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2006年8月

2006年8月23日 (水)

孔子の戯言:満蒙開拓団の父、東宮鉄男

時代の寵児と呼ばれた人がいます。その時代には誰もが知っていた人物が今現在は誰も知らない。そんな人のお話です。

昭和史の中で確かな足跡を残しながら、戦後の政治的理由から消されてしまった人物。そんな一人に東宮鉄男(とうみやてつお)がいます。お盆の頃、そんな東宮を取り上げた番組がNHKで放映されました。番組名は『満蒙開拓団はこうして送られた ~眠っていた関東軍将校の資料~』です。

日本陸軍には通称「支那屋」とよばれる集団がいました。参謀本部第二部(情報)支那課に所属する将校を中心にした集団でいわば元祖「チャイナスクール」でした。陸軍大学を出た参謀候補生達の中で支那課に配属されるのは、主に幼年学校や士官学校で中国語を外国語に選択した者達。支那課に配属された候補生達は、暫くすると中国各地の特務機関などに籍をおいて本格的に中国語の勉強と、実際の中国の風俗や風習に触れて中国を理解する機会を与えられます。そんなエリートとは別に非陸大の将校も支那屋には沢山いました。主に中国勤務中にリクルートされた将校で、独学で中国語をマスターしていた者も少なくなかったようです。中にはエリートコースをうち捨て、陸軍を辞めて大陸浪人に身を投じる者まで出していた支那屋達。

創設期からの伝統で独仏派がエリートコースだった陸軍で、地味な裏街道であった彼等に、突然スポットライトが当たるのが昭和という時代でした。その幕開けとなった事件が1928年(昭和3年)6月4日に起こされた、『張作霖暗殺事件』(別名「奉天事件」)です。関東軍の謀略として後に有名になるこの事件で、実際に現場で爆破スイッチを入れる命令を出した人物こそ東宮鉄男(奉天独立守備隊歩兵第2大隊中隊長)その人でした。(実際にスイッチを入れたのは奉天独立守備隊の大槻工兵中尉)

彼はこの事件の顛末が明らかになった後、第10師団歩兵第10連隊第3中隊長として国内へ転任させられます。いわゆるほとぼり冷ましをねらった人事なのは明らかです。独断で行動して他国の要人を殺害しても逮捕されずに一時閑職におかれるのは、彼がひとえに下級将校であったからでしょう。ここで東宮の経歴を見てみましょう。

T4・5    陸士卒(27期)
4・12    任歩兵少尉・近衛歩兵第3聯隊附
8・4    任歩兵中尉
9・6    歩兵第50聯隊附
9・6    シベリア出征(~10・5)
12・1    私費留学(広東)(~13・1)
14・8    任歩兵大尉
15・3    近衛歩兵第3聯隊中隊長
15・12    独守歩兵第2大隊中隊長
S4・8    歩兵第10聯隊第3中隊長
6・12    満州出張
7・4    関東軍司附(満州国軍政部顧問)
7・10    第一次武装移民団結成
8・8    任歩兵少佐
12・8    歩兵第2聯隊附
12・10    歩兵第102聯隊大隊長
12・11    任歩兵中佐
12・11    中支で戦死・大佐進級

歩兵第10連隊第3中隊長となって暫く後、将校集会所(士官倶楽部)の月例行事であった講座(将校が研究している分野を連隊長以下の幹部に発表する会)で、東宮は『日本人農民移民策』という一風変わった内容の講演を行っています。後に「満蒙開拓の父」と呼ばれることになる彼の片鱗が伺える逸話です。

そんな彼はある日、唐突に連隊を去ると満州に密かに渡り満州国建設に向けて奔走することになります。満州に余程縁がある方です。東宮がどういう形で開拓団という構想を国策に仕上げていったのかは番組をご覧になって頂くとして、満州事変勃発の翌年に当たる昭和7年(1932年)には、もう第一次満蒙開拓団(正式には「拓務省第一次武装移民団」492名)の移住が北満の永豊鎮(弥栄村)で始まっているのですから、彼の剛腕ぶりは確かなようです。彼等、開拓団員の男子は小銃を装備した一種の武装開拓団でした。(当初は男子のみの募集だったんです)当時の満州は馬に乗って現れる「馬賊」という盗賊が出没しては電車を襲うような治安の悪い地域でした。その上に抗日ゲリラも活動していました。こうした地で開拓するには武装もある程度は仕方のない事ではあったと思います。こうした開拓団の性格付けが、北海道開拓の際に導入された屯田兵をお手本にしたともとれるからか、この開拓団は陸軍や国には受け入れやすかったのでしょうか。

