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2006年5月

2006年5月20日 (土)

孔子の戯言:『大中華思想』と『小中華思想』

最近は隣国の中国や韓国と政治的には冷めた関係が続いています。ただし、「政冷経熱」といわれるように、その反面で経済的な結びつきは好調です。日本人から見ると、どうにも、日本に対するあの態度が腹立たしいと思うことがありますが、それもこれも『中華思想』にあるのではないかというのが、この小話を書くきっかけでした。

皆さんもご存知のように、中国(中華)が世界の中心であり、その民族と文化が最も価値のあるものとする思想が『中華思想』です。ちなみに「中華」とは世界の中心を表す「中」に、国を表す「華」が結びついて出来た言葉です。ついでにいえば、「日本」という国名も「日の本の国」という意味ですから、中華思想の影響を受けているといえます。中華思想にもとずけば、中国人(漢民族)以外の異民族(化外の民)を見下す『華夷思想』(選民思想)が生まれるのは当然のことです。しかも、その思想が何千年にも渡り中国で根付いて来た歴史の重みはいかんともしがたいのですから、今更彼等に中華思想はおかしいと云っても聞く耳を持つとは思えません。

『華夷思想』の世界では、日本人なんかは思いっきり化外にある地域の土着民のなれの果てです。そんな連中が時流に乗って小金を持ち、世界の強国に名を連ねて偉そうにしているのは、逆に中国人から見たら、とにかく腹が立つ事でしょう。しかも少し昔には軍を送り込んで来て侵略(先方はそういってますので)までされたとあっては尚更です。ですから、元々からこういう考え方の上に立つ中国に、日本が外交上で対等な立場で接したいと百万回願っても、中国側は儀礼的に頷くだけでしょう。あちらは前提からして対等とは思っていないのですから。その点を何時までも理解しない日本の外交姿勢の方に問題があるのではないですか。

さて、この中華思想は誰がいつ頃確立したのでしょう。恐らくは孟子などの儒学者が構築したのではないかと云われています。孟子は、「天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせる。だが天が徳を失った政治を行う王朝に見切りをつけた時、自然と国に革命が起き、王朝は徳のある新たな王によって治められるようになる。」と説いています。例えば皇帝を示す言葉である「天子」は即ち天の子という意味ですし、日本の王を「天皇」と称すのも、この思想の影響ということがよく判る話です。こうした考え方は欧州の「王権神授説」にも見られますので、神が何かを除けば人類普遍の思想なのかも知れません。

どうして、こうも漢民族を中心に考えねばならないのでしょう。中華思想が必要とされた時代、中国では周囲のチベットやモンゴルといった外国勢力から度々侵略を受けていた事が判っています。その上、中国自体が幾つもの小国に分かれ争ってもいました。ちょうど日本の幕末と同じ様な情勢だったのでしょう。そんな中で国をまとめて外敵に立ち向かうには、こうした選民思想が有効であったのではないでしょうか。そんな中華思想の根幹をなすのが『易姓革命』(えきせいかくめい)という思想です。ここでいう「革命」とは、「天命を革(かえ)る」ことを意味しています。故に、王が自らの天命を悟って、君主の位を譲るのを「禅譲」といいます。(政治家が地盤を譲るのに使うような言葉では本来ありません。)また、武力によって強制的に位を奪われることを「放伐」といいます。

くどいようですが、中華思想では天から国(世界)を治めるように委嘱された民族は漢民族(中国人)であるという考えを前提にしています。『易姓革命』思想に基づいて、新たに政権を奪取した新王朝は、まず史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調するのが常でした。また一方では新王朝の正当性を強調するために、前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を暴露する事に精を出すのも当たり前のことでした。こうした作業の堆積が中国の歴史ですといっても言い過ぎではありません。前王に悪い諡号を送ったり(有名な所では桀王、紂王、煬帝など)、墓を暴いたりすることで過去の悪行もひっくるめて全て前王朝のせいにするのが常識の範疇だというのは日本ではなかなか理解されにくい事です。そういえば韓国の政権交代でも同様のことが起こりますが、これも中華思想からすれば当然のことなのでしょう。

