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2007年4月

2007年4月21日 (土)

アフリカの傷跡に思うこと

「米政府から「圧政の拠点」と指弾されているジンバブエのムガベ大統領(83)にアフリカ諸国から批判が強まっている。野党指導者が先月、治安当局に拘束されて拷問で負傷したのを機に、それまで静観していた周辺国が緊急会合を開き、アフリカ連合(AU)のクフォー議長(ガーナ大統領)はムガベ大統領を非難した。ムガベ氏は来年の大統領選で5選を狙う構えだが、国内外で「ムガベ降ろし」へ向けた動きが加速しそうだ。」

「ジンバブエ」?という人が多いのではないですか。アフリカ南部に位置し、モザンビーク、南アフリカ、ボツワナ、ザンビアと国境を接する国です。なお、ザンビア国境にはヴィクトリア滝があります。海を持たない完全な内陸国でもあります。

昔は「ローデシア」といった、この国ですが、その近代史は第一次世界大戦後にイギリスの植民地に組み込まれ、イギリス領南ローデシアとなった頃から始まります。白人の入植が本格的に始まったのは、この国の大半が高地(1500m)にあったことも大きかったようです。昔はアフリカのスイスなんて言われたりしたそうです。基本的な気候は熱帯性ですが、高度のためやや温暖で、南アフリカ地域の中では暑さも凌ぎやすい土地だったことから農耕に向いていました。白人による大規模農家が幾つも入植し、その小作人を黒人が務めるという典型的なプランテーション農業が根付いたのです。非常に効率的な農業が行われていた関係で、小麦やトウモロコシをはじめとする農産品の輸出が、この国の総輸出額の半分を占めるまでに成功していた時代が長く続くのでした。

「ジンバブエ」は、まず農業国家として成功したのです。そのためか、この国の主食はサザというトウモロコシの粉を煮て練った(マッシュポテトの堅めなものとでもいいましょうか)ものになっています。(ケニアではウガリといいますんで近年はアフリカ全土に広まってる気もしますけど)他にも「ジンバブエ」は鉱物資源にも恵まれていました。石炭やクロムといった鉱石をはじめ、レアメタルの埋蔵量でも有望で、これも輸出を支える大切な産業になっていきました。それに、あのビクトリアの滝もありますので観光資源にも恵まれている国でもありました。(寝台の特急列車に乗っていくんですが、この鉄道がさすが英国という立派な作りなんです)

しかし、1960年代から黒人による独立運動が盛んとなり出すと英国政府は手を焼くようになり、1965年に植民地政府首相イアン・スミスによって白人中心(優位)の掲げる「ローデシア共和国」として独立を宣言。英連邦に加盟しながら、人種差別政策を堅持したのでした。(今から考えるとこれは正しかったんです)

これに対して、独立運動派は黒人国家の樹立を目指して、国内でゲリラ戦を展開。15年にも及ぶ戦いを繰り広げました。軍事に少し興味を持つ人なら、ローデシアSASという特殊部隊があったのをご記憶でしょう。オーストラリアSASやニュージランドSASと並んで能力の面で高い部隊として知られました。この国がジンバブエになった際に優秀な白人隊員は本場の英国SASに入隊したと言います。白人政権末期には、各地の傭兵も招かれて黒人達の独立派を掃討する作戦が繰り広げられました。

そんな血で血を洗う戦いを収めるために、英国の調停によって、議会の代議員100議席中、20議席を白人の固定枠とする事で妥協を見ます。そして1980年に「ジンバブエ共和国」が成立し、ムガベが初代首相に就任したのでした。

当初、ムガベ政権は黒人と白人の融和政策を押し進め、緩やかな改革を進める手腕が国際的にも歓迎されていたのです。しかし、大統領制を施行した頃から独裁色が強まったムガベ政権は、2000年に白人所有の大農場に対して強制収用を政策化したことから、白人との間の人種間対立が再燃してしまいます。これが輸出の大半を担う農業を事実上崩壊させてしまいました。そして2002年に発生した食糧危機や長期政権・一党支配に対する国民の不満が相まって、経済はガタガタ。治安も悪化の一途な上、インフラも進んでいる国となってしまいました。何処にでもあるアフリカ転落の轍を、この国も歩んでるようです。

ジンバブエのインフレ率は最近過去最高の1593.6%を達成したといいます。2000年以降、農産物の生産が激減して食料不足に陥っている上、外貨を稼ぐ農作物が輸出できないことで起こる外貨不足のため、元来輸入するしかない燃料(ガソリン)や電力(全体使用量の40%が輸入)などが買えない事が価格高騰の理由です。

大変傲慢な言い方かも知れませんが、白人から言わせれば、我々のノウハウを知らずに土地だけ取り上げて黒人が経営に乗り出しても、そもそも大農場の運営が出来ない奴らにどうやって切り盛りが出来るんだ?となるんです。

この理屈、日本人から見ると不思議な気もするでしょう。日本の場合、植民地化された経験がなく、技術の移転を経験しても、それは自らが吸収して消化するべきものだという意識が強い国民性があります。(まあ、それを支えてるのが教育レベルの高さなんですけど)しかし、アフリカでは黒人は植民地で単純労働力として何百年も支配されてきたせいで、教育を受ける機会には恵まれませんでした。こういうのを愚民政策というのですが、づっとそういう時代を過ごしてきた歴史があるために、今でも教育の格差は激しく、文字の読み書きすらおぼつかない人々が沢山居る状態です。

嘘みたいな話ですが、高校レベルの学校でも、教師は授業の半分は、今日行う教科書の単元を板書してるそうです。生徒は教科書を買う金がないため、それを必死に写す事が当たり前なのです。残りの時間で先生は授業をする訳ですから、まあ6時間の授業枠があっても、生徒は正味3時間分しか学ばない訳です。そのレベルは推して知るべしでしょう。(日本でも授業中に睡眠学習をしてる生徒の場合、これ以下という事もあるでしょうが、小学校レベルでちゃんと基本の読み書きは修得してますから文盲はさすがに少ないです)

結局、アフリカの植民地は独立したら、百年は白人が社会のシステムを維持してやるしかないのかも知れません。その間に臥薪嘗胆で黒人政府は、まず小中高の学校を設けて、毎年予算で適う分の国民を教育して育て、彼等をあるレベルまで学ばせてから、その中で特に優秀な人間を海外の大学に国費留学させてを延々と繰り返していくしかないのです。それから白人と肩を並べる教育を受けた人材を国や社会のシステムに送り込んで、次第に社会から白人を減らして行くという政策が取れない限りは、悲しいかなこういう歴史を歩むしかない気がします。そうしないと国民はやがて元よりも酷い貧困と、同族同士が相争う内乱に見舞われ、時には虐殺されたり、兵士として一生を終えるしかないのですから。

なにせ、国連の調査によるとジンバブエではローデシア時代と比較して、国民の平均寿命が著しく低下してしまったと言われています。1990年に62歳であったものが、2000年には44歳になり、いまは37歳だそうです。こんなの信じられますか?