ソ連との国境付近に配置されて防衛軍の一翼を担うことを期待された満蒙開拓団ですが、東宮達は最終的(昭和32年までに)に500万人にしたいと構想していたそうです、それはかなり夢想的であったというのが私の感想です。機甲戦を得意としたソ連機械化部隊を相手に、有効な対戦車兵器を持たない自警団的集団がかなうはずもありません。

実際、昭和20年(1945年)までに満州へ渡った日本人は約27万人。彼等がソ連の参戦と関東軍の弱体化によって組織的な防衛戦を行えず犠牲となったのは広く知られています。日本への引揚げまでに亡くなった人々は約78,500人。ほぼ3.5人に1人の割合で開拓団員が亡くなった悲惨な事態を見ても、武装開拓団という東宮の構想が絵に描いた餅だったのは確かなようです。戦火が及んだ満蒙の地で、避難する開拓団の住民を見守るように立ちつくしている東宮の姿が各地で目撃されています。しかし実際の彼は8年前には戦死していたのでした。真夏によくある怪談話で、この項を閉じることにしたいと思います。

2006年8月 6日 (日)

孔子の戯言:如何に核廃絶運動は衰退したか

今年も広島原爆忌が巡ってきました。

そこで少し面白いお話をご披露します。日本は世界で唯一の核兵器による被爆国です。ですから核アレルギーがあるのは当然です。その代表が核廃絶運動(反核運動)なのですが、ではこの運動はいつ頃から始まったのでしょう。

日本に反核運動が誕生した直接のきっかけは、1954年3月1日に行われたアメリカによるビキニ環礁での水爆実験だったとご存じでした。付近を航行していた焼津漁協所属のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が死の灰により被爆したことが当時大変話題になったからなのです。この時の気運が生み出したモノのひとつが映画『ゴジラ』です。もうひとつが、核兵器廃絶を求める署名運動から発展した『第一回原水爆禁止世界大会』(1955年8月開催)だったのです。ということは広島・長崎への原爆投下ではこういった運動が起こらなかった(占領中は活動自体が禁止されていた)ということになります。つまり、当時の日本では原爆投下は戦争のせいであり仕方がないという感覚が支配的だったのでしょう。まあ生活がやっと安定してきた復興時期に重なるのも偶然ではないでしょう。

この『原水爆禁止世界大会』が『原水禁』(正式名称を原水爆禁止日本国民会議)となるのが1965年。つまり今年で41年の歴史を誇るのですが、運動の長さに比べると世界は核拡散の時代に突入していこうとしてるのは皮肉な話です。運動の成果が実っていないのには理由があります。その答えを探るヒントが『原水禁』組織化に10年の期間を何故要したのかという点にあります。

1955年の『第一回原水爆禁止世界大会』後、大会実行委員会は『原水爆禁止日本協議会』(原水協)と名前を変えます。変更した理由は、安保問題や原発問題への対応姿勢の対立が原因となって保守系及び民社党系勢力が脱退して別に団体を結成した(核禁会議)からです。

その後の1961年、第7回大会開催直後、ソ連が核実験を再開した際に、ソ連に抗議を求める社会党・総評系勢力と、抗議に反対する共産党系勢力とが対立。翌62年の第8回大会の最中にもソ連が核実験を行ない、再び同じ対立が起り、大会は大混乱。この際に共産党系代表が「核戦争の根源である米帝国主義を日本やアジアから追い出せ」という反安保・反米軍基地も視野に入れた主張をしたことは忘れてはいけません。ソ連の(共産主義の)核兵器は米国の核兵器とは別という論理だったんですから。

1963年の第10回大会で社会党・総評系がソ連の支援を受けて「いかなる国の核実験にも反対」のスローガンを掲げ部分的核実験禁止条約の支持を要求。一方で共産党系は当時核兵器開発を進めていた中国と呼応する形で条約に反対を表明し、三度目の内部対立に追い込まれます。結局、社会党系グループは脱退を表明して、この年の大会は流会。それで社会党系グループが1965年に立ち上げたのが『原水爆禁止日本国民会議』(原水禁)という訳です。

この時も共産党系グループは、「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのもので容認すべき」と主張したそうです。イラク戦争もアメリカ主導だから反対するんですねと聞きたくなりますが、共産党は未だにこういう姿勢のままです。

1954年の運動開始当初、原水爆禁止運動は超党派を結集し、世論もこぞって応援する国民的な運動でした。しかし見てきたように党利党略むき出しの権力闘争。ソ連・中国の介入。挙げ句の果てが政党による系列団体化。これで核兵器廃絶運動の成果があったら奇跡です。

広島に原爆が投下された1945年8月6日から数えて61回目の今日。真剣に核兵器の廃絶を考えず、政治運動にした者達への責任は誰が追求するんでしょうか。草葉の陰で被爆して亡くなった人達が呆れ顔で嘆いていないか心配です。

 

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