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2007年7月

2007年7月27日 (金)

世界は力学で動いている

技術の移転というのは何も軍事の世界に限らずとも、簡単に事が運ばないものです。何故なら、その技術を移転させたことで、相手が技術の一部を盗んだり、更に改良を加えてしまう可能性があるからです。

特に軍事分野の技術に限って云えば、製品としての兵器は売るとしても、コアとなる先端技術に関しては、いわゆるブラックボックス化されて提供され、その部分を直接知ることは出来ない契約が結ばれます。これは米軍独自開発のノウハウを流出しないという事も、国家の安全保障上(その他の追従を許さない先端技術が生み出す優位性なくして、国家の威信は保てないから)大切な方針だと考えるからですし、アメリカの連邦議会は元々からして、同盟国には自国の最新鋭兵器より一世代前の兵器を持たせていたい考えが根強いのですから。

では、そんな国から最新鋭の兵器を買うにはどうしたらよいのでしょうか。

ひとつの方法は、アメリカが開発している兵器と同等かそれ以上の性能を有する兵器を開発する計画と、技術的な蓄積、そして人員と予算を有して、実際に開発を始めることです。

記事にもある米軍の最新鋭戦闘機「F22Aラプター」の場合だと、これに対抗できる戦闘機を日本が独自で開発し、完成できると知ったら、アメリカ議会はこれに反発して、共同開発の提案をごり押しするでしょう。アメリカ以上の性能を有する戦闘機を日本が保有すると云うことは、それだけでアメリカの太平洋における制空権が危険になるということですから。

実際に日本は、F2戦闘機を独自に開発しようとして、アメリカの強力な外交圧力から共同開発を選択せざる得ませんでした。その理由のひとつが1987年4月に来日した米国防総省の調査チームが目の当たりにした日本の先端技術でした。その一部はアメリカには開発不能なもので、日本が航空機方面でこうした技術を独占されるのは脅威になると判断したのか、外交ルートなどを通して、戦闘機開発の対費用効果の問題や、米軍機の改良を提案するなど揺さぶりかを相当掛けてきたと云われています。

どうして日本が妥協したかと云えば、開発費用に関してアメリカは5千億円から8千億円の間は必要だろうと説いて回ったのに対して、実際に日本側が予算当局に説明しようとした開発費用は1650億円だったからだという話があります。

実際に共同開発が始まってみて、当初の見積もり予算では足りず、最終的には倍の金額が必要となったのですが、それでもF2は多くの欠陥を抱えながら、その排除をしないまま開発は終了してしまいました。これは日本側の政治的・官僚的な都合で、欠陥を排除することが出来なかったのですが、それを承知の上で正式採用されてしまいました。ある意味欠陥を知りつつ、運用面で工夫して任務につかせているのですが、当然ながら当初意図した能力はありません。もしF2が計画通りの性能を備えていれば、今回のFX騒動も、その改修機で対応するなど出来たのかもしれません。

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実はF2の性能上の欠陥を改修し、設計構想時の能力を付与することに成功していれば、日本の航空機産業と、防衛省にはかなりの技術的な経験が蓄積できたはずです。その経験を元にしてF3の開発計画を持ち、この機がステルス性能や日本独自の先端技術による新能力を持ち得るとアメリカが知っていたら、アメリカ議会は何があろうと、日本にだけはF22Aラプターを売ろうしたでしょう。

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イージス艦の機密漏洩が云々というのは、マスコミが作り上げた幻想で、それにアメリカ議会も乗っかっているだけに過ぎません。技術の移転は、それに見合うだけの理由があってこそ可能という、国際政治の力学を忠実に守っているだけなんです。

それを理解していないのは、日本の勝手な都合というものです。

2007年7月19日 (木)

今時の災害派遣は迅速です(最新版)

☆防衛省が災害派遣の詳細を公表しましたので、多少前記の内容と重複する部分をありますが、UPしておきます。

16日:10時13分頃、新潟県上中越沖(新潟の南西約60km)で、地震が発生。新潟県、長野県において震度6強を観測。

【16日】 防衛省の動き
10:15-防衛省災害対策室(室長:運用企画局長)設置。
14:40-防衛省新潟県中越沖地震災害対策本部(本部長:防衛大臣)を設置。
15:30-防衛省新潟県中越沖地震災害対策本部会議を開催。
21:40-防衛省新潟県中越沖地震災害対策本部会議(第2回)を開催。