<アフリカ諸国平均寿命ワースト5>

1位 スワジランド,35歳 (41.4歳)

2位 ボツワナ,36歳 (47.6歳)

3位 ジンバブエ,37歳 (48.5歳)

4位 レソト,38歳 (42.1歳)

4位 シエラレネオ,38歳 (30.3歳)

※ ( )は1950~55年の推定平均寿命を表します

 つまり白人支配の時代

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2007年4月19日 (木)

日本海軍の失敗~硬直化した人事感覚~

ミッドウェイ海戦で、燃えさかる艦橋に立ちつくし、退艦していく乗員を見守っていた空母『蒼龍』の柳本柳作艦長。あるいは空母『飛龍』の艦橋で味方駆逐艦から処分のために魚雷が発射されるまで、退避する乗員に山口多聞第二航空戦隊司令官と共に手を振っていた加来止男艦長。こうした姿は絵になったり映画になったりして我々の印象にも深く残っている。

(ミッドウェイ海戦で敵の攻撃を受け炎上する空母「加賀」)

現在でも軍艦の艦長は艦と運命を共にするものという考え方の人が残っているほど、この姿勢は日本人に浸透している。海の武人として潔い身の処し方には、どこか切腹する武家の姿にも重なり、日本人としては感動を覚えるのかも知れない。ただし、一人前の艦長や司令官を育てるには、20年以上の長い期間と経験、そして教育が必要である。(無論、税金も。)簡単に代替の効かない人材を、轟沈など退艦の機会を逸して失うのは仕方がないとしても、その責任感から自ら望んで死を選ぶのは、果たして正しい判断なのだろうか。

(ミッドェイ海戦で最後まで奮戦した空母「飛竜」の被弾直後の姿)

太平洋戦争中に日本海軍が保有した戦艦は12隻であった。そのうち、『大和』と『武蔵』は開戦日の昭和16年12月8日の時点では、連合艦隊に編入されておらず、緒戦に参加可能な戦艦は10隻であった。4年後の昭和20年8月15日の時点で沈んでいた戦艦は11隻。このうち『陸奥』は御存じの通り戦闘ではなく事故による自沈であった。他は交戦の結果、撃沈されたり、沈底させられたりしている。徹底的に日本海軍が米軍に壊滅させられたのが、よく理解できる数字である。なお、被害を受けながらも沈没を免れた『長門』もビキニ環礁で核実験に供され沈没しているので、実質的には日本海軍の戦艦は一隻も残らなかった。

沈没した戦艦の中で艦と運命を共にした艦長は8人いた。艦は沈没したが、何等かの理由で退艦して生還した艦長は3人。最後まで艦を守った『長門』の艦長杉野修一大佐は、蛇足だが日露戦争の旅順閉塞作戦に参加し福井丸で行方不明となった、あの杉野兵曹長の子息である。彼は前配置の空母『大鷹』の艦長時代に、比島沖で米潜水艦の雷撃により乗艦を失っている生還組で、動かす燃料の乏しくなった長門に発令されて来た。

さて、まずは生還した戦艦艦長の名前を確認しておこう。

 

  

『比叡』艦長 西田正雄大佐(昭和17年11月13日南太平洋で沈没)

 

    

『霧島』艦長 岩淵三次大佐(昭和17年11月15日南太平洋で沈没)

 

  

『榛名』艦長 吉村真武大佐(昭和20年7月28日江田島湾内で着底)

偶然だが、この3戦艦は『金剛』型の同型艦で、就役時は巡洋戦艦であったが、後に改装を繰り返し、開戦時には戦艦へと艦種を変更している。

既に述べたように日本海軍の戦艦は12隻しかなかった。しかも、当時は海軍戦力の主体と考えられていた艦種なので、いわば国家威信を背負う配置であった。そのため戦艦の艦長には選りすぐりの大佐が命じられた。また、戦艦の艦長は将官へ昇進する大切なステップでもあった。太平洋戦争中の連合艦隊司令長官を例に見てみると、山本五十六こそ戦艦の艦長に就いていないが、古賀峯一は戦艦伊勢、豊田副武は戦艦日向、小澤冶三郎は戦艦榛名の艦長を、それぞれ大佐時代に務めた。このようなエリート達の配置であった戦艦の艦長に選らばれたということで、まず、その人材が優秀であったという証としたい。

なお、『榛名』艦長の吉村大佐は、既に航行不能となっていた『榛名』を指揮して航空攻撃に対している内に、艦が破壊され着底してしまったため、厳密には沈没したとはいえないので、今回は此処で取り上げることを省くことにする。なお『榛名』が江田島湾内に着底して18日後には日本は敗戦を向かえた。

<『比叡』艦長、西田正雄大佐の場合>

 西田大佐は海軍兵学校44期。同期には真珠湾攻撃のプランニングをし、部下から変人参謀と言われた黒島亀人、蒼龍艦長としてミッドウエイ海戦で戦死する柳本柳作、部内で「ドイツ小島」と言われた小島秀雄などがいる。西田のハンモックナンバー(海兵卒業時の成績)は同期生95人中3番。卒業時に優等生として恩賜品を下賜された秀才であった。

卒業後は大尉の時に水雷学校高等科を卒業。この後、駆逐艦や巡洋艦で水雷長の勤務を積み水雷屋として一人前になった。やがて大尉の時に海軍大学校甲種学生に進み、在学中に少佐となる。海大も22人中2番で卒業。海兵優等卒業と海大甲種学生優等卒業という看板は将官への切符を手に入れたようなものだった。

この後の配置はエリートコースの典型のようである。海大卒業と同時にイギリス駐在となり、後にイギリス大使館付武官補佐官に正式に発令される。帰国後は海軍省軍務局1課勤務。翌年中佐に昇進すると当時の海軍最速駆逐艦島風の艦長となる。その後、海大教官、ロンドン軍縮会議随員、第三艦隊参謀、支那方面艦隊参謀と順調に栄職配置を次々にこなし、同期の一選抜として昭和12年12月1日に大佐に昇進する。この時、大佐になれたのは同期中でたったの7人。軍人は規定により、特定の年数を経ないと上位の階級には昇進できない仕組みになっていた。これを実役定年といった。実役定年は階級により定められていたので、早く大佐になれば、それだけ上位の少将になれる可能性が高まる。海兵卒業者の概ね6割は大佐に昇進できるよう配慮されていたといわれているが、西田の同期で大佐に一番遅く昇進した者は昭和16年10月15日と4年の開きがあった。戦時で昇進が全体に早まっていたのにである。大佐へ昇進と同時に、西田は軍令部第3部8課長となる。その後は、水上機母艦千歳艦長、第4艦隊参謀、巡洋艦利根艦長を歴任。そして開戦時に戦艦比叡の艦長を命じられた。この艦長職を無事に勤め上げれば、翌年には少将に昇任して、艦隊の参謀長や、戦隊司令官への道が開ける筈であった。

しかし、比叡の艦長となって1年2ヶ月後に、第3艦隊第11戦隊として同型艦霧島と第三次ソロモン海戦に参加した事が彼の運命を狂わせた。昭和17年11月12日、ガタルカナル島泊地に侵入してアメリカの巡洋艦群と交戦した比叡は、砲撃の被害により舵機室に浸水し操艦不能となった。それでも機関は無事であったため航行を続けたが、翌日の早暁にはアメリカの空母機とガ島から飛来した米海兵隊機の反復攻撃を受けて、進退窮まった西田大佐は戦隊司令官の強い指示を受けて総員退艦を決心し、艦を自沈させるように講じて、自らも迷いながらも乗員と共に比叡を降りた。この時の様子を後に西田大佐は次のように語っている。なお、11戦隊の司令官は阿部弘毅少将。戦隊旗艦はあの駆逐艦雪風である。

