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2007年4月19日 (木)

日本海軍の失敗~硬直化した人事感覚~

ミッドウェイ海戦で、燃えさかる艦橋に立ちつくし、退艦していく乗員を見守っていた空母『蒼龍』の柳本柳作艦長。あるいは空母『飛龍』の艦橋で味方駆逐艦から処分のために魚雷が発射されるまで、退避する乗員に山口多聞第二航空戦隊司令官と共に手を振っていた加来止男艦長。こうした姿は絵になったり映画になったりして我々の印象にも深く残っている。

(ミッドウェイ海戦で敵の攻撃を受け炎上する空母「加賀」)

現在でも軍艦の艦長は艦と運命を共にするものという考え方の人が残っているほど、この姿勢は日本人に浸透している。海の武人として潔い身の処し方には、どこか切腹する武家の姿にも重なり、日本人としては感動を覚えるのかも知れない。ただし、一人前の艦長や司令官を育てるには、20年以上の長い期間と経験、そして教育が必要である。(無論、税金も。)簡単に代替の効かない人材を、轟沈など退艦の機会を逸して失うのは仕方がないとしても、その責任感から自ら望んで死を選ぶのは、果たして正しい判断なのだろうか。

(ミッドェイ海戦で最後まで奮戦した空母「飛竜」の被弾直後の姿)

太平洋戦争中に日本海軍が保有した戦艦は12隻であった。そのうち、『大和』と『武蔵』は開戦日の昭和16年12月8日の時点では、連合艦隊に編入されておらず、緒戦に参加可能な戦艦は10隻であった。4年後の昭和20年8月15日の時点で沈んでいた戦艦は11隻。このうち『陸奥』は御存じの通り戦闘ではなく事故による自沈であった。他は交戦の結果、撃沈されたり、沈底させられたりしている。徹底的に日本海軍が米軍に壊滅させられたのが、よく理解できる数字である。なお、被害を受けながらも沈没を免れた『長門』もビキニ環礁で核実験に供され沈没しているので、実質的には日本海軍の戦艦は一隻も残らなかった。

沈没した戦艦の中で艦と運命を共にした艦長は8人いた。艦は沈没したが、何等かの理由で退艦して生還した艦長は3人。最後まで艦を守った『長門』の艦長杉野修一大佐は、蛇足だが日露戦争の旅順閉塞作戦に参加し福井丸で行方不明となった、あの杉野兵曹長の子息である。彼は前配置の空母『大鷹』の艦長時代に、比島沖で米潜水艦の雷撃により乗艦を失っている生還組で、動かす燃料の乏しくなった長門に発令されて来た。

さて、まずは生還した戦艦艦長の名前を確認しておこう。

 

  

『比叡』艦長 西田正雄大佐(昭和17年11月13日南太平洋で沈没)

 

    

『霧島』艦長 岩淵三次大佐(昭和17年11月15日南太平洋で沈没)

 

  

『榛名』艦長 吉村真武大佐(昭和20年7月28日江田島湾内で着底)

偶然だが、この3戦艦は『金剛』型の同型艦で、就役時は巡洋戦艦であったが、後に改装を繰り返し、開戦時には戦艦へと艦種を変更している。

既に述べたように日本海軍の戦艦は12隻しかなかった。しかも、当時は海軍戦力の主体と考えられていた艦種なので、いわば国家威信を背負う配置であった。そのため戦艦の艦長には選りすぐりの大佐が命じられた。また、戦艦の艦長は将官へ昇進する大切なステップでもあった。太平洋戦争中の連合艦隊司令長官を例に見てみると、山本五十六こそ戦艦の艦長に就いていないが、古賀峯一は戦艦伊勢、豊田副武は戦艦日向、小澤冶三郎は戦艦榛名の艦長を、それぞれ大佐時代に務めた。このようなエリート達の配置であった戦艦の艦長に選らばれたということで、まず、その人材が優秀であったという証としたい。

