自由にならないなどの後遺症に悩まされていました)、躁鬱を激しくさせていったのは、映画でも丁寧に描かれていましたね。映画を観た私の友人は「あんな弱いヒトラーを想像しなかった」と言っていましたが、世間に流布されている強気のヒトラーとは全然違うイメージを描くことも、この映画が製作された意図に連なるものではなかったかと思います。しかも、まったくの狂人ではなく、普通の人間として描くことが狙いだったのでしょう。

「かくも多い食事場面の意味」

映画をご覧になってお気付きになったと思いますが、2時間半を越える映画の中で、食事をする場面が何度となく出てきます。

ヒトラーは菜食主義者で、大食を好まず、肥満を嫌っていたと云われています。派手好きで太鼓腹のゲーリングに信をおかなかったのも、こんなヒトラーの心理を物語っていると思います。そんなヒトラーですから、食事の質には常に気を遣っていました。しかも、味にはうるさく、調理法にも指図することが度々あったそうです。そんなヒトラーが、生涯好んだのは意外なことにイタリア料理でした。ナチス勃興の地ミュンヘンには、ヒトラーが通ったイタリア料理店『オステリア・イタリアーナ』が今も現存しています。案外、ムッソリーニを気に入ったのは美味しいイタリアンをご馳走してくれたからだったりするのかも知れませんね。彼の最後の料理人はコンスタンツェ・マンツィアリィと云いました。映画の中でもちゃんと彼女は描かれていますが、名前からしてイタリア系のようです。(映画の最後の方で装甲車の座席に放心状態で座り込む彼女が描かれていましたが、彼女がその後どうなったのか実は不明なのです。一説では自害したともいわれています。)

そんなヒトラー最後の晩餐は、映像で見た限りはラビオリのトマトソース煮のようでした。ラビオリの中には肉ではなく、恐らく馬鈴薯と潰してハーブと塩胡椒で味を調えた具が入っていたのではと想像します。あの食卓には、黒パン以外には何も出されていませんでした。最後の晩餐にしては侘びしい食卓ですが、案外普段の彼の食卓はあんな質素なものではなかったでしょうか。というのも、招聘に応じて包囲下のベルリンにやってきたグライム空軍大将(当時第6空軍司令官)とハンナ・ライチュ(高名な女性飛行家)を歓迎する夕餉の席でも、陪席する者達は、厚切りハムのグリルと付け合せのザワークラフトとグリーンピースであるのに、ヒトラーのみはパスタとホウレン草(恐らく缶詰の)をクリームソースで合えたものを食べていました。そう云えばワインも出てはいませんでしたね。飲酒に関してもヒトラーはワインを少し口にする程度で、普段はミネラルウォーターを飲んでいました。コーヒーも好まずハーブティー(ミントティーを好んだといいますが、ミントには鎮静効果や健胃効果があります)を嗜みました。そういえばコーヒーも映画には出てこないですね。大酒飲みの多いドイツ人としては付き合いにくい人物だったでしょう。ドイツと言えばビールですが、これも出てきませんでした。他に酒で出てきたのはシャンパンとシュナップスという馬鈴薯で作られた焼酎、それにウイスキーのようでした。

こんなヒトラーの食事に関する微笑ましいエピソードは、ヒトラーがケーキ好きであったという逸話です。地下壕生活でも、時に二つも食べたりしたそうです。彼はチョコレートケーキが好きだったとか。そういえば彼が青春時代を過ごしたウィーンには「ザッハトルテ」というキングダムチョコレートケーキがありますね。貧乏学生が、そんなものを食べられたとは思いませんが、地下要塞暮らしが長くなるにしたがい、いつもケーキを食べたがったとも伝わっていますので、彼の食に関する戒律も最後は少し緩んでいたようです。