『12日の夜戦及び13日の総員退去に至るまでの情況は、第11戦隊司令官より、すでに報告せられた通りである。艦長として、戦闘指導適切を欠き、艦に重大なる損傷を受け、応急その効を奏するを得ずして、帝国海軍作戦上最重要なる任務を有し、且今日まで各種の光栄ある任務に服したる陛下の御艦比叡を、連合艦隊司令長官閣下の御訓示に背き、艦を見棄てついにこれを沈没に至らしめた。

また、忠勇なる多数の部下将兵を徒死せしめたその罪は、死を以ってするも、償い得ず、ただ恐懼に堪えざるものなり。

「比叡乗組員の収容と処分についての所見」

① 10時35分「乗員ヲ収容シ処分ス」

上命令を受け、あまりの意外を感じ、司令官のご意志いずれにあるやを知るに苦しめり。当時の状況は、早朝より反復雷爆撃を受けるも、魚雷一本も命中せず、爆弾は二、三発命中するも被害いうに足らず。缶室進水せるものありしが、排水使用の見込みあり、機械また完全にして、ただ問題は舵機室の浸水のみ。これを調査した結果、下甲板第18区被弾浸水により、通風筒及び通風弁破損し、舵機室に浸水せしこと判明。直接舵機室被弾によるものにあらざること、おおむね確実なり。したがって、極力下甲板第18区の遮防作業一時成功せるも、排水中再び失敗したるをもって、さらに第3回作業を下令せしところにして、応急及び敵機撃攘とその回避のほかに余念なき時に、上の命令を受け、実際あまりの意外さに、ただおどろけり。小官このとき「乗員収容を見合わされたし」との信号発信せんとするも、咄嗟に適当なる文案浮かばず、また、信号の方法に困惑し、そのままとせり。この受信を信号(文字不明)夜戦艦橋より怒鳴りしため、耳に敏感な乗員はこれを知り、みずから艦内一部に伝播せり。しかし、小官は、遮防成功が第一と考え厳命を下す。なお、遮防の見込みつくまでの時間の余裕を得るつもりにて、駆逐艦照月を曳航の件再考ありたき旨信号す。

②「退去準備ヨケレバ知ラセ」

再び司令官より命令あり。GF司令長官(山本長官)御訓示の次第もあり、本艦の状況はまだ退去を考えるごとき状態にあらず。極力応急に努めたきにつき、再考ありたしとの旨一筆し、第10分隊長をして雪風に持参せしめんとす。

③「総員退去セヨ」

司令官より三度目の命あり、各艦より短艇来る。とりあえず御真影のみ奉安することとし、その他の書類など内密に準備すべきを副長に命ず。第6分隊長小倉益敏大尉を艦橋に呼び、司令官命令による艦長の苦衷を伝えるため、雪風に使者として行くべきを命ず。その要旨は「第3回遮防作業実施中にして、あらたに作成せし防水要具おおむね完成し、これが成功せば舵機室排水の見込み十分あり、一時間ぐらいになんとか見込みつく見通しにて、それまで総員退去命令は、ご猶予ありたし」ということであった。さきに第11分隊長に託したる一筆は、第6分隊長の雪風に赴く際の艇指揮者に、これを携行せしむ。第6分隊長、間もなく帰艦し、「一時間で見込みがつくなら、全力を尽くしてやってみることである。しかし、見込みがなくなったときは、駆逐艦の曳航は不可能になったと思え」との司令官の言を伝えり。朝方よりの雷爆撃の回避は、艦長、航海長の技量にあらず。本艦の自然の回避にして、艦長、航海長はたんに速力を令したにすぎず、それにて十分回避の目的を達しあるため、大丈夫、魚雷命中などなしと思わしめたり。なお、魚雷、爆弾が何発命中しようと、これがため比叡が沈没することはあり得ず、もし最悪の場合、沈没の気配濃厚になってからでも、総員退去は遅くないと考え、小官としては最後を共にするまでのことと、至極平静な考えであった。かかるとき、突然思いもよらぬ司令官の命令①が来たので、まったく面食らい、どう考えても信号での意見具申はできないと思った。そのうち②の命令が再び届いた。「なあに、最後まで頑張るのだ」と固い決意でいたのであるが、そうしたことを思考中にも、司令官の命令を無視し、違反しているような気がしてきた。このため若干平静を欠き、判断にも影響を及ぼすようになった。③の命令が来るに及んで、一層自己の置かれた立場が、苦しく感じられてきた。しかしながら、比叡を預かっているのは艦長である小官である。ゆえに、自分の最善と思うことを行うべきだと考え直し、第6分隊長を派遣することを決意したのである。しかし、やはり内心、なんとなく司令官に楯ついているように思えてきた。二度ならず三度までも命令を受けながら、これに従っていないと言う考えが交錯するに至った。

これは、比叡護衛の警戒駆逐艦に、敵機の命中弾や至近弾がしきりに落下したこともあり、相済まぬ、という気持ちにさせられたことが、多分にあったのも事実である。頑として動かなかった司令塔の天蓋からおり、後甲板に向かったことも、現場の部下を激励するためであったが、多少焦慮した結果であり、艦長としてもっとも大切な、操艦、敵機撃攘回避などを、おろそかにしたものであったと悔いている。この間、爆撃を受け回避せざりしため、命中弾3発を被ったのである。

「遮防成功ス、タダイマヨリ排水ヲ始ム、浸水多量ニツキ、排水ハ長時間ヲ要スル見込ミ。状況ハ刻々報告ス」遮防作業の終了報告を受けたとき、ただちに司令部に発信し、これで比叡を必ず救ってかえれると、愁眉をひらいた明るい気持ちで、再び夜戦艦橋に移動せり。12時20分、運用長大西中佐来りて報告あり。「排水始めたるときは快調に進みしが、二段ぐらい引いてからは、排水はにわかにおとろえ、いささかも進捗せず」と。思うに漏水個所のあるやもしれずとの疑いを強くする。12時25分、敵爆撃機、雷撃機十数機来襲せり。「前進一杯」を命じたるも、実際は前進原速を令するのみ。これは夜戦艦橋と司令塔天蓋との連絡不良のためなり。これがため、前部揚錨機室右舷及び、右舷機械室前部に魚雷各一本命中、爆弾飛行甲板に命中す。小官、夜戦艦橋にありしため、機械に上の通り誤りありたるほか、防御砲火の指揮も適切ならず、右副砲の指揮官さきに戦死せるためか、砲火の威力乏しく見えたり。舵機室の排水の見込み、ついに立たず、右舷機使用不能、機械をもってする操艦まったく不能となる。艦がまだまだ敵機の雷爆撃に耐え得ることには自信あるも、司令官に猶予を乞いたる時間もすでに経過し、艦の状態は当時より一層不良となれり。かくなれば、いまは司令官の命に従うほかなし。自らは艦と運命を共にし、乗員を退去せしむべしと考えたり。われひとりのみ艦に残らんとしても、部下が残させてくれぬのは当然で、あまりにも浅墓な考えなりしを、悔ゆるも及ばず。御下賜品と勲章のみは遺品としたく、航海士に託して、持ち出させたり。その後司令官より、「艦長に話したきことあり、ただちに雪風に来たれ」との伝言あり。退艦は最後にするも、一切は司令官に一任するほか詮無し。退艦の途中、2回空襲あり、一回は友軍艦攻上空に来たり、これを攻撃す。雪風に収容せられたる後、GFより「比叡処分を待て」の命あり。あれば、ただちに比叡に帰艦すべきことを申し出しが、これは許されず、ついにそのままとなれり。憶うに、あの程度の雷爆撃ならば、比叡は十分に耐え得て、決して沈没するものにあらずと、今も固く信ずるものなり。にもかかわらず、これを見棄てて、沈没せしめたるを思うとき、ただ、痛恨きわまりなく、上陛下に対し、そして、艦上に倒れし戦友諸兄に対し、死をもってするも償い得ざる大罪を犯し、まことに申し訳なく、ただ恐懼に堪えざるものなり』   (昭和17年11月20日 西田艦長の手記より抜粋)