なお、『榛名』艦長の吉村大佐は、既に航行不能となっていた『榛名』を指揮して航空攻撃に対している内に、艦が破壊され着底してしまったため、厳密には沈没したとはいえないので、今回は此処で取り上げることを省くことにする。なお『榛名』が江田島湾内に着底して18日後には日本は敗戦を向かえた。

<『比叡』艦長、西田正雄大佐の場合>

 西田大佐は海軍兵学校44期。同期には真珠湾攻撃のプランニングをし、部下から変人参謀と言われた黒島亀人、蒼龍艦長としてミッドウエイ海戦で戦死する柳本柳作、部内で「ドイツ小島」と言われた小島秀雄などがいる。西田のハンモックナンバー(海兵卒業時の成績)は同期生95人中3番。卒業時に優等生として恩賜品を下賜された秀才であった。

卒業後は大尉の時に水雷学校高等科を卒業。この後、駆逐艦や巡洋艦で水雷長の勤務を積み水雷屋として一人前になった。やがて大尉の時に海軍大学校甲種学生に進み、在学中に少佐となる。海大も22人中2番で卒業。海兵優等卒業と海大甲種学生優等卒業という看板は将官への切符を手に入れたようなものだった。

この後の配置はエリートコースの典型のようである。海大卒業と同時にイギリス駐在となり、後にイギリス大使館付武官補佐官に正式に発令される。帰国後は海軍省軍務局1課勤務。翌年中佐に昇進すると当時の海軍最速駆逐艦島風の艦長となる。その後、海大教官、ロンドン軍縮会議随員、第三艦隊参謀、支那方面艦隊参謀と順調に栄職配置を次々にこなし、同期の一選抜として昭和12年12月1日に大佐に昇進する。この時、大佐になれたのは同期中でたったの7人。軍人は規定により、特定の年数を経ないと上位の階級には昇進できない仕組みになっていた。これを実役定年といった。実役定年は階級により定められていたので、早く大佐になれば、それだけ上位の少将になれる可能性が高まる。海兵卒業者の概ね6割は大佐に昇進できるよう配慮されていたといわれているが、西田の同期で大佐に一番遅く昇進した者は昭和16年10月15日と4年の開きがあった。戦時で昇進が全体に早まっていたのにである。大佐へ昇進と同時に、西田は軍令部第3部8課長となる。その後は、水上機母艦千歳艦長、第4艦隊参謀、巡洋艦利根艦長を歴任。そして開戦時に戦艦比叡の艦長を命じられた。この艦長職を無事に勤め上げれば、翌年には少将に昇任して、艦隊の参謀長や、戦隊司令官への道が開ける筈であった。

しかし、比叡の艦長となって1年2ヶ月後に、第3艦隊第11戦隊として同型艦霧島と第三次ソロモン海戦に参加した事が彼の運命を狂わせた。昭和17年11月12日、ガタルカナル島泊地に侵入してアメリカの巡洋艦群と交戦した比叡は、砲撃の被害により舵機室に浸水し操艦不能となった。それでも機関は無事であったため航行を続けたが、翌日の早暁にはアメリカの空母機とガ島から飛来した米海兵隊機の反復攻撃を受けて、進退窮まった西田大佐は戦隊司令官の強い指示を受けて総員退艦を決心し、艦を自沈させるように講じて、自らも迷いながらも乗員と共に比叡を降りた。この時の様子を後に西田大佐は次のように語っている。なお、11戦隊の司令官は阿部弘毅少将。戦隊旗艦はあの駆逐艦雪風である。

『12日の夜戦及び13日の総員退去に至るまでの情況は、第11戦隊司令官より、すでに報告せられた通りである。艦長として、戦闘指導適切を欠き、艦に重大なる損傷を受け、応急その効を奏するを得ずして、帝国海軍作戦上最重要なる任務を有し、且今日まで各種の光栄ある任務に服したる陛下の御艦比叡を、連合艦隊司令長官閣下の御訓示に背き、艦を見棄てついにこれを沈没に至らしめた。