食事は人が生きていく上で欠くことの出来ない欲求です。俗に食欲、睡眠欲、性欲は人間の本能だと云われますね。戦記を読めば判りますが、戦場で飢えるとまず性欲が無くなるそうです。精神的に辛くなると、やはり性欲はなくなります。EDの大半は精神的ストレスによるそうですから。ですが、食欲と睡眠欲だけは無くならないそうです。人間は寝なければやがて発狂すると云われていますし、食べなければ衰弱して死んでしまいます。それ故に、あんな煉獄の世界でも、人は眠りますし、食事を楽しむことが出来るのです。しかも、上手い不味いという事まで言えるのですから、食はまさに人間の性を現すように思います。戦場では、敵兵士の死骸の横で兵士は平気で食事をすることが可能になるそうですから、慣れると云うことは何とも恐ろしいですね。映画でもこの点はしっかり描かれていました。例えば、食事を作るにも、するにも欠かせないのが水です。映画の中でも、水道が止まり、井戸の手押しポンプに水を汲みに来る市民が描かれています。戦場の真ん中でも、命懸けでも水を汲まねばならない人間のつらさを現す印象深い場面でした。水を汲みに行くだけで生死を賭けねばならない戦争の悲惨さは、この映画を見られた誰もが感じられたと思います。片一方で、総統官邸では酒に酔い、宴を楽しむ親衛隊や軍、ナチス幹部が描かれていました。酒に逃れて酩酊したり、唄い踊ったりすることで、少しでも死への恐怖心を忘れようとする場面には、誰もが幻滅や憤りを感じられたでしょう。こうした対比を通して、市街戦の悲惨さや、ヒトラーと幕僚達の生への執着を描く狙いがあったのでしょうね。冷静と狂気の狭間の演出は映画のラスト近くで、総統壕から退避した一団が、一息入れて缶詰を食べている場面で見事に描かれていました。その時、内科医でもある親衛隊大佐が「まず食べろ、死ぬのは何時でも出来る」と言いますが、食べることで生への回帰をし、辛くなると再び死へと目を向ける。まさに人間の業を描いているようでしたね。


2005年8月 3日 (水)

『ヒトラー最後の12日間』のために

☆ナチスは合法的に政権を獲得した

『ヒトラー最後の12日間』という映画が、この夏公開になっています。新生ドイツが戦後60年を経て、はじめてヒトラーに真正面から向き合った映画として、ドイツをはじめ欧州では昨秋大ヒットとなった久々のドイツ映画の大作の日本公開です。

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今回から数回にわたって、この映画の内容に即した「ヒトラー最後の日々」についての、私なりの考察と解説を試みたいと思います。(「最近ブログの更新を怠っている!」とある読者の方に暖かい励ましを受け、ついその気になりました)

さて、いきなり1945年の最後の12日から話を始めると、歴史に詳しくない人が面食らうといけませんので、少しだけ歴史の勉強をさせて下さい。

ナチス(正式には国家社会主義ドイツ労働者党)が台頭した遠因は、ドイツ帝国が第一次世界大戦に敗北した事にあるのは皆さんも御存じと思います。しかし、敗戦の混乱で人気に火がついたナチスも、ミュンヘン一揆の失敗で一度はその人気も地に落ちます。その瀕死の状態を救ったのが世界大恐慌だったというのは学校ではあまり教えていない皮肉なお話です。

戦後賠償の重い負担による国庫の破綻、敗戦と不況という大変な社会の混乱状況。疲弊したドイツ社会で、政治家は衆愚政治の見本のような、汚職と不正の代弁者としてしか生きていませんでした。国民は政治のあり方に不信感を抱き、政治離れ、無関心が広まっていました。しかし、そうした弊風の吹き荒れた世の中でも、先の見えない世界大恐慌によるドイツの不況は、もう、どうしようもない所まで来ていました。そこに現れたのが急進的な国家改造(今なら改革というのでしょう)を唱えるヒトラー率いるナチスでした。