西田の判断は現在なら当然なのだが、この判断を当時の海軍大臣嶋田は良しとしなかった。一説には当時の山本大将が強く弁護したというが、帰還した西田大佐は翌年の昭和18年3月に予備役に編入される。つまり首である。その上、即日召集となり予備役大佐として、廈門在勤武官、第256空司令、第951空司令、福岡地方人事部長と、これまでとは比較にならない裏街道を歩かされることとなった。いわゆる懲罰人事である。西田大佐は航空部隊での勤務は千歳艦長のみ。それ故か第256空は上海・竜華飛行場に昭和19年2月に開隊した戦闘機の錬成部隊。第951空は、この部隊が昭和19年12月に編成替えで吸収された航空隊で、同じ上海・竜華飛行場に展開した戦闘機部隊と念が入っている。

西田大佐は秀才故に先を読めたので、合理的な判断として艦と運命を共にせず、捲土重来を期して(上官の阿部司令官の命令でもあり責任はあまり問われないだろうという判断もあったのかもしれない)退艦したのではないだろうか。しかし、この行動を海軍認めず、屈辱的な人事で応じた。この人事を知った艦長職の人間は、どんな状態であれ退艦は出来ないと悟らざる得なかったのではと思わされたろう。また、そういう効果を狙ってエリートの西田を嶋田大臣はスケープゴートにしたとも想像できる。

<『霧島』艦長、岩淵三次大佐の場合>

岩淵大佐は海軍兵学校43期卒業。成績は上の下というあたり。中尉の大正9年12月に横須賀航空隊におかれていた兵科航空士官養成コースの第5期航空術学生に進んでいる。同期は7名。訓練中に2名が殉職するという航空揺籃期のパイロット訓練生だった。翌年の10年7月に課程を修了。この当時は志願が前提の航空術学生のはずなのに、卒業後に大尉となると運送艦松江の分隊長に発令されている。松江は日露戦争時に仁川で自沈していたロシアの貨物船を海軍が救難整備した三等海防艦が前身の運送艦である。二線級のロートル艦にパイロットの資格者を海軍省は何故乗せたのか、今となっては判らない。これは想像だが何等かの理由で目を悪くしたか、あるいは本人が敢えて航空部隊勤務を辞退したかではなかろうか。

いずれにせよ、彼は翌年の11年には横須賀海兵団分隊長、ついで大正12年12月から海軍砲術学校高等科学生に進む。高等科学生は選抜試験があるので自ら選んで進んだものと思われる。砲術学校高等科学生を終えた者は各艦の砲術長として経験を重ね、徐々に大きな艦の砲術長へと進むのが通常の配置である。

岩淵大佐も翌年の卒業後は戦艦日向分隊長を経て、大正14年2等海防艦対馬砲術長を皮切りに、大正15年潜水母艦迅鯨砲術長、昭和3年佐世保海兵団分隊長を経て、昭和4年巡洋艦矢矧(初代)艦長。翌年、巡洋艦大井砲術長、巡洋艦阿武隈砲術長、巡洋艦鳥海砲術長と一年毎に乗艦を変えて大砲屋として修練を積んでいる。昭和8年には古巣の戦艦日向の砲術長となり同時に中佐へ進級。

岩淵は結局、海軍大学甲種学生には進まなかった。現場で叩き上げる典型的な大砲屋コースを歩いている。昭和9年呉警備戦隊参謀、翌10年呉鎮守府参謀を務めて、参謀職のキャリアも経験した。12年には順調に大佐に進級となり、13年水上機母艦神威艦長。同年12月より16年4月まで海軍省人事局2課に出仕。同年4月より練習巡洋艦香椎艤装委員長、同年7月艦長。同年11月水上機母艦秋津州艤装委員長と慌ただしく配置をこなしていく。昔パイロットとして訓練を受けた経験を買われて、水上機母艦の艦長に二度も選ばれた気がしないでもない。また、練習巡洋艦の艦長に指名されているところから見て、操艦能力も優秀な人ではあったと想像する。

翌17年4月に戦艦霧島艦長へ栄転。戦時には、砲術家として経験が豊富で、戦艦の砲術長を務めた経験のある岩淵は戦艦艦長には適任の配置であった。霧島は比叡とコンビを組んで第三次ソロモン沖海戦に参加。同年11月14日にアメリカ戦艦ワシントンとサウスダコダと交戦。サウスダコダを撃破するが霧島も被害甚大で、翌15日午前3時20分に沈没してしまう。霧島はアメリカ戦艦として直接砲撃戦を闘い撃破した唯一の日本戦艦となった。甚大な被害を受け沈没しつつあった霧島は、やがて総員退艦を令することになる。艦と運命を共にする覚悟を決めていた岩淵大佐は艦橋に残っていた。ところが、そんな彼を部下達が無理矢理に退艦させたと言われている。一説には抵抗する岩淵がラッタル(階段)の手すりに両手でしがみつくのを、部下達はその指を一本一本外して担ぎ出したという。

そんな経緯のためか、共に闘った比叡の西田大佐と違い、生還後は第11航空艦隊司令部付、横須賀鎮守府付という謹慎的な配置となるものの、昭和18年5月には少将に昇進。同日付で舞鶴地方人事部長となり、翌年11月には第31特別根拠地隊司令官として比島マニラに赴任した。極端な左遷とは言えないものの、同年にはマリアナ沖海戦や比島沖海戦などがあったことを考えると、戦艦の艦長や戦隊の司令官などの配置もあったはずで、特に米戦艦との直接交戦経験者である岩淵を活用すべきであった気もするのだが、やはり乗艦を失った艦長には、海軍は冷たかったようだ。

岩淵少将はマニラ市街戦を避けようと山岳地帯に撤退した陸軍とは共同歩調をとらず、市内に残り侵攻して来た米軍と正面から交戦する道を選ぶ。そして、このマニラ防衛戦で部隊と共に玉砕し彼も戦死したのだった。なお、死後に中将に進級する栄誉を得る。なお彼の同期で唯一の中将進級者である。(正確には同期の中沢佑が海軍省廃止の日に中将に昇任しているがこれはカウントしていない)岩淵がマニラを離れなかった理由に関しては、死に場所を求めたという見方もある程で、霧島と運命を共にしなかったことを彼はずっと後悔していたのかも知れない。一説には第31特根隊はマニラ市の防衛を命じられていたので、その命令が海軍上級司令部から変更されない限りは、撤退する理由がない事を陸軍側に申し入れたともいわれている。命令に忠実で部隊を見捨てず、部下と運命を共にした姿は指揮官としての彼の覚悟のほどを示している。