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【17日】
11:30-防衛省新潟県中越沖地震災害対策本部会議(第3回)を開催。

【18日】
11:52-防衛大臣現地視察

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☆各自衛隊の動き

【16日】

10:35-陸自東部方面隊第12旅団第12ヘリコプター隊(相馬原)本部付隊OH-6D×1機が離陸。(長岡方面を偵察)
10:46-陸自東部方面ヘリコプター隊(立川)UH-1×1機が離陸。(小千谷、長岡、出雲崎、柏崎、上越を偵察)
10:48-陸自第12ヘリコプター隊第2飛行隊(相馬原)CH47×1機が離陸。偵察活動を実施。
10:49-新潟県知事から陸自第12旅団長(相馬原)に対し、災害派遣要請。
10:50-陸自第12ヘリコプター隊第1飛行隊(北宇都宮)UH-60JA×1機が離陸。(柏崎を偵察)
10:50-陸自第12旅団(相馬原)の初動対応部隊が出発。
11:01-海自第21航空群第123飛行隊(館山)SH-60J×1機が舞鶴基地を離陸。(舞鶴、能登地方を偵察)
11:06-空自航空救難団新潟救難隊U-125A×1機が離陸。(三条、長岡、小千谷、十日町、柏崎を偵察)
11:08-陸自中部方面航空隊中部方面ヘリコプター隊(八尾)UH-1×1機が離陸。(大津、敦賀、金沢を偵察)
11:08-陸自第12ヘリコプター隊第1飛行隊(北宇都宮)UH-60JA×1機が離陸。(桐生、長岡、宇都宮を偵察)
11:14-空自航空救難団新潟救難隊UH-60JA×1機が離陸。(三条、長岡、小千谷、十日町、柏崎を偵察)
11:15-海自第2航空群(推定)P-3C新潟上空に進出中。
11:37-陸自中部方面航空隊中部方面ヘリコプター隊(八尾)UH-1×1機が離陸。(大津、敦賀を偵察)
11:40-陸自第12旅団司令部(相馬原)、同旅団第30普通科連隊(新発田)から新潟県庁、長野県庁、飯塚市役所に連絡士官を派遣。
12:26-陸自東部方面ヘリコプター隊(立川)UH-1×1機が離陸。(秩父、碓氷峠、上田、長野を偵察)
12:40-陸自第12旅団の連絡士官を新潟県庁に派遣。
13:19-政府調査団が防衛省より現地(新潟県柏崎)に向けて出発。陸自中央即応集第1ヘリコプター団(木更津)CH-47で輸送。
13:20-新潟県知事から海自舞鶴地方総監へ災害派遣要請。
13:49-海自舞鶴地方隊第24護衛隊(舞鶴)の護衛艦「みねゆき」、「あぶくま」が金沢港を出港。
15:40-空自新潟救難隊のV-107×1機が負傷者(患者2名、医師1名、看護士1名、付き添い1名)を柏崎から新潟県庁に空輸。
15:40-陸自第12旅団第2普通科連隊(高田)の人員約210名、車両約60両が柏崎市において救出・救助活動、道路啓開を実施。その後、給水・給食支援活動も実施。
15:45-陸自第1施設団第5施設群(高田)の人員約20名、車両約10両が上越市において、給水・給食支援を実施。
16:04-空自新潟救難隊のUH-60JA×1機が離陸。偵察活動を実施。
16:57-海自舞鶴地方隊(舞鶴)の輸送艦「のと」が非常食搭載して舞鶴港を出港。
17:00-海自護衛艦隊第1輸送隊(呉)輸送艦「くにさき」を四国沖から呉に回航し、物資搭載後、柏崎港に向けて進出させる司令が自衛艦隊司令部より出る。
17:18-陸自第12旅団第30普通科連隊(新発田)の水トレーラー3両が刈羽村において給水支援活動を開始。その後、第30普通科連隊(人員約200名、車両約40両)が救出・救助活動、道路啓開も実施。
23:31-海自第24護衛隊(舞鶴)の護衛艦「みねゆき」が柏崎港に入港。非常食約3200食を陸揚げ。