<関係略年表>
1918 ドイツ、第1次世界大戦で敗北
19 ワイマール憲法制定、ドイツ労働者党結成                                (翌年ナチスと改称)
21 ヒトラー、ナチスの独裁者となる
22 イタリアでムッソリーニのローマ進軍                             (ファシスト内閣成立)
23 ナチス、ミュンヘン一揆に失敗
25 ヒトラー、『わが闘争』発表
29 アメリカで世界恐慌始まる
30 ナチス、総選挙で第2党へ。共産党第3党。
31 金融恐慌ドイツに及ぶ
32 総選挙でナチス第1党へ。パーペン内閣。                         シュライヒャー内閣。
33 1月ヒトラー内閣成立。3月全権委任法成立、                       ナチスの独裁確立。

闇夜を照らすがごときナチスの登場に、最初に支持を与えたのはドイツ中産階級や農民たちでした。経済混乱に対応できない既存の中間諸政党を捨て、ナチスを支持する庶民層は徐々にですが拡大していく勢いを見せていました。風潮に敏感なナチスは、強く大きな祖国ドイツの再興と、その栄光を唱える徹底的な民族主義をことさら訴えるようになり、以前から存在したドイツ再興の国民的機運を継承する形を取るようになりました。また、一方では失業対策をアピールしたり、社会福祉の充実を約束したり、その主張は、けして我々が信じ込まされているような荒唐無稽なものではありませんでした。勿論、それ故に、一般民衆にもナチスは強く支持されていったのです。(この辺りは数年前の小泉政権成立時の熱気と期待を思い出せば少しは理解できるのではと思います)

そんなナチスの暴走を阻止できたはずのドイツ国防軍は、ナチスが軍備の大拡張を訴えはじめ(敗戦で軍備は最低限の保有しか認められていなかったので)、愛国運動を展開していくと、当初は新興政党であるナチスの胡散臭さに不審の目を向けていた将校団も、徐々にナチス支持に傾いていったのです。

そんなナチスは選挙の度、確実に議席数を増やすことに成功していきます。この勝利の方程式は、ナチスが充実した党組織を要し、組織を利用した先進的な宣伝活動を行ったことによります。この宣伝を企画には、あのゲッペルス(のちの宣伝相)も加わっていました。

彼らのアイデアは、

(1)ヒトラーの演説を吹き込んだレコードを各家庭に無償で配って名を売る
(2)ナチスの活動を映像化したニュース映画を映画館に無料で提供して名前を覚えさせる
(3)歌と音楽を利用して女性層(選挙権はない)や子供層にも浸透する作戦を採る
(4)チャーター飛行機で、ヒトラーが各地を遊説し、短期間で全国的な知名度を上げる。

などでした。

この人気に気をよくしたヒトラーは、1932年4月の大統領選挙に出馬しましたが、現職のヒンデンブルグ大統領に敗れさります。しかし、同月末に行われた地方選挙でナチスは大半の州で大勝利をおさめました。

国防軍の実力者シュライヒャー中将(国防省官房長)は、5月8日にヒトラーと会談。SS隊(親衛隊)・SA隊(突撃隊)というナチス私兵隊組織の活動禁止を解くことを条件に、新しく創設を目指していた大統領直轄内閣への協力を求めます。ヒトラーもこれを受け入れ、パーペン(中央党、プロイセン州議会議員)を首班とした新内閣が成立しました。

しかし、パーペン政権は連合国側への30億ドルに及ぶ賠償金支払いを受け入れたことを議会で批判され敢え無く総辞職。7月31日に再び総選挙となりました。その結果、ナチスは37,3%の得票数を獲得。608議席中230議席(それまでの倍以上)を得て、ついに第1党となります。(他に社会民主党133,共産党89,中央党75,国家人民党37)・ヒトラーは、こうした議会情勢をうけて8月5日シュライャー中将と密会。中央政府の首相、内相、法相、経済相、航空相、プロイセン州政府の首相、内相、法相をナチスから出すよう求めましたが、それを伝えられたヒンデンブルグ大統領はこれを拒否。強硬に第二次パーペン内閣を成立させました。8月30日、第二次パーペン内閣に批判的な中央党は、ナチスに協力して、ゲーリング(後の空軍大臣)を国会議長に選出。9月12日、議会解散権を行使せんとする首相と各党との駆け引きの中で、ついに不信任案が可決されましたこれに対抗して、同時にパーペンの提出した議会解散令も発効。11月には、この年2回目の総選挙となりました。