また、忠勇なる多数の部下将兵を徒死せしめたその罪は、死を以ってするも、償い得ず、ただ恐懼に堪えざるものなり。

「比叡乗組員の収容と処分についての所見」

① 10時35分「乗員ヲ収容シ処分ス」

上命令を受け、あまりの意外を感じ、司令官のご意志いずれにあるやを知るに苦しめり。当時の状況は、早朝より反復雷爆撃を受けるも、魚雷一本も命中せず、爆弾は二、三発命中するも被害いうに足らず。缶室進水せるものありしが、排水使用の見込みあり、機械また完全にして、ただ問題は舵機室の浸水のみ。これを調査した結果、下甲板第18区被弾浸水により、通風筒及び通風弁破損し、舵機室に浸水せしこと判明。直接舵機室被弾によるものにあらざること、おおむね確実なり。したがって、極力下甲板第18区の遮防作業一時成功せるも、排水中再び失敗したるをもって、さらに第3回作業を下令せしところにして、応急及び敵機撃攘とその回避のほかに余念なき時に、上の命令を受け、実際あまりの意外さに、ただおどろけり。小官このとき「乗員収容を見合わされたし」との信号発信せんとするも、咄嗟に適当なる文案浮かばず、また、信号の方法に困惑し、そのままとせり。この受信を信号(文字不明)夜戦艦橋より怒鳴りしため、耳に敏感な乗員はこれを知り、みずから艦内一部に伝播せり。しかし、小官は、遮防成功が第一と考え厳命を下す。なお、遮防の見込みつくまでの時間の余裕を得るつもりにて、駆逐艦照月を曳航の件再考ありたき旨信号す。

②「退去準備ヨケレバ知ラセ」

再び司令官より命令あり。GF司令長官(山本長官)御訓示の次第もあり、本艦の状況はまだ退去を考えるごとき状態にあらず。極力応急に努めたきにつき、再考ありたしとの旨一筆し、第10分隊長をして雪風に持参せしめんとす。

③「総員退去セヨ」

司令官より三度目の命あり、各艦より短艇来る。とりあえず御真影のみ奉安することとし、その他の書類など内密に準備すべきを副長に命ず。第6分隊長小倉益敏大尉を艦橋に呼び、司令官命令による艦長の苦衷を伝えるため、雪風に使者として行くべきを命ず。その要旨は「第3回遮防作業実施中にして、あらたに作成せし防水要具おおむね完成し、これが成功せば舵機室排水の見込み十分あり、一時間ぐらいになんとか見込みつく見通しにて、それまで総員退去命令は、ご猶予ありたし」ということであった。さきに第11分隊長に託したる一筆は、第6分隊長の雪風に赴く際の艇指揮者に、これを携行せしむ。第6分隊長、間もなく帰艦し、「一時間で見込みがつくなら、全力を尽くしてやってみることである。しかし、見込みがなくなったときは、駆逐艦の曳航は不可能になったと思え」との司令官の言を伝えり。朝方よりの雷爆撃の回避は、艦長、航海長の技量にあらず。本艦の自然の回避にして、艦長、航海長はたんに速力を令したにすぎず、それにて十分回避の目的を達しあるため、大丈夫、魚雷命中などなしと思わしめたり。なお、魚雷、爆弾が何発命中しようと、これがため比叡が沈没することはあり得ず、もし最悪の場合、沈没の気配濃厚になってからでも、総員退去は遅くないと考え、小官としては最後を共にするまでのことと、至極平静な考えであった。かかるとき、突然思いもよらぬ司令官の命令①が来たので、まったく面食らい、どう考えても信号での意見具申はできないと思った。そのうち②の命令が再び届いた。「なあに、最後まで頑張るのだ」と固い決意でいたのであるが、そうしたことを思考中にも、司令官の命令を無視し、違反しているような気がしてきた。このため若干平静を欠き、判断にも影響を及ぼすようになった。③の命令が来るに及んで、一層自己の置かれた立場が、苦しく感じられてきた。しかしながら、比叡を預かっているのは艦長である小官である。ゆえに、自分の最善と思うことを行うべきだと考え直し、第6分隊長を派遣することを決意したのである。しかし、やはり内心、なんとなく司令官に楯ついているように思えてきた。二度ならず三度までも命令を受けながら、これに従っていないと言う考えが交錯するに至った。