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【17日】

00:00-陸自東北方面隊第9師団(青森)が柏崎市に向けて出発。今後、給水支援、入浴支援を実施予定。
00:30-陸自東北方面隊第6師団(神町)が柏崎市に向けて出発。今後、給水支援、入浴支援を実施予定。
01:20-海自第24護衛隊(舞鶴)の護衛艦「あぶくま」が柏崎港に入港。非常食約2400食を陸揚げ。
03:15-陸自東北方面総監直轄部隊(仙台)が柏崎市に向け出発。今後、給水支援を実施予定。
04:00-海自第3護衛隊群第63護衛隊(舞鶴)「みょうこう」(非常食約4000食)、第3護衛隊群旗艦「はるな」(非常食約2500食)、第2護衛隊群第2護衛隊(佐世保)「さわかぜ」(非常食約3100食)、第3護衛隊群第7護衛隊(大湊)「はまぎり」(非常食約2000食)が夜間の入港を避け柏崎沖で錨泊。以後物資を陸揚げ。
05:33-柏崎市、刈羽村で給水支援を開始
06:00-現地に到着した陸自部隊が柏崎市、刈羽村で給食支援を開始。
09:00-空自中部航空方面隊(入間)の派遣部隊(人員約40名、水タンク車5両)が柏崎市において給水支援活動を実施。
10:00-陸自中部方面隊第10師団(愛知県守山)が柏崎市に向けて出発。
10:44-陸自東部方面隊第2高射特科群(松戸)がみなとまち海浜公園で給食支援を開始。
13:15-陸自中央即応集団第101特殊武器防護隊(朝霞)が柏崎市に向け出発。今後、給食支援を実施予定。
13:30-陸自第1ヘリコプター団(木更津)司令部や第1ヘリコプター野整備隊を中心とする部隊が柏崎市に向け出発。今後、給食支援を実施予定。
14:00-陸自中央即応集第1空挺団(習志野)が柏崎市に向け出発。今後、給食支援を実施予定。
15:02-海自輸送艦「のと」が柏崎港に入港。主食約10500食、副食約18000食、乾パン約5200食、非常食約350食の物資を荷揚げ。
16:00-海自輸送艦「くにさき」が呉港を出港。陸自第13旅団(海田市)の給食支援隊が乗船。
17:50-陸自第12旅団第12後方支援隊(新町)、陸自第12旅団第12対戦車隊(新町)、陸自東部方面隊第6地対艦ミサイル連隊(宇都宮)が給食支援を実施。
18:22-海自第3護衛隊第3護衛隊(舞鶴)護衛艦「あまぎり」が柏崎港に入港。毛布約2200枚、主食約5200食、副食約3000食、カップめん9400食、非常食約2000食、仮設トイレ20基を荷揚げ。
19:00-陸自第12後方支援隊(新町)が柏崎市のしおかぜ荘にて入浴支援開始。
22:00-陸自東部方面輸送隊(朝霞)が、民間支援物資(仮設トイレ200台)を柏崎市に向け輸送のため出発。


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【18日】

01:30-陸自東部方面輸送隊(朝霞)が、民間支援物資(ブルーシート2600枚)を柏崎市に向け輸送のため出発。
04:00-陸自第101特殊武器防護隊(朝霞)が給食支援を開始。
06:40-陸自東部方面輸送隊(朝霞)民間支援物資(ブルーシート2600枚)が、柏崎港着
07:30-陸自東部方面輸送隊(朝霞)民間支援物資(仮設トイレ200台)が、みなとまち海浜公園着
10:15-空自中部航空方面隊(入間)が柏崎市において給水支援開始。
11:52-防衛大臣が防衛省より現地(新潟県柏崎)に向けて入間基地を空自第2輸送航空隊第402飛行隊(入間)C-1で出発。新潟空港から柏崎市へは陸自CH47(所属記載なし)で移動。
14:00-陸自第3後方支援隊(新町)が柏崎市の柏崎小学校及び松浜中学校で入浴支援開始。*1
16:40-陸自需品学校需品教導隊(松戸)が刈羽村のラピカで入浴支援開始。
18:25-空自入間ヘリコプター空輸隊CH-47J×1機が米軍支援物資(エアコン100台)を新潟空港から柏崎第1中学校に輸送。