アメリカ海軍でもイギリス海軍でも、艦長が乗艦と運命を共にした例がある。しかし、両国とも生還した艦長は査問委員会で、退艦時の状況を査問され、その是非を判断された上で、問題がなければ職務に復帰を許される。敢闘して艦を失うのは、戦争時は仕方がないという合理的な判断があったものと思われる。

日本でも英米でも艦長となれる人材を育てる手間は変わらない。貴重な人材を有効に活かす人事について、日本はあまりに偏狭であった。平時に自らの操艦ミスで艦を失うのと、戦闘で艦を失うのとを同列には扱えない。戦闘詳報等の資料と生還した乗員の証言などを検討して、艦長の指揮と退艦に至るまでの判断を評価する場を設けて、その判断が是となれば、その人材を再活用するのに何が憚れるだろう。日本海軍は、その人事においても英米に負けていたのかも知れない。


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2007年4月14日 (土)

昭和の亡霊のお話

「ゾルゲ事件」は昭和史の謎のひとつです。定説では「ゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦うえで不可欠であった。」というのですが、ソ連崩壊後に情報公開が行われ、ゾルゲ情報をスターリンは信用せず、日本側の謀略に乗せられていると疑っていたという話が出てきて色褪せてしまいました。事実、ゾルゲにソ連がその活躍を認めて「ソビエト連邦英雄」の称号が贈ったのは1964年。処刑されてから20数年が過ぎてからのこと。情報は集めるよりも評価することが難しい好例のようなお話です。

昨年末に亡くなったボリス・グドゥジ氏はゾルゲが所属した内務人民委員部(NKVD)での上司だった人物です。粛清の嵐の時代から第二次大戦を経て104歳の天寿を全うしたのですから、この処世術はこそ勲章ものです。

さて、篠田正浩監督の映画「ゾルゲ」でモッ君が演じていた尾崎秀實は、「ゾルゲ事件」でキーパーソンになる日本人です。彼は利用されたインテリという印象が定説ですが、、実際の尾崎は朝日新聞記者を経て、昭和12年頃から「昭和研究会」に入り、「支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍。今風に云えば総理の諮問委員会で政策に影響を与える立場にいたのでした。

「昭和研究会」は、陸軍とも密接な関係にあり、後には近衛政権を誕生させたり、大政翼賛会を創設したり、日本に一党独裁政権を目指す、ある意味A級戦犯的活動を扇動に実績を上げまたファシズム色の強いシンクタンクです。彼等の憧れたナチスは国家社会主義政党。でも見方を変えたらソ連も共産党独裁国家です。世間では、社会主義・共産主義を廃絶する法律を持ち、摘発に血道を上げながら、国家の上層部が社会主義革命を目指す政策提言を検討するというのは、相当に矛盾した状況だと思われませんか。ここを押さえずに、単なる軍部の暴走で戦争が始まったと未だに思い込んでる人がいるのは、誰の謀略なんでしょうか。誰が日教組にその指示を出したのでしょうか。

そんな「昭和研究会」で尾崎が力を入れたのが『東亜共同体』という構想の実現です。簡単に云えば、中国に親日政権を樹立し、反日政権と戦わせて平定するというのですが、何だか今のイラクの現状に似ていませんか。この構想は汪兆銘政権樹立で実現するのですが、ある意味で尾崎は日本が支那で戦争をすることを止める気はなかったとも解釈できます。

今から考えると蒋介石を支援して共産党を討伐する方向性にしておけば、我々は悩まずに済んだのですが、尾崎は「終局的な平和」と称して、最後には日・ソ・支三国を共産同盟化したかったといいます。しかし、実際に努力したのは、日支和平の努力を水泡に帰す妨害工作でしかありませんでした。尾崎をこういう風に誘導したのは誰なのか。これも謎なのです。

ついでに書くと、尾崎・ゾルゲ一派を逮捕させた情報は誰が提供したのかのも大いなる謎として残されたままなのです。この点に関してある人とこういう会話をしたことがあります。

(ある人):当時アメリカで活動していた野坂参三ではないかという説を読んだことがありますが。同志をスターリンに売ったことがバレてから、かの人はメディアの中でどんどん怪物化しているので、ちょっと信憑性としては怪しいんですが、面白い話ではあります。「スパイは必ず二重スパイになる運命にある」のだそうです。そう考えると尾崎・ゾルゲ一派というのは始終ソビエトスパイであり続けたという点で稀有の存在ですよね。

(私):野坂参三伊藤律など、当時の日本共産党の党員筋から漏れたという説がありますね。興味深いのは野坂も伊藤も中国共産党と縁の深い人物だということです。野坂に中国の収容所で政治教育された人が昔の先輩にいました。延安派だと思ったら、ソ連のNKVDとも関係があるなど、どうも鵺の類だったようですが。最近の研究では伊藤が告白する以前から宮城与徳あたりは米国帰りと云うことで特高にマークされていたようですし、野坂説も仰有るように信憑性が薄いと云われています。

(ある人):ずっと気になって仕方がないんですが、野坂参三って結局どういう人だったんですかね。ちょっと前に興味を持って調べてみたんですが、元アメリカ共産党員の人が書いたものなんかは野坂に対して恨み骨髄という感じで、資料としてはちょっとどうかというのが感想だったんですが、その後も新資料が出れば出るほどどんどん正体不明になっていく有様は読んでいて寒気がしました。そもそも本当に共産主義者だったのか?首かせを嵌めていた組織はNKVDだったのかCIAだったのか、あるいはその両方だったのか?奥さんだった野坂龍という人はどこまで真相を知っていたのか?否、もしかして本当にスパイ(というかコントローラー)だったのは奥さんのほうだったんじゃないか?同志だった山本懸蔵を売った理由は主導権争いから? それとも単に女房を寝取った男が憎かったから? 自分と違って学歴もないのに同志たちから人望のある男が純粋に妬ましかったから?幣原喜重郎内閣書記官長の内務官僚次田大三郎(龍夫人の姉婿)という人は、身内にこんな真っ赤っ赤の人物がいてどうして失脚もせず出世しているのか?鵺の啼く夜は…。シモヤマ・ケースよりもこっちのが闇が深い気がしてなりません。

(私):野坂参三がどういう人だったかというのは難しい質問ですね。私はよく云えば風を読めた人、悪く云えばオポチュニストだった気がします。ご存じのように共産党は内部でも権力闘争の嵐が吹き荒れたところです。かって宮本顕治を人殺し呼ばわりして物議を醸した浜田幸一が政治生命を奪われなかったのも、証拠はなくとも実際に粛正に加わったであろう事は公然の秘密だったからです。そんな世界で生き残ったんですから。ですから、ソ連も中国も米国も彼を利用し利用されたんじゃないでしょうか。またこういう人物は自己中ですから、自分の都合で周囲の人を平気で切り離したりもしたのでしょう。(正直付いていってはいけない人です)共産主義者はロシア革命でもそうですが、案外富裕層から輩出されたインテリが多いものです。野坂もそうでした。彼の義兄次田大三郎が失脚しなかったのだって、それは次田が高文試験合格の人間だったからで、この辺の官僚の感覚は未だに変わりません。まして義理の関係では影響もすくなかったものと思います。それに、もしかしたら内務省の義兄にもつながりがあって身内の情報も流していたのかも知れないですし。日本共産党の闇も昭和史の謎のひとつです。まさに鵺の巣くう党ですね。

