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2007年4月13日 (金)

21世紀のドレフュス裁判

モーリス・パポン(MAURICE PAPON)氏の弁護士によると、(パポン氏は)17日、パリ郊外の病院で死去。享年96歳。心不全のため今月8日から入院していた。」

フランスは日本以上の学歴主義社会の側面が有るのをご存じですか。特に官界のキャリア制度は日本以上の超エリート社会です。

そもそも、フランスでは進学するための関門として『バカロレア』という制度があるのは有名です。(日本風に言えば高校の卒業資格認定試験)この難関の試験を突破した者が目指すのが『グランゼコール』という、フランス独自の高等専門教育機関です。日本風に言えば大学なのですが、日本の大学とは制度が随分違います。判りやすく言えば高等職業訓練校とでもいいましょうか。

ちなみに、グランゼコールの中で一番歴史があるのが『エコール・ポリテクニーク』です。この学校を普通日本では『フランス陸軍士官学校』と訳しています。日本の陸軍士官学校が理系中心の教育体系だったというのは、こういうモデルがあったからなんです。(明治の創世記は日本陸軍はフランス式でした)

そんなフランスで超エリートコースと言われているのが、バカロレア取得後に、名門のグランゼコール準備学級(中高一貫教育高が設けている進学のための予科コース)で2年間学ぶ方法です。グランゼコールの受験生は太陽を見ることがないといわれるほど、それは猛勉強に明け暮れるのだそうです。

さて、その甲斐あって国立グランゼコールに合格すれば、『聴講官』として国家公務員に採用され在学中は手当が支給されます。もちろん、卒業後も専攻した分野のエリートとしてキャリア官僚の待遇が保障されています。これは日本風に言えば、防衛大学校、海上保安大学校、気象大学校をイメージすれば分かり易いのですが、この三校は残念ながら国立グランゼコールの難易度とはかなり差がありますが・・・。

さて、そんな国立グランゼコール卒業生が次に目指すのが通称ENAと呼ばれる『国立行政学院 』です。ENAはその名の通り高級官僚を養成する学校です。主に国立グランゼコール卒業生(主な入学生はパリ政治学院の卒業生)が公務員としての勤務を経て入学し、卒業後はいきなり県の副知事として任命されるような(フランスは中央集権主義で知事は官選です)エリートキャリア官僚養成のコースです

こんな制度の国だという理解の上で、記事のモーリス・パポン氏の経歴を見てみると、彼もまたパリ政治学院の出身として官界に入っています。戦前にはENAがありませんでしたから、これだけで充分エリート官僚コースにのった人物だったことが判ります。

さて、1931年の卒業後、21歳のパポンは空軍省の大臣官房詰めを皮切りに、内務省の文書係、総理府の国務次官官房勤務を経験。1939年の第二次世界大戦勃発で、植民地歩兵隊少尉(26歳)として東地中海に派遣されて軍務に就いています。1940年に復員。内務省の課長補佐(30歳)となり、1942年にはジロンド県総務局長(32歳)になります。ここでユダヤ人の強制収容所送りに関与したために後に失脚・訴追されたのでした。

その後もパポン氏のエリートぶりは変わらず、1944年にランド県知事(34歳)。1945年内務省アルジェリア課の課長補佐(35歳)。1947年コルシカ県知事(37歳)。 1948年アルジェリアのコンスタンティーヌ知事(38歳)となり、1951年にはパリ警視庁の総監(41歳)を務めます。その後は行政監察官として活躍し、1968年にはドゴール派として政界に進出し下院議員(58歳)に当選。1978年には予算担当大臣(68歳)に登り詰めます。

しかし、1981年に週刊祇『カナール・アンシェネ』でパポンが戦争中にユダヤ人追放に関与していたことを示す2枚の公文書が公表されて騒ぎになり、その年の総選挙立候補辞退せざる得なくなります。

ただこの時点ではスキャンダルとして騒ぎになっただけでした。人が羨むエリートコースを歩んだ人間への疑惑ですから、マスコミはかなり煽ったようです。騒ぎの裏側には、もちろん庶民からの妬み嫉みもあったことでしょう。

ところが、その後1997年になってパポン裁判開始が始まります。この背景には、パポンを裁くことで、対独協力をしたヴィシー政権の行政責任を追求することが目的にあったと言われています。 言葉は悪いですが、パポンは体のよいスケープゴートだった気がします。

実は1941年から1944年の間に約6万7千人のユダヤ人が、フランス国内から強制収容所に送られたと言われています。そんなフランスには、当時も今もヨーロッパ最大の約60万人のユダヤ社会が存在します。ですから、裁判はフランス国内のユダヤ人の追放というヴィシー政府による対独協力の責任を認定する作業を兼ねていました。

実はフランスの歴代大統領は、「ヴィシー政府はフランスではなかった」として、この歴史の暗部には戦後一切触れようとしませんでした。それがシラク大統領の発言(1995年)を契機として、当時のユダヤ人迫害について、国家としての過ちを認めようとする歴史の問い直し運動が国内で高まっていきました。だからこそパポン裁判が16年も経ってから始まったのです。

裁判は、1998年に結審し、パポン氏は禁固10年、市民権剥奪10年の刑を受け、1999年10月刑務所に収監されました。その後、健康上の理由から2002年に仮釈放され、自宅や病院で療養生活を送っていました。

この老人の死がニュースになるのは、こうした複雑な要素があってのことですが、フランスに於けるパポン裁判は、ヴィシー時代のフランスの犯罪を、被告パポンひとりを断罪することで、歴史に決着をつけてしまうという側面が有ったことは否めません。それだけに、1894年にフランスで起きた、参謀本部勤務のユダヤ人大尉アルフレッド・ドレフュスに対する冤罪事件と、何処か似た匂いがあるのと感じるのは私だけでしょうか。

なお、日本人の平和運動家の中には、フランスのパポン裁判を高く持ち上げて、日本も戦中の犯罪に対して今からでも裁判を行うべきだと声高に主張している人がいます。こういう人々は東京裁判が有ったことを知らないか、あるいはワザと韜晦したかですから、鵜呑みにしてはいけません。念のため。

PS :あの『ジャッカルの日』の中で、モーリス・パポンというパリ警視庁の総監が登場しますが、これはもちろん彼のことだと思われます。    

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