その結果ナチスは現有議席から34議席を減らして196議席となりす。かろうじて第1党の位置を保ってはいましたが、これはナチスには予想外の展開でした。敗因は、大不況下でのたび重なる選挙を国民が嫌ったこと、ナチス党の資金繰りが悪化して以前のような選挙活動を行えなかったことなどが背景として考えられています。

選挙後間髪を入れず、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領と会見して、首相の地位を要求しましたが、老獪な大統領はまたもこれを拒否。あくまでもパーペンに組閣を命じようとします。ところが自ら首相の地位をねらっていたシュライヒャー中将が、これに公然と反対を唱え始めたため、さすがの大統領も仕方なく中将に組閣を命じました。翌33年1月、シュライヒャーに裏切られたと知ったパーぺンはヒトラーと会見。二人はヒトラー内閣樹立について原則的に合意します。

同月、リッペ州選挙が行われますが、ナチスはこれを『天下の分け目の戦い』と位置づけて、総力を挙げて宣伝に努め、これに勝利します。ここにナチスの政権獲得の機は熟しました。この頃から、日の出の勢いのナチスに財界も献金を盛んに行ない、シュライヒャー内閣は議会の支持を完全に失います。

それでも、ヒンデンブルク大統領は最後までパーぺンの再任を望んでいましたが、ヒトラーが大統領側近に自身への支持を得られるようにと工作をし、さらにはパーぺン自らが大統領を説得したことによって、1月30日、ついにヒトラー内閣が成立する運びとなりました。

第一次ヒトラー内閣のメンバーは、

首相:ヒトラー 

副首相:パーペン 

国防相:ブロンベルク中将 

外相:ノイラート男爵   

蔵相:クロジク伯爵  

農相:ブラウン男爵

逓相:ルーベナッハ男爵               

法相:ギュルトナー  

内相:フリック  

経済相:フーゲンベルク(国家人民党首)        

労働相:ゼルテ(鉄兜団幹部) 

無任所相:ゲーリング
 
与党となったナチスは、議会での絶対多数を得るためには、議席数を伸ばしていた共産党を倒すべきだと考えました。そこで、まず共産党に騒ぎを起こさせ、左翼革命の恐怖を喧伝することを意図します。その左翼勢力にナチスが敢然とした態度で対峙すれば、国民の支持は雪崩をうったかの様に、ナチスへ下るという策略も背景にありはました。そこにタイミングを合わせるかのように1933年2月27日、国会議事堂炎上事件が起こります。(未だに実行犯が不明でナチスの謀略との見方もある)ナチスは、これを共産党のしわざと決めつけ、警察も共産党員約4000人を捕らえる大弾圧を行いました。

この事件を受けてナチスは、ワイマール共和国憲法48条にある、『国家非常令』(ワイマール憲法では『大統領緊急令』)の規定を利用することを思いつきました。(もし前もって用意されていたのなら陰謀なのは確実)それは、以下のような文言で始まります。

「『公共の秩序と安定』が危険にさらされ国家が憲法の義務を履行できなくなったとき、大統領は軍隊の援助のもとに緊急令を強行でき、その際に身体の自由、住居不可侵、通信の秘密、言論の自由、集会結社の自由、私有財産の保護の一部または全部を停止することができる」

