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2005年10月

2005年10月28日 (金)

「横浜事件」を忘れるな!

篠田正浩監督作品の映画『スパイ・ゾルゲ』を見る機会があれば、是非そのエンドロールに注目して欲しい。上川隆平が演じる特高検事の箇所は役名ではなく「検事T」と書かれているのに気付かれるはずである。この点について特に解説はなされていないのだが、恐らく本人が存命で実名を入れることを拒否されたか、あるいは遺族の方が断られたかだろうと想像している。

「特高」とは「特別高等警察」のことで、戦前に存在した国家警察(内務省・警保局保安課)が直接指揮下においた思想警察の略称である。その活動根拠は「治安維持法」に基づいていた。なぜ特別で高等なのかには諸説があるが「天皇制維持を主とする任務活動が他の警察活動より特別に高等で重要である」として命名されたというのがよく言われている定説である。「特高検事」とは本来は「思想検事」という検察側の特高担当検事のこと。

さて、「治安維持法」が悪法であったのは名高い。例えば「予防拘禁」という取り締まり方法があった。特高警察側が疑わしいと判断した人物を無期限に拘禁して取り調べることが許されていた。逮捕要件は国家転覆等の思想犯となる可能性があれば構わないとされ、事実上軍人以外なら誰でも逮捕拘禁が可能だった。拘留は所轄警察署の留置場で行われ、これが「代用監獄」という現在でも通用している方法を生み出した。

三谷幸喜監督作品『笑いの大学』は、そんな特高警察と劇作家との攻防をコミカルに描いたものだが、落語ですら好ましくない演目は禁じたほど、その影響力は広範囲で絶大だったのである。それ故に敗戦後、GHQは民主的でないと即時解散を命じ、世間から快哉を浴びたりしたのだが、それまでの度を超えた捜査や人権蹂躙に関する責任追及に関してはGHQが中途半端なままに終わらせた節がある。

そんな特高警察が戦時中におこなった捜査を巡る裁判の再審が事件後60年を経て、10月17日に横浜地裁で開始される。その事件の名は「横浜事件」。戦時下最大の言論弾圧事件として終戦直後から騒がれた事件だが、今は忘れ去られた昭和史の事件のひとつである。

☆「横浜事件」再審をめぐるニュース
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20051007ic27.htm
http://www.asahi.com/national/update/1007/TKY200510070208.html

<横浜事件>(泊共産党再建事件)とは

事件の発端は評論家の細川嘉六氏が、1942年に総合雑誌『改造』の8・9月合併号に「世界史の動向と日本」を発表したことにはじまる。細川氏は尾崎秀実と中国問題研究会を創設したことでも知られる人物で、一高では、芥川龍之介や久米正雄と同級生であり、評論家としては当時もっとも高名なひとりであった。彼の原稿は当時の定めに従い事前に特高の検閲を受けて発表の許可を得た論文であったにもかかわらず、この論文が共産主義を宣伝するものとして大本営報道部などから問題視される発言が相次いだ。そのことを引き金に、翌43年、神奈川県警特高課は細川氏が同年7月5日に郷里の旅館で出版記念の宴会を開いた際のスナップ写真を、共産党再建準備会を開催した証拠写真だとみなし、改造社,中央公論社,日本評論社,岩波書店,朝日新聞社などの編集者ら60余人を、次々と治安維持法違反容疑で逮捕していった。さらに、特高警察は細川氏の周辺にいた世界経済調査会、満鉄調査部の調査員や研究者なども相次いで検挙し治安維持法に基づいて起訴していった。 警察側では、当時この事件を「泊共産党再建事件」と呼んでいた。捜査の過程で44年7月には雑誌『改造』と『中央公論』の両誌は廃刊に追い込まれた。

特高警察側の取り調べは過酷を極め、拷問によって逮捕された中央公論編集者2名が死亡。さらに出獄後にも他社の編集者2名が死亡するなどした。容疑を否認し続けた、その他の被告は敗戦後の9月から10月にかけて一律に懲役2年、執行猶予3年という判決を受けて保釈されたのだが、裁判までの被告らの取り調べ期間が2年6ヵ月近くにも及ぶ異常な捜査であった。その間、被告達は恒常的に拷問を受けた続けたこ。その拷問について後年語った人の本を見ると「 竹のしない、しないの竹べら、こん棒、麻づな、こうもり傘の先端、靴のかかと、火箸等使用。夜間、長時間に亘って腰部を裸にして床に座らせ、両手をツナで後手に縛り上げ、私の声が戸外にもれぬように、窓と入口を鍵を掛けて締め切って、口にサルグツワをはめた上で靴のかかとでももとヒザ、頭を蹴り散らし」云々とある。女性の場合は性的な陵辱も受けたようである。