(ある人):一般庶民レベルでは「あそこにはアカの身内がいる」と言われたら最後ミソも米も売ってもらえないみたいなことも多かったのになぁ。ちなみに私の十年来のアトピーを完治させてくれた名医の先生は熱烈な共産党員で、診察のたびに症状説明をほったらかしてでも政治演説をしてくださる愉快な人でした(微苦笑)私の世代だと、共産主義・反共産主義ともに縁遠くて、野坂資料など読んでいてもサラッと使われている用語にいちいち引っ掛かって大変なんですが(「コミンテルン」が何かわからなかった私の感覚ではソビエトの共産主義と中国の共産主義はベツモノなのが当たり前だったので、世界の共産主義革命をひとつの組織が仕切るという概念を理解するのにまず苦労しました)、その時感じたのは、あー、共産主義も反共産主義も結局は同じ土俵で相撲を取っている同士だったんだなー、ということですかね。共産主義用語というのは私の親くらいの世代まではエリート層の一般教養だったみたいで、ああいう注釈も何もない本を出版しても皆理解できたんでしょうけど、私が読むと暗号本にしか見えません。(笑)だからまあ、共産反共産双方ひっくるめて、所詮エリート層の言葉遊びごっこだったのかなぁと。

(私):深い話しを有り難う御座います。確か赤髭先生は熱心な共産党員な方が多いようですね。私は昔熱心な共産党員の弁護士さんにお世話になりましたね。つまり個人として、個人の判断で社会正義を貫かれる場合は素晴らしい人も多いと言うことなんでしょうね。

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2007年4月13日 (金)

21世紀のドレフュス裁判

モーリス・パポン(MAURICE PAPON)氏の弁護士によると、(パポン氏は)17日、パリ郊外の病院で死去。享年96歳。心不全のため今月8日から入院していた。」

フランスは日本以上の学歴主義社会の側面が有るのをご存じですか。特に官界のキャリア制度は日本以上の超エリート社会です。

そもそも、フランスでは進学するための関門として『バカロレア』という制度があるのは有名です。(日本風に言えば高校の卒業資格認定試験)この難関の試験を突破した者が目指すのが『グランゼコール』という、フランス独自の高等専門教育機関です。日本風に言えば大学なのですが、日本の大学とは制度が随分違います。判りやすく言えば高等職業訓練校とでもいいましょうか。

ちなみに、グランゼコールの中で一番歴史があるのが『エコール・ポリテクニーク』です。この学校を普通日本では『フランス陸軍士官学校』と訳しています。日本の陸軍士官学校が理系中心の教育体系だったというのは、こういうモデルがあったからなんです。(明治の創世記は日本陸軍はフランス式でした)

そんなフランスで超エリートコースと言われているのが、バカロレア取得後に、名門のグランゼコール準備学級(中高一貫教育高が設けている進学のための予科コース)で2年間学ぶ方法です。グランゼコールの受験生は太陽を見ることがないといわれるほど、それは猛勉強に明け暮れるのだそうです。

さて、その甲斐あって国立グランゼコールに合格すれば、『聴講官』として国家公務員に採用され在学中は手当が支給されます。もちろん、卒業後も専攻した分野のエリートとしてキャリア官僚の待遇が保障されています。これは日本風に言えば、防衛大学校、海上保安大学校、気象大学校をイメージすれば分かり易いのですが、この三校は残念ながら国立グランゼコールの難易度とはかなり差がありますが・・・。

さて、そんな国立グランゼコール卒業生が次に目指すのが通称ENAと呼ばれる『国立行政学院 』です。ENAはその名の通り高級官僚を養成する学校です。主に国立グランゼコール卒業生(主な入学生はパリ政治学院の卒業生)が公務員としての勤務を経て入学し、卒業後はいきなり県の副知事として任命されるような(フランスは中央集権主義で知事は官選です)エリートキャリア官僚養成のコースです

こんな制度の国だという理解の上で、記事のモーリス・パポン氏の経歴を見てみると、彼もまたパリ政治学院の出身として官界に入っています。戦前にはENAがありませんでしたから、これだけで充分エリート官僚コースにのった人物だったことが判ります。

さて、1931年の卒業後、21歳のパポンは空軍省の大臣官房詰めを皮切りに、内務省の文書係、総理府の国務次官官房勤務を経験。1939年の第二次世界大戦勃発で、植民地歩兵隊少尉(26歳)として東地中海に派遣されて軍務に就いています。1940年に復員。内務省の課長補佐(30歳)となり、1942年にはジロンド県総務局長(32歳)になります。ここでユダヤ人の強制収容所送りに関与したために後に失脚・訴追されたのでした。

その後もパポン氏のエリートぶりは変わらず、1944年にランド県知事(34歳)。1945年内務省アルジェリア課の課長補佐(35歳)。1947年コルシカ県知事(37歳)。 1948年アルジェリアのコンスタンティーヌ知事(38歳)となり、1951年にはパリ警視庁の総監(41歳)を務めます。その後は行政監察官として活躍し、1968年にはドゴール派として政界に進出し下院議員(58歳)に当選。1978年には予算担当大臣(68歳)に登り詰めます。

しかし、1981年に週刊祇『カナール・アンシェネ』でパポンが戦争中にユダヤ人追放に関与していたことを示す2枚の公文書が公表されて騒ぎになり、その年の総選挙立候補辞退せざる得なくなります。

ただこの時点ではスキャンダルとして騒ぎになっただけでした。人が羨むエリートコースを歩んだ人間への疑惑ですから、マスコミはかなり煽ったようです。騒ぎの裏側には、もちろん庶民からの妬み嫉みもあったことでしょう。

ところが、その後1997年になってパポン裁判開始が始まります。この背景には、パポンを裁くことで、対独協力をしたヴィシー政権の行政責任を追求することが目的にあったと言われています。 言葉は悪いですが、パポンは体のよいスケープゴートだった気がします。

実は1941年から1944年の間に約6万7千人のユダヤ人が、フランス国内から強制収容所に送られたと言われています。そんなフランスには、当時も今もヨーロッパ最大の約60万人のユダヤ社会が存在します。ですから、裁判はフランス国内のユダヤ人の追放というヴィシー政府による対独協力の責任を認定する作業を兼ねていました。

実はフランスの歴代大統領は、「ヴィシー政府はフランスではなかった」として、この歴史の暗部には戦後一切触れようとしませんでした。それがシラク大統領の発言(1995年)を契機として、当時のユダヤ人迫害について、国家としての過ちを認めようとする歴史の問い直し運動が国内で高まっていきました。だからこそパポン裁判が16年も経ってから始まったのです。

裁判は、1998年に結審し、パポン氏は禁固10年、市民権剥奪10年の刑を受け、1999年10月刑務所に収監されました。その後、健康上の理由から2002年に仮釈放され、自宅や病院で療養生活を送っていました。

この老人の死がニュースになるのは、こうした複雑な要素があってのことですが、フランスに於けるパポン裁判は、ヴィシー時代のフランスの犯罪を、被告パポンひとりを断罪することで、歴史に決着をつけてしまうという側面が有ったことは否めません。それだけに、1894年にフランスで起きた、参謀本部勤務のユダヤ人大尉アルフレッド・ドレフュスに対する冤罪事件と、何処か似た匂いがあるのと感じるのは私だけでしょうか。