国会放火事件の翌日には、1)上記の諸権限を制限できる。2)武装蜂起・ゼネストに対し必要があれば中央政府が連邦各州の全権を掌握し(もともとドイツは各州の独立性の高かい連邦制の国家です)、犯人には裁判を経ずに死刑も科せるという2つの緊急令が制定されました。

この2つの緊急令を制定した裏には、ナチスの一党独裁体制を容易に成立させるための布石となる陰謀があった訳ですが、それに気付く者は、国際的にも国内的にも少なかったと云われています。(戦後になって私は危険だと警告していたなんて人は沢山出てきたそうですが)そして、最後の総選挙が行われます。ナチスとしては、ここで絶対多数の議席数を獲得し、民主的手続を経て一党独裁を合法的なものにしたかったのです。

勝利のための標的は再び共産党でした。ナチスは選挙期間中、一般市民に共産党に対する恐怖感を煽る運動を展開します。さらにそれ以外の民主主義政党の集会も軒並みSA隊員に襲われるなど、徹底的な選挙干渉が行われました。その結果が次の通りです。

ナチス党:288議席  社会民主党:120 共産党:81                                          中央党:74 国家人民党:52 バイエルン人民党:18 諸派:14

選挙結果はナチスの期待を裏切り、ナチスは絶対多数どころか過半数も得られない状況に追い込まれました。選挙前からナチスに協力を表明していた国家人民党の議席数52を加えても、『全権賦与法』(ナチスの一党独裁を可能にする法)成立に必要な3分の2(ワイマール憲法の改正になるため)の議席数には達しません。

窮地に陥ったヒトラーとナチスは、同法成立に反対票を投じることが確実な共産党や同じくナチス党に反対の姿勢をとる社会民主党が欠席戦術に出て、法案審議自体をストップさせる危険を恐れました。そこでナチスは、カトリック勢力との接近姿勢を示すことによって中央党の協力を獲得。裁決直前に改正議院規則を抜き打ち的に施行し、無断欠席議員を出席扱いにする議長(ゲーリング)の裁量権を認めたさせたのです。こうした奇策により、3月23日の議会において、ついに『全権賦与法案』は、賛成441票で可決される運びとなりました。ここに、からくもナチスの独裁は完成したのです。その時、12年後に起こる、あのベルリンの悲劇を誰が想像していたでしょう。

私は、日本の戦後処理を批判する一部の人が、よくドイツの戦後処理を絶賛するのには違和感を感じています。合法的に国民が選択した政権が冒した戦争犯罪を、その政権党のみの暴走であったとするのを絶賛するのなら、日本だって戦後処理を東京裁判史観に基づいた軍部暴走としているのだから、何の違いがあるのだろうと首を傾げたくなるのです。

この映画の最後には、ナチスがユダヤ人600万人を虐殺したことをテロップで流していましたが、こういうところがドイツのあざといところです。日本だと南京虐殺を人数で明記するだけで、その映画は上映も危ぶまれる可能性があります。日本では未だに虐殺について、本当の事実なのか、日本国の戦争犯罪なのかという是非論争があるからです。しかし、ドイツでは国や国民は悪くない、ナチスとヒトラーが悪いのだからと、その責任は完全に転嫁されているからこそ、あれだけハッキリ明言しても、国家も国民も罪悪感を感じない構図が出来上がっているからこそ、できるのだと思います。

皆さんは、この辺、どうお考えですか。

私はドイツのこの姿勢を悪いと云うつもりはありません。外交的な方策としては、これも高等戦術なのですから。「誠実」は外交の世界では「馬鹿」ということと同義です。ドイツは敗戦から立ち直り、60年を経てEUの中で再び大国として復興しました。この戦後処理なくして、ドイツの復興は有り得なかったのです。

まあ、前回の国歌の話を読んでいただければ、ドイツ人のメンタリティーも少し理解できると思います。この濃さがゲルマンなのかもしれません。

さて、ちょうど、よい時間となりました。では、次回をお楽しみにして下さい。

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