今の中国が何かと日本の過去の悪行を持ち出しては日本政府を批判するのは、現政権(共産党)の正当性を自国民に示す行為だということを、彼等の慣習から理解しておかないと、我々は腹が立つばかりでしょう。中国人からすれば、これは当たり前の方法論なのですから。それを理解せずには彼等の本音を理解するのは難しいと思います。中国共産党の軍であった八路軍は、日本軍を破って中国人民を解放した軍隊であるから、人民解放軍なのですから。何かと日本を持ち出す方が、国民に対しては都合がよいのでしょう。

このように『易姓革命論』は、王朝交代を正当化する理論として機能してきました。またこのような理論があったからこそ、あの劉邦や朱元璋のような王家と縁もゆかりもない成り上がり者の支配すらも正当化が出来たのです。今の共産党政権も国民からすれば単なる王朝のひとつとして受け入れられているのも『易姓革命論』の裏付けがあってこそなのです。

そんな中国で明王朝は「漢民族の中華王朝」を常日頃から掲げていた王朝でした。その明が異民族である満州の女真族というツングース系の半農半牧の民族に倒されたのは、漢民族にとって天地がひっくり返る事です。なにせ『華夷思想』の前提が転換してしまったのですから。女真族は『易姓革命』なんて話は問題外と無視します。彼等は勝者として、何の呪縛も慣習も考慮せず、王朝を築き漢民族を支配する立場を誇示する事に躊躇いはありませんでした。それにおさまらないのが隷属する側の漢民族です。華夷秩序を正そうと義に立った反乱が清朝初期には多発しています。しかし、悉くこの反乱は鎮圧されてしまいました。いよいよ清王朝は盤石になってしまうと、漢民族の中華思想も次第に消えていくようでした。

この中国の激変を目の当たりにして、それまで朝貢していた国々が受けた衝撃は並大抵のものではありませんでした。この衝撃を『華夷変態』と呼びます。隣国である日本と朝鮮の知識人は大きな衝撃を受けたと云われています。特に中華文明の優等生であった朝鮮半島では、歴史的な転換点に立ったような動きが始まります。時は李氏朝鮮王朝の時代でした。中国で異民族王朝(清朝)が興った反動の衝撃波がさると、朝鮮半島の知識人達の間では、「真の中華思想を我々が伝えなければならない」という使命感を生む事につながります。いわば元祖が倒れても本家は残るとばかりに、中華思想の根幹である儒教は王朝によって保護され、その思想の学問的体系である朱子学は国学となって、国を治める根幹思想として、その思想を広める努力がなされます。それと共に朝鮮の知識人達は真の『中華』は朝鮮であるという自負も育てていくようになったのです。これが『大中華思想』と比して云われる『小中華思想』の始まりです。

儒教思想を国政の根幹とし、朱子学を国学とした李氏朝鮮王朝政権では、その努力の結果、儒学や朱子学の学識レベルは元祖を凌ぐまでに発展していきました。(元祖では思想時代が死にかけていましたから)その理解の深さは、当時の後進国である日本の学者達の及ぶところではありませんでした。江戸時代、数年に一度訪れる朝鮮通信使が江戸へ上るために行くところ、日本の学者が争って教えを請いにやってきたそうです。後々、この話が通信使から朝鮮に持ち帰られ、それが広まることで、日本が文化の遅れた国であることが強く朝鮮の知識人に広まったのです。この事が明治維新で先に国家革新を行った日本の変化を、朝鮮の政治家や知識人が理解できない礎となってしまったのは皮肉な話しですが。