なお、日本人の平和運動家の中には、フランスのパポン裁判を高く持ち上げて、日本も戦中の犯罪に対して今からでも裁判を行うべきだと声高に主張している人がいます。こういう人々は東京裁判が有ったことを知らないか、あるいはワザと韜晦したかですから、鵜呑みにしてはいけません。念のため。

PS :あの『ジャッカルの日』の中で、モーリス・パポンというパリ警視庁の総監が登場しますが、これはもちろん彼のことだと思われます。    

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纒向遺跡群が語るもの

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2007年4月 7日 (土)

このままでよい訳がない

「国松孝次警察庁長官(当時)が銃撃され重傷を負った事件は、3月30日で発生から12年。警察トップを標的にした前例のないテロは有力な証拠が得られないまま、殺人未遂罪の時効(15年)まであと3年となり、警視庁南千住署捜査本部は粘り強く情報収集を進める方針だ。」

(事件の詳細はこちら)
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage458.htm

警察権威の凋落は、この事件に始まったという気がしています。なにせ現役の警察庁長官の狙撃という国家に対するテロ行為です。近代日本に警察制度 が創設されて以来、その最高責任者が狙撃されたことなど一度もありません。この警察に対する挑戦的な犯罪の捜査には、当初より大捜査網が敷かれた筈でし た。まさに日本の警察組織は総力を上げて捜査に乗り出したのに、未だに未解決なんですから。

当日の朝、東京都荒川区南千住隅田川沿いのマンション「アクロシティー」に住んでいた国松長官は、出勤のためマンションを出て、出迎えに来ていた官用車に乗り込もうと歩いているところを狙撃されました。

狙撃に使用されたのは38口径コルト・リボルバー「バイソン」という拳銃。シティーハンターの主人公、冴羽遼の愛銃といえば判りやすいでしょうか。

使用された銃弾は「357マグナム弾」をホロー・ポイント弾にしたものでした。さてホロー・ポイント弾ってなんでしょうか。

まず弾の構造について解説しておきましょう。銃弾の構造は中央に弾芯(鉛など)があり、その周囲をジャケット(銅など)で覆うという構造をしています。そんな弾頭には通常三種類があります。

(1)フルメタルジャケット弾:名の通りジャケットが底以外の弾芯を完全に覆っている銃弾のこと。その特徴は貫通力が強いことです。通常は軍用銃の弾頭はすべてこのタイプです。

(2)ソフト・ポイント弾:銃弾の先端を切り抜いて弾芯を露出させてあるもの。特徴は貫通時に変形しやすく、破壊力が高い点です。

(3)ホロー・ポイント弾:銃弾の先端を切り抜いて弾芯を露出させ、さらに窪みを付けたもの。特徴はソフト・ポイント弾以上に変形しやすく、破壊力に優れる点です。

つまり犯人がホロー・ポイント弾を使用したのは、絶対に国松長官を殺害するという意図があったことを伺わせます。また銃弾に関して専門的な知識を有し、知識のみではなく、実際に銃弾を改造できる能力のある者が銃弾を改造するか提供したことも判ります。

この犯人は長官に向けて約30mの距離から拳銃を4発を発射し、そのうち3発を命中させています。この距離は素人には大変遠い距離です。拳銃は小 銃と違い銃身が短いものです。銃身が短いと弾は真っ直ぐ飛びにくいのです。そのため何の訓練も受けていない素人だと5mも離れると人に当てることは大変難 しいと言われています。私も何度か拳銃を撃ちましたが、5m先の縦横30㎝ほどの的に当てるには指導を受けないと難しいと感じました。ただし、私が指導を 受けたのは22口径で発射の際の反動も少ない拳銃です。

警察も私のような素人が言うまでもなく、この点には疑問を抱き当時現職の警視庁警察官を逮捕し起訴しようとしましたが物証が少なく不起訴処分に なっています。一方でオウム真理教による組織的な犯行という視点もあって、こちらも捜査を行いましたが結局は犯人の特定に至っていません。

現在までに警察庁全面指揮の下、警視庁、各道府県警本部全てが動員され、のべ10万人の捜査員が投入される異例の捜査体制が行われました。捜査につぎ込まれた費用だけでも数億円と言われています。

今では情報提供者への報奨金200万円が虚しくなる一方です。

http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken/jikenbo/nansen/nansen.htm

孔子の戯言:出鱈目報道は中国の圧力から

京都市内にある中国人留学生のための『光華寮』をめぐる裁判の判決が先日報道されていました。しかしこの裁判を報道する方が、裁判の内容を中途半端にして報道するものだから、何となく日本の司法は筋を通したと勘違いしてしまいそうになっています。しかし事実はだいぶ違っているのです。

まずはこの裁判の問題点を整理してみます。

1945年4月、京都帝国大学は中国人留学生(台湾総督府からの留学生)の宿舎にあてるため、民間の所有者から土地と建物を賃借して『光華寮』を設置しました。しかし、同年8月の終戦により、留学生の受け入れは廃止となります。同時に、京都大学は寮への借料支払を停止。しかし寮生は、その後も『光華寮』に住み続け、中華民国駐日代表団(1952年日華平和条約発効後は中華民国大使館)に対して土地と建物の購入を働きかけました。その結果、1950 年と52年に土地と建物を中華民国が購入し、1961年には『光華寮』所有権移転登記も完了しました。

ところが、1965年頃から中華人民共和国を支持する一部の寮生が、中華民国の管理を阻害する運動を始めたため、1967年に中華民国政府は『光華寮』から、その寮生達の立ち退きと部屋の明け渡しを求める訴えを京都地裁に提起します。

1977年9月、京都地裁が「『光華寮』は、第二次大戦中に日本が中国から略奪した物資を引き継いだ中華民国駐日代表団が、それを処分した資金により購入した寮施設であって「公有、公共財産」であり、中華人民共和国政府の承認により、『光華寮』に対する所有権・支配権は同政府に移った」とする判断を示した。

これに対して控訴した中華民国駐日代表団に、1982年4月、大阪高裁は「内戦や革命で政府が完全に交代した場合には、前政府が所有した公有財産は包括的に新政府に承継されるが、本件は前政府が局地的に残存して事実上の政府としてその地域で実効的な支配を維持している不完全承継の場合であり、この場合には第三国にある前政府の公有財産に関しては、国家機能に直接か関わるものは別として、前政府がその所有権を失うことはない」として、原判決を取り消して、京都地裁に差し戻す判決を下します。

差し戻し後の京都地裁、大阪高裁は、上記大阪高裁の判断を支持し、旧政府が国を代表する立場において所有・支配していた財産(外交財産)や旧政府に対して認められていた国家権力行使のための財産以外の財産については、旧政府に権利が存続するものとして、政府承認が切り替えられた後の中華民国政府の当事者能力(日本の裁判所で訴訟にたずさわる能力)については、事実上の支配を根拠として、私的取引等により生じた紛争に関して、それを肯定するという判断を示しています。しかし、この裁判が係争中の1972年9月、日本政府は日中共同声明により中華人民共和国を中国の唯一の合法政府と認めることを決定します。留学生側はそれを根拠に最高裁へ上告。

ところが、司法当局は外交が絡む問題であるためとして、その後事実上裁判を棚上げ状態にして放置。やっと重い腰を上げたのが今年の3月27日という事になります。しかも最高裁が示した判断は、「台湾は日中共同声明によって、中国を代表する政府でなくなった結果、代表権を失ったとして日中共同声明を発表した日である1972年9月29日に訴訟は中断したとして、以後の手続を無効として上記差し戻し後の大阪高裁判決を破棄し、中華人民共和国政府に訴訟を受継させ審理をさらに続行させるため京都地裁に再度差し戻す」として、寮の所有権については判断を示さないという中途半端なものでした。

実は1974年から現在まで、中国政府は日本側とたびたび交渉を行い、同寮は中国の国有財産であり、中日国交正常化以降は中華人民共和国の所有となるべきだとして、日本側に同寮の不動産登記変更を求めています。要するに圧力を掛けられてる訳です。しかも、それを当の中国政府はこれをネットで公開してるんですから。要するに、台湾と日本の関係を悪くするための工作に乗せられてるだけなんです。

http://www.people.ne.jp/2007/03/28/print20070328_69304.html

草場の陰で司法権の独立に命を張った児玉惟謙は泣いてるでしょう。日本の司法も相当堕落してると思われませんか?