敗戦後の治安維持法廃止に伴い、被害者とその家族らは取り調べに当たった警察官を人権蹂躙の罪で訴えた。その後の裁判により拷問に直接加わった3人の特高警察官が特別公務員暴行傷害罪で有罪となる判決はあったが、その執行は猶予され投獄はされなかった。裁判の過程では当時の取り調べ記録の大半が戦後間もなく焼却されたことが判明するなどして、長所などの物的証拠に欠けるなどしたため裁判自体が中途半端なまま結審したという見方ある。

☆「横浜事件」の詳細は以下のURLをご覧下さい。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji2/rnsenji2-223.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoshiro/kawada-club-hisashi-yokohama.htm

しかし、別の見方もある。敗戦後の日本を統治したGHQは、当初は民主主義を日本に導入しようとして、政治犯の釈放や政治活動の自由化などを矢継ぎ早に許可していった。戦中の圧政への反発や、戦地からの引揚者増加に伴う失業問題、食糧不足による憤懣などが、政治運動に結びつき、昭和21年頃から日本の治安状況は危機的な状況に陥っていた。治安の悪化はこれだけに留まらず、石原都知事のよく口にする「三国人」によるトラブルも続発し、混乱に乗じて一儲けを狙う様々な犯罪行為が市中でまかり通っていた。その上、旧軍の武器弾薬がどれくらい隠匿されているかも分からない。拳銃や手榴弾が市中で出回れば治安の悪化は深刻に成りかねない。GHQはパンドラの箱を開けてしまったような気がしたかも知れない。さらにGHQは、この政治運動が共産主義と結びつくことを恐れた。その背後にソ連が蠢動する事を警戒していたのだ。やがて、この運動のうねりが反米闘争に扇動転嫁されるのを危惧したのである。

当時日本の警察組織は、内務省の解体に伴い、米国式に市町村警察制度が導入されようとしていた。戦中までの特高警察関係者は公職追放にあい、いっさいの公職に就くことを禁じられていた。だが、こうした治安の悪化は日本政府でも憂慮される問題であった。そこでGHQとも話しあい、特高警察の現場要員を警察や米軍の情報機関の協力機関などに復帰させることを密かに始めるようなった。そのひとつが「団体等規正令」を所管していた法務省特別審査局であった。同局は「秘密的、軍国主義的、極端な国家主義的、暴力主義的及び反民主主義的な団体」を取り締まる目的で組織されている。この特別審査局が昭和27年7月に施行された『破壊活動防止法』と同時に設置された公安調査庁の前身となったのはあまり知られていない。同庁の設置時には、公職追放されていた特高警察出身者、旧軍特務機関の出身者が多数雇用された。

☆この辺の事情は「沖縄は見捨てられているのか」をご一読ください。
http://mark-nana.cocolog-nifty.com/keyman_/2005/06/17/index.html

つまり、治安維持に必要なために特高警察出身者は、戦前や戦中の人権蹂躙問題を棚上げされて何の咎も受けずに元の仕事に戻ったのである。軍人は捕虜の処刑や虐待などでB・C級戦犯として軍事法廷で裁かれ、次々と処刑や収監が行われている中で、彼ら特高警察官達は、何らの裁きも無かったということになる。また検事達も多数の特高検事が現場に復帰した。解体された内務省警保局の特高部門を指揮したキャリア官僚達は、追放解除後に多くが、厚生省(現厚生労働省)へキャリアとして復職していった。中にはその後政界に出て活躍した人も多くいる。一例を挙げれば、現在の町村外務大臣の父町村金吾氏は終戦時の警視総監で、後に北海道知事などを勤めている。

遠くなる記憶の中に、戦犯と同様の罪を持ちながら公務が優先されて何らの裁きを受けずに歴史の中に消えていった人々がいたことを忘れずにいたい。そして横浜事件の再審を通して、この消された暗黒の歴史の一端を知って欲しい。

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