本来、儒教思想は社会の変化を嫌います。儒教が重視するのは「安居」と呼ばれる社会が安定し、国民が自分の分を知り、けして分を越えない生き方をすることです。国の政治は科挙に合格をした賢人が行うもので、庶民はその賢人の指導に従うのが善行とされていました。こうした思想では当然のこと現在ある社会階層内での身分の流動性を嫌います。それが影響して、どうしても社会全体が固定される保守的なものとなります。当たり前ですが、李氏朝鮮王朝でも国民に「安居」を説きながら、政権内部では官人による国政の私物化や、在地の地主層によって構成された士林派という新興勢力とが争う権力闘争が繰り返されるようになっていきます。やがて、李朝王朝内部では官僚による支配体制から、勢力を持った一族が実権を握る「勢道政治」に変質していきます。19世紀末の李太王妃閔妃一族による政治体制も、そうしたひとつだったのです。この点につけ込まれて、日本の指導の元で傀儡政権を樹立し、やがて併合という道を歩むことになるのは、儒教思想の蔓延による社会の固定化がマイナスに働いた結果からなのです。歴史は皮肉なものです。

同じように『華夷変態』を体験した日本はどうだったのでしょうか。実は近世初期の日本の儒学者達は、この大事件に出会ってあることに気付きます。日本は歴史上、天皇家という同姓の一族が王朝を継承してきました。この点に着目し、後に『万世一系』と言われる『百王一姓』という事を言い出すようになる思想家が現れるのです。最初に書いたように、孟子が説いたのは同じ王朝が永遠に続くことではなく、徳を持った人物が王となっていくことです。それが儒教において、もっとも大事とされるのは、今現在において「徳」のある政治をする王がいることなのです。つまり王の治世が継続することではありません。それは天が政治を任せる理由は「徳」がある事なのですから。恐らく日本の儒学者達は、『華夷変態』に立ち会って、それは間違いであると言い出す機会に恵まれたと発想したのでしょう。つまり同じ王朝が日本で続いたということは、天が正統な王朝として認めてきたからだという論理を構築したのです。なにせ当時、中国は異民族の支配を受けているのですから、天が中国を見放しているのは明らかです。それに比べて日本は天命により正統な王朝が継続しています。「何だ、真の『中華』は日本の事であったのか」という優越感が生まれた瞬間です。この理論(屁理屈)を真面目に説いた儒学者が山崎闇斎、山鹿素行、林羅山などです。それは、常に中華文明に劣等感を持ちつづけた日本人の反動であったのでしょう。更に明治維新は、この『華夷変態』を真面目に信じた武士や知識人層によって『尊皇攘夷思想』へと新たな変化をしていった結果です。そして明治以降もこの日本独自の『華夷変態』は生き続け、国家革新運動と結びついて「我が大日本帝国こそが真の中華である」という思想に取り込まれていったのではないでしょうか。それを利用した官僚や軍人達の一部が、国家の拡大を目指して突き進んだのが15年戦争であったのではないかと思うと、江戸時代の儒学者達の屁理屈を笑ってばかりもいられません。

なにせ日本人が中国や韓国の態度に腹を立てるのは、彼等に見下されているという劣等感であると同時に、深層に潜んでいる中華思想の影響から、化外の国民として見下している中国・朝鮮人から逆らわれているという怒りでもあるのですから。歪んで説明の出来ない怒りの源泉は日本独自の『華夷変態』によって生み出されてきたのです。この点を中国や韓国の知識人も気付いていないのではないかと思います。

経済活動では、何を得て何を失うかは交渉で決まります。この点では妥協もあれば協調もあり得ます。その戦略は時に応じて変化するのが正しい姿です。しかし政治的な活動では自国の権益を主張し何事に対しても節を通すのが戦略の根幹です。中国という手強いネゴシエーターを相手にする際には、彼等の意識の底にある中華思想を理解し利用する事を忘れてはいけない気がします。

2006年5月19日 (金)

孔子の戯言:「自主国防」なんて夢想ですよ

「防衛庁よりも省の方が何故良いのだろうか?」

現在の防衛庁長官は、こんな答えを我々に提示している。「庁はできた法律を守るだけ。省は自らの判断で法律を作り、予算を獲得し、政策を実現していく。庁でなく省として機能させたい」と述べている。

「それじゃ最初からどうして国防省を作らなかったんだろう?」

その答えも、図らずもだろうが額賀長官の談話が明らかにしてくれている。要するに軍事組織は「出来た法律を守る」だけにしておきたかったというのが創設時の国家の意識だったのである。戦前の軍の暴走を再来させることを恐れたのだということも匂わせている。(「エッ?匂わないって」)