孔子の戯言:国を売って楽しいのか?

「『従軍慰安婦というもの自体がなかったといわんばかりの議論をするのは変だ。全部うそだと議論して騒ぐのは、知的に誠実ではない』と語っていることが29日、分かった。」

河野洋平さんは自分自身で「いわゆる従軍慰安婦問題」と言ったのを韜晦してるんですから、貴方自身が知的に誠実じゃないでしょうか。
(河野談話)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html

どうしてかというと、平成9年3月12日の参議院予算委員会で、平林内閣外政審議室長は「政府の発見した資料の中には、強制連行を直接示す記述は見当らなかつた」と答弁しているんですから。ちなみに「河野談話」は平成5年8月のことです。(念のため)

また当時副官房長官であった、石原信雄氏は産経新聞のインタビューで、この「河野談話」について下記のように答えています。(97年3月9日付け産経新聞)

河野氏は調査の結果、強制連行の事実があったと述べているがーー
「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。慰安婦募集の文書や担当者の証言にも、強制にあたるものはなかった」

政府の公式見解は既に10年前から「従軍慰安婦」は存在しないと公式に発言してるんですが、中国や韓国は「河野談話」が政府の公式見解というんですから、先方の意図は見え見えということです。

その上、日本でも公式見解をワザと中韓に合わせてる知識人や政治家がいます。色々弱みを握られて仕方がないのかもしれませんけども、いい加減皆さんはこの事実は知っておくべきなんじゃないでしょうか!

孔子の戯言:東京の空の玄関は何処に

Hanedasaikakuchou_1 「羽田空港で4本目となる新滑走路の着工がようやく決まった。3月30日から工事が始まり、2010年10月に完成する。スケジュールが10カ月遅れたとはいえ、「今後は、羽田から国際定期便が飛ぶ見通し」という報道に、胸躍らせている人も少なくないだろう。」

上記はある新聞の記事です。現在、羽田空港には3本の滑走路があります。A滑走路、C滑走路と呼ばれる3000mのもの2本と、B滑走路と呼ばれる横風用の2500mのものです。航空需要の増大で、最近の羽田空港はラッシュ時には2分間隔で発着が行われ、その発着能力が限界に達していると言われつづけてきました。こうした現状から、羽田への離発着便増便は不可能な状況になっています。この弊害として、限られた発着枠を有効に使うためとして、できるだけ輸送量の多い航空機を優先させる方針をとっているせいで、羽田空港は日本で唯一小型機の乗り入れが禁止されている空港になっています。その結果、特に地方空港との利便性が低下しています。これが地方空港の存続にも影響を与えるなど(地方空港の場合東京便以外は需要が少ないから)、その不満も高まってきています。

それらを考慮して計画されたのが今回の新滑走路という訳です。まず海上に人工島を造成し、既存のB滑走路とほぼ平行に近い形で2500mの滑走路を建設する計画です。これにより、空港の処理能力である「年間発着能力」は約29万回から約41万回まで引き上げられると国土交通省は試算しています。これに伴い、国内線については発着枠の増加が可能となり、現在受け入れていない小型機の受け入れや、多路線化や多頻度化が可能になるとしています。

そもそも「羽田空港の拡張は出来ない。離発着数は将来予想として拡大するのは確実だ。故に、羽田から国際線を切り離し、新東京国際空港を作る必要がある。」とかいって、すったもんだで時間を浪費し、あんな都心から離れた田舎に空港を作るのにも地元と大もめして(死者まで出して)、出来てみたら、地方空港に毛の生えたようなどうしょうもない能力の空港だった。しかも税金だけは国際級の空港建設分を上回るバラ巻きをしてのていたらく。

成田の弱点は、何といっても海外便から国内便への乗り継ぎの不便さにあるんです。空港を作った頭の悪い代議士先生達は、成田に来る人は東京へ行きたいんだろう位にしか考えてなかったとしか思えない、この短所こそが、羽田回帰の一番の理由だと私は思います。

そういえば羽田と成田をリニアでJALが結ぶなんて夢物語もあったんです、昔は。両空港を夢の超未来列車が30分で連絡するとかいう話だった気がします。成田空港建設は新幹線を作ってる昭和30年代なら、それは無理でも新幹線で結ぶのも可能だったし、この時期に本当は首都の空の玄関として大空港を建設しておくべきだったんです。戦後復興の旗印の元でなら、何とか出来たでしょう。資金面で海外からの借金は増えてしまうでしょうけど、その後の経済発展を思えば、それも返せたんですから。

そんな片肺の成田空港が、やっと定着して滑走路も2本になった。都心とを結ぶ鉄道網も何とかなってきた。なのにやはり羽田を拡張して国際線も導入しようって話を国土交通省が始めている。まさに地元にしたら背信行為です。それなら始めから羽田拡張路線で押し通していれば、今頃5本の滑走路で全てが3千メートル級にでも出来たんじゃないですか。アジアのハブ空港だってそれなりの地位は築けた筈だし。

それもこれも米軍厚木・横田基地の存在と管制空域の制限はあったという裏事情を考慮しても、それなら成田に米軍基地を移転させる代わりに、東京上空の管制空域を日本側に移管させる交渉だって出来たのではと言いたくなる。どうせ成田はもめる運命だったんだとしたら、そうした見識でもめた方が結果は随分変わったものになったでしょうに。

この際、米軍再編問題を足掛かりに、成田空港は米空軍横田基地と米海軍厚木基地として機能させるために貸与し、現厚木基地は陸自の中央即応集団の駐屯地としたらどうですか。木更津からヘリを呼んでも10分ほどで飛来するし、入間から空自のC1を呼んでも同じくらいで飛来できる。新編される中央即応連隊の駐屯地もここにしておけば、機動力は抜群に良い。誰かそういう事をまともに考えてる代議士はいないですか?

横田と羽田の両空港は地下鉄で結ぶ新路線を建設し、運営は民間委託するなどの、公共事業に税金を使うべきじゃないですか。横田には東京~大阪、東京~福岡、東京~千歳のドル箱便をシフトさせ、さらに発着枠を広げてやる。空港から新路線の地下鉄で新宿まで正味25分あたりに出来たら、都心に出るのは羽田とそんなに変わらないでしょう。このあたりの感覚が実は大事だと思いますよ。羽田は国際線の発着料で潤えばいいんですし、それが出来るんですから。

この際さらなる拡張のE滑走路も検討すべきじゃないですか?私の方で考えて図にしてみました。


Haneda_2

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