これは、比叡護衛の警戒駆逐艦に、敵機の命中弾や至近弾がしきりに落下したこともあり、相済まぬ、という気持ちにさせられたことが、多分にあったのも事実である。頑として動かなかった司令塔の天蓋からおり、後甲板に向かったことも、現場の部下を激励するためであったが、多少焦慮した結果であり、艦長としてもっとも大切な、操艦、敵機撃攘回避などを、おろそかにしたものであったと悔いている。この間、爆撃を受け回避せざりしため、命中弾3発を被ったのである。

「遮防成功ス、タダイマヨリ排水ヲ始ム、浸水多量ニツキ、排水ハ長時間ヲ要スル見込ミ。状況ハ刻々報告ス」遮防作業の終了報告を受けたとき、ただちに司令部に発信し、これで比叡を必ず救ってかえれると、愁眉をひらいた明るい気持ちで、再び夜戦艦橋に移動せり。12時20分、運用長大西中佐来りて報告あり。「排水始めたるときは快調に進みしが、二段ぐらい引いてからは、排水はにわかにおとろえ、いささかも進捗せず」と。思うに漏水個所のあるやもしれずとの疑いを強くする。12時25分、敵爆撃機、雷撃機十数機来襲せり。「前進一杯」を命じたるも、実際は前進原速を令するのみ。これは夜戦艦橋と司令塔天蓋との連絡不良のためなり。これがため、前部揚錨機室右舷及び、右舷機械室前部に魚雷各一本命中、爆弾飛行甲板に命中す。小官、夜戦艦橋にありしため、機械に上の通り誤りありたるほか、防御砲火の指揮も適切ならず、右副砲の指揮官さきに戦死せるためか、砲火の威力乏しく見えたり。舵機室の排水の見込み、ついに立たず、右舷機使用不能、機械をもってする操艦まったく不能となる。艦がまだまだ敵機の雷爆撃に耐え得ることには自信あるも、司令官に猶予を乞いたる時間もすでに経過し、艦の状態は当時より一層不良となれり。かくなれば、いまは司令官の命に従うほかなし。自らは艦と運命を共にし、乗員を退去せしむべしと考えたり。われひとりのみ艦に残らんとしても、部下が残させてくれぬのは当然で、あまりにも浅墓な考えなりしを、悔ゆるも及ばず。御下賜品と勲章のみは遺品としたく、航海士に託して、持ち出させたり。その後司令官より、「艦長に話したきことあり、ただちに雪風に来たれ」との伝言あり。退艦は最後にするも、一切は司令官に一任するほか詮無し。退艦の途中、2回空襲あり、一回は友軍艦攻上空に来たり、これを攻撃す。雪風に収容せられたる後、GFより「比叡処分を待て」の命あり。あれば、ただちに比叡に帰艦すべきことを申し出しが、これは許されず、ついにそのままとなれり。憶うに、あの程度の雷爆撃ならば、比叡は十分に耐え得て、決して沈没するものにあらずと、今も固く信ずるものなり。にもかかわらず、これを見棄てて、沈没せしめたるを思うとき、ただ、痛恨きわまりなく、上陛下に対し、そして、艦上に倒れし戦友諸兄に対し、死をもってするも償い得ざる大罪を犯し、まことに申し訳なく、ただ恐懼に堪えざるものなり』   (昭和17年11月20日 西田艦長の手記より抜粋)