戦争アレルギーには、こうした問題で一番古い体質を引きずっている言論界が明確に答えを教えてくれる。「防衛庁を外局にとどめたのは、日本が掲げた平和主義の一つの証しといえる。」(神戸新聞)まあ、これが進歩派と自称している知識人レベルの平均的な答えだろう。

神戸新聞社説の書き手は「自衛官の士気向上」が省への昇格の目的とも書いているけれど、それは背広を着た一部のキャリアの話だろうと思う。制服組は防衛大に入った18才の将校候補生だった人も、二士から始めた下士官も、55才という早期退職制度のおかげで、退職時まで国に奉仕しても、第二の人生に向けてのまともに再就職も叶わないのが現実だ。省への看板の掛け替えよりも、その点を改善してくれる方が切実な問題だと認識している隊員が多かろう。つまり、現場の問題を改善した方が士気が上がりそうなモノなのだという点には記者は気付いていない。その程度の自衛隊への知識しかない人の記事なのだから始末に悪い。
http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/00045003ss200612070900.shtml

軍事問題に関して、日本のユニークな点は、「軍事」という問題で一度失敗したから、軍の掌握を政治でどう行うかという議論を積極的に進めるのではなく、「軍事」を忌み言葉にして避けることで、再び戦争に日本は巻き込まれないのだとする信仰のような意識がまかり通っている点である。恐らく他国の人間が聞いたら首を傾げたくなるような、日本独自の祟りの論理で納得してしまってる事に当の日本人の一部が気づいていないから始末に悪い。変な例えだが、一度結婚で失敗したから二度と籍には入れないで女と暮らして、その女性が何時までも納得してついて来てくれるかという問題に置き換えたら、理解は早いかも知れない。つまり、日本は戦争を否定しているが、戦争は日本を否定していないということに早く気付いて欲しい人が沢山いる。自分は進歩派のインテリと思い込んでいる、そこの貴方のことです。

現実に目を向ければ、今の「平和」を維持するには、米軍の駐留継続と機能の拡大を求めるしか手段はない。他に誰に頼れるのだろう。米軍は世界最強、精強無比なのだから。(ただし打撃力と展開力に偏重しすぎて治安維持や占領地の司政に関しては大したことはないのがばれているけど)そんな米軍をあくまで日本の盾とするよう米軍を上手く利用するという安全保障戦略の基本を、今回の米軍再編問題と在日米軍基地縮小問題を絡めて、上手くすり抜けられようとしているのではないか。しかも米国は自衛隊によって極東アジアの軍事プレゼンスを維持させて、自らは後ろ盾になりたいと望んでいるのが見え見えだ。米軍がその影響力のみを日本に留めて(司令部機能の見残して)、実戦部隊は本国に引き上げて、他の地域へ振り向けたいという事になったら、当然の反動で日本は軍備増強を迫られることになる。そのために年間何兆円か国費を投入することの方が大問題なのに、マスコミもそれに気付かないふりを決め込んでいる。政・官・マスコミの暗愚協定である。

米軍へ依存して駐留経費を負担することは、自国軍隊が再び暴走することを思えば安い気もするというお題目なら護憲派にも飲み込みやすいと思うのだが、どういう訳か「平和運動」は「在日米軍撤廃」とセットで展開されている。それでは米軍無き後の安全保障政策はどうするのか。彼等の一番弱い点は、その代案を国民に納得させられない点にある。何せ軍事問題に関しては素人で大した知識も勉強もしていない人達なのだから。それも仕方がないといえるだろう。本当に皮肉な話だ。保険料をタダにしてくれ、その代わり保険契約の内容は継続してくれというような話で不安に思わない国民ばかりじゃない。理想と現実は違う。理想を現実にする牽引者が政治家の仕事だとしたら、自分の家族を守る努力をしない者の言葉を誰が信じるだろう。そんな目線だから、米国に出し抜かれて今回のような事態になってるんじゃないかと思う。

ことは国家の大計を論じる問題なのだ。官僚と政治家の権益確保のための昇格話に思える防衛省の話題は実のある話なのだとは思えないのだが、これは私の僻み根性だろうか。

こんな事で日本の未来は大丈夫なのだろうか。いつもの嘆息が漏れる。ハァ・・・。

2006年5月18日 (木)

『ダ・ヴィンチ・コード』

  「宗教感」が日常生活に表だって影響を与えない日本では、今週の土曜日に公開されるMagdalen 『ダ・ヴィンチ・コード』のような作品も単なる娯楽作品としてしか扱われていない。しかし、カトリック教徒の多い国では、この映画の描く内容を宗教問題として捉えている動きがあることを知っておくのは、欧米の人々の信条を理解するのに有益ではないだろうか。

映画の原作となったダン・ブラウンの長編推理小説『ダ・ヴィンチ・コード』は、2003年にアメリカで出版され評判となった。その後、世界各国で44の言語に翻訳され、5000万部の大ベストセラーとなっている。日本でも最近文庫化されて読者を更に広げている。

物語は、ルーブル美術館の館長が死体で発見され、その死体がダヴィンチの有名な素描「ウィトルウィウス的人体図」を模した形で横たわっていたことから始まる。館長の孫娘で、暗号解読のプロでもある主人公は、祖父が自分だけにわかる暗号を残していることに気づいていく。やがて、館長が残した複雑なメッセージを解き進むにつれて、キリスト教の根幹を揺るがすこととなる「闇の歴史の真実」に直面していく。歴史推理モノとしては久しぶりにヒットした物語である。キリスト教の詳しい知識が無くても読者が物語を楽しめるように作品は工夫されているが、詳しい知識のある人々からは色々な意見が噴出するように、敢えてタブーに切り込んだ仕掛けに作者は挑んでいるという気がする。その意図は勿論話題作りだろう。

この作品を原作に製作された映画は、もちろんフィクションであるにもかかわらず、「この小説における記述は、すべて事実に基づいている」と作者自身が述べたことが発端となり、各方面で議論が巻き起こっている。そういえば、イスラム教の教祖モハメッドを風刺した漫画で外交問題やテロまで誘発したのは、つい最近の出来事だけに、宗教の占める重みが日本以外の国では違うのは我々が肝に銘じておくべきことのひとつだろう。日本では皇族でもあり歴史上の偉人でもある聖徳太子が実は男色の麗人だったという漫画がヒットしても、その内容を巡ってデモやテロが起こることなど、まずあり得ない。だから他国の人も同じ感覚なのだろうと思ってしまったら大変なことになるということだ。

実際に世界では『ダ・ヴィンチ・コード』がキリストに対する誤った認識を与える可能性があるとして、各地で論争が巻き起こっている。問題となっているのは、キリストがマリア(マグダラのマリア)と結婚し、子供をもうけたことを、ローマ・カトリック教会が隠してきたという箇所。彼女は美貌故に快楽に溺れ荒んだ生活をしていた罪深い女の代名詞で、キリストと出会ってから改悛して、後には聖人となった人物と云うことになっている。ギリシャ正教会などは「作品は真実を曲げた人心操作であり、常軌を逸している」と強く批判している。インドでは、政府に上映禁止を求めるデモが起こり、カトリック教徒の多いフィリピンでは、「大人の判断」が必要として、成人向け映画に指定されたりもした。大ヒットした『マトリックス』ですら国によっては公開禁止にされたし、昨秋公開された『コンスタンチン』も同様の扱いを受けた。最近はハリウッド映画にキリスト教原理主義的な意図を暗示させる作品が多いと指摘する識者もいる。現在のブッシュ政権には原理主義の有力者が関わっているからだという陰謀論も聞こえてくる。

世界の大半の国では宗旨の戒律が、その軽重の違いはあるにしても、人々の生活や倫理観に大きな影響を与えているということを、今一度理解し直しておきたい。

(映画のHP)
http://www.davincicodemuseum.jp/

(マグダラのマリアについて)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2

(マグダラのマリアについて)
http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/sotsuron.nsf/f14108a5f8b3b073492569bf004aa4b8/de30ba693a56a3a449256b2700627b86?OpenDocument
http://www.foreignaffairsj.co.jp/wadai/index.htm#1

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