西田の判断は現在なら当然なのだが、この判断を当時の海軍大臣嶋田は良しとしなかった。一説には当時の山本大将が強く弁護したというが、帰還した西田大佐は翌年の昭和18年3月に予備役に編入される。つまり首である。その上、即日召集となり予備役大佐として、廈門在勤武官、第256空司令、第951空司令、福岡地方人事部長と、これまでとは比較にならない裏街道を歩かされることとなった。いわゆる懲罰人事である。西田大佐は航空部隊での勤務は千歳艦長のみ。それ故か第256空は上海・竜華飛行場に昭和19年2月に開隊した戦闘機の錬成部隊。第951空は、この部隊が昭和19年12月に編成替えで吸収された航空隊で、同じ上海・竜華飛行場に展開した戦闘機部隊と念が入っている。

西田大佐は秀才故に先を読めたので、合理的な判断として艦と運命を共にせず、捲土重来を期して(上官の阿部司令官の命令でもあり責任はあまり問われないだろうという判断もあったのかもしれない)退艦したのではないだろうか。しかし、この行動を海軍認めず、屈辱的な人事で応じた。この人事を知った艦長職の人間は、どんな状態であれ退艦は出来ないと悟らざる得なかったのではと思わされたろう。また、そういう効果を狙ってエリートの西田を嶋田大臣はスケープゴートにしたとも想像できる。

<『霧島』艦長、岩淵三次大佐の場合>

岩淵大佐は海軍兵学校43期卒業。成績は上の下というあたり。中尉の大正9年12月に横須賀航空隊におかれていた兵科航空士官養成コースの第5期航空術学生に進んでいる。同期は7名。訓練中に2名が殉職するという航空揺籃期のパイロット訓練生だった。翌年の10年7月に課程を修了。この当時は志願が前提の航空術学生のはずなのに、卒業後に大尉となると運送艦松江の分隊長に発令されている。松江は日露戦争時に仁川で自沈していたロシアの貨物船を海軍が救難整備した三等海防艦が前身の運送艦である。二線級のロートル艦にパイロットの資格者を海軍省は何故乗せたのか、今となっては判らない。これは想像だが何等かの理由で目を悪くしたか、あるいは本人が敢えて航空部隊勤務を辞退したかではなかろうか。

いずれにせよ、彼は翌年の11年には横須賀海兵団分隊長、ついで大正12年12月から海軍砲術学校高等科学生に進む。高等科学生は選抜試験があるので自ら選んで進んだものと思われる。砲術学校高等科学生を終えた者は各艦の砲術長として経験を重ね、徐々に大きな艦の砲術長へと進むのが通常の配置である。

岩淵大佐も翌年の卒業後は戦艦日向分隊長を経て、大正14年2等海防艦対馬砲術長を皮切りに、大正15年潜水母艦迅鯨砲術長、昭和3年佐世保海兵団分隊長を経て、昭和4年巡洋艦矢矧(初代)艦長。翌年、巡洋艦大井砲術長、巡洋艦阿武隈砲術長、巡洋艦鳥海砲術長と一年毎に乗艦を変えて大砲屋として修練を積んでいる。昭和8年には古巣の戦艦日向の砲術長となり同時に中佐へ進級。

岩淵は結局、海軍大学甲種学生には進まなかった。現場で叩き上げる典型的な大砲屋コースを歩いている。昭和9年呉警備戦隊参謀、翌10年呉鎮守府参謀を務めて、参謀職のキャリアも経験した。12年には順調に大佐に進級となり、13年水上機母艦神威艦長。同年12月より16年4月まで海軍省人事局2課に出仕。同年4月より練習巡洋艦香椎艤装委員長、同年7月艦長。同年11月水上機母艦秋津州艤装委員長と慌ただしく配置をこなしていく。昔パイロットとして訓練を受けた経験を買われて、水上機母艦の艦長に二度も選ばれた気がしないでもない。また、練習巡洋艦の艦長に指名されているところから見て、操艦能力も優秀な人ではあったと想像する。

翌17年4月に戦艦霧島艦長へ栄転。戦時には、砲術家として経験が豊富で、戦艦の砲術長を務めた経験のある岩淵は戦艦艦長には適任の配置であった。霧島は比叡とコンビを組んで第三次ソロモン沖海戦に参加。同年11月14日にアメリカ戦艦ワシントンとサウスダコダと交戦。サウスダコダを撃破するが霧島も被害甚大で、翌15日午前3時20分に沈没してしまう。霧島はアメリカ戦艦として直接砲撃戦を闘い撃破した唯一の日本戦艦となった。甚大な被害を受け沈没しつつあった霧島は、やがて総員退艦を令することになる。艦と運命を共にする覚悟を決めていた岩淵大佐は艦橋に残っていた。ところが、そんな彼を部下達が無理矢理に退艦させたと言われている。一説には抵抗する岩淵がラッタル(階段)の手すりに両手でしがみつくのを、部下達はその指を一本一本外して担ぎ出したという。

そんな経緯のためか、共に闘った比叡の西田大佐と違い、生還後は第11航空艦隊司令部付、横須賀鎮守府付という謹慎的な配置となるものの、昭和18年5月には少将に昇進。同日付で舞鶴地方人事部長となり、翌年11月には第31特別根拠地隊司令官として比島マニラに赴任した。極端な左遷とは言えないものの、同年にはマリアナ沖海戦や比島沖海戦などがあったことを考えると、戦艦の艦長や戦隊の司令官などの配置もあったはずで、特に米戦艦との直接交戦経験者である岩淵を活用すべきであった気もするのだが、やはり乗艦を失った艦長には、海軍は冷たかったようだ。

岩淵少将はマニラ市街戦を避けようと山岳地帯に撤退した陸軍とは共同歩調をとらず、市内に残り侵攻して来た米軍と正面から交戦する道を選ぶ。そして、このマニラ防衛戦で部隊と共に玉砕し彼も戦死したのだった。なお、死後に中将に進級する栄誉を得る。なお彼の同期で唯一の中将進級者である。(正確には同期の中沢佑が海軍省廃止の日に中将に昇任しているがこれはカウントしていない)岩淵がマニラを離れなかった理由に関しては、死に場所を求めたという見方もある程で、霧島と運命を共にしなかったことを彼はずっと後悔していたのかも知れない。一説には第31特根隊はマニラ市の防衛を命じられていたので、その命令が海軍上級司令部から変更されない限りは、撤退する理由がない事を陸軍側に申し入れたともいわれている。命令に忠実で部隊を見捨てず、部下と運命を共にした姿は指揮官としての彼の覚悟のほどを示している。

アメリカ海軍でもイギリス海軍でも、艦長が乗艦と運命を共にした例がある。しかし、両国とも生還した艦長は査問委員会で、退艦時の状況を査問され、その是非を判断された上で、問題がなければ職務に復帰を許される。敢闘して艦を失うのは、戦争時は仕方がないという合理的な判断があったものと思われる。

日本でも英米でも艦長となれる人材を育てる手間は変わらない。貴重な人材を有効に活かす人事について、日本はあまりに偏狭であった。平時に自らの操艦ミスで艦を失うのと、戦闘で艦を失うのとを同列には扱えない。戦闘詳報等の資料と生還した乗員の証言などを検討して、艦長の指揮と退艦に至るまでの判断を評価する場を設けて、その判断が是となれば、その人材を再活用するのに何が憚れるだろう。日本海軍は、その人事においても英米に負けていたのかも知れない。


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コメント

 基本的に大日本帝国そのものが「貧乏」であったことが漸減作戦やアウトレンジ攻撃といった戦法のみならず、戦力の出し惜しみやレイテ湾突入作戦における謎の転進、あるいは諸々の作戦に現れる「諦めの速さ」などにあらわれていったのではなかろうか?

 そういった点からも「艦と運命を共にする」ことを暗に求められたのだと思います。まぁ、それでなくても我国の官僚組織には「人件費よりも物件費」という意識が非常に高いですからねぇ・・・。

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