(注)*1:陸自第3後方支援隊(新町)という部隊は存在しない。恐らく中部方面隊第3師団第3後方支援連隊(千憎)の誤りではないかと思われる。


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【19日】   

07:00-柏崎市海浜公園で輸送艦「くにさき」搭載のLCACによる物資の陸揚げ開始。
11:59-空自CH-47(入間)×1機が米軍支援物資(エアコン約50台)を新潟空港から柏崎第1中学校に輸送。
22:37-空自中部航空方面隊の水タンク車5台が到着。給水支援を実施。

*海上自衛隊は、柏崎港岸壁において、護衛艦「みねゆき」「あぶくま」、輸送艦「くにさき」が給水支援を行った。

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【20日】

07:45-柏崎港において輸送艦「くにさき」にて入浴支援開始。
12:00-陸自東部方面輸送隊(朝霞)が、民間支援物資(簡易トイレ95台)を柏崎市及び刈羽村に向け輸送。(同日19:45刈羽村到着 20:10柏崎市到着)
12:53-輸送艦「のと」が柏崎港入港。支援物資を陸揚げ。

*海上自衛隊は、輸送艦「くにさき」入浴支援を実施。柏崎港岸壁において、護衛艦「みねゆき」、「あぶくま」、輸送艦「くにさき」が給水支援を行った。
水船23号ほか1隻が真水300トンを積載し舞鶴港を出港した。

*柏崎市荒浜コミュニティセンター及び西中通コミュニティセンターにおいて、米軍が行っているエアコン取り付け作業の支援を行った。


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【21日】

07:00-陸自東部方面輸送隊(朝霞)が、民間支援物資(携帯電話充電器1,000個)を新潟市に向け輸送。(12:23 新潟市到着)
13:35-輸送艦「くにさき」の交代として掃海母艦「うらが」が柏崎港に入港。
14:19-真水300tを積載し舞鶴港を出港した水船23号ほか1隻が柏崎港に入港。

*海上自衛隊は、輸送艦「くにさき」と13ヵ所で入浴支援を実施。柏崎港岸壁において、護衛艦「みねゆき」、輸送艦「くにさき」が給水支援を実施した。

*柏崎市内の4箇所(比角コミュニティセンター、剣野コミュニティセンター、半田コミュニティセンター、大洲コミュニティセンター)において米軍が行っている支援物資(エアコン)取り付け作業の支援を行った。東京防衛施設局職員も、7箇所(比角コミュニティセンター及び半田コミュニティセンター等)において、米軍が行っている取り付け作業に対して技術的支援を行った。

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【22日】

07:03-輸送艦「くにさき」が柏崎港を出港。(掃海母艦「うらが」に任務を引継ぐ。)
08:22-護衛艦「あぶくま」が、柏崎港を出港。舞鶴に帰投。
08:59-掃海母艦「うらが」が陸自部隊に対し給水を開始。

*海上自衛隊は、柏崎港岸壁において掃海母艦「うらが」が給水支援を実施した。

☆自衛隊の参加部隊

(1)派遣部隊

【陸自】
東部方面隊、中部方面隊、東北方面隊、北部方面隊、西部方面隊、
中央即応集団(第1ヘリコプター団)

【海自】
自衛艦隊、舞鶴地方隊

【空自】
航空支援集団、中部航空方面隊、北部航空方面隊、西部航空方面隊

(2)派遣規模

人員:延べ約21,760名
車輌:延べ約6,390輌
護衛艦7隻、輸送艦2隻、掃海母艦1隻 、水船2隻
航空機23機

(3)派遣活動

1:救出・救助活動(7月16日)

* 陸自第2普通科連隊(高田)が、女性1名を救出

2:人員・物資の輸送

○陸上自衛隊分

(7月16日)
* 政府調査団の輸送(市ヶ谷~新潟県柏崎市)
* 総理の輸送(官邸~新潟県柏崎市)
* 負傷者の輸送(柏崎~新潟県庁)

(7月17日~18日)
* 民間支援物資の輸送(仮設トイレ200台、ブルーシート2600枚)

(7月18日~19日)
* 米国支援物資の輸送(エアコン約100台)(新潟空港~柏崎第一中学校)

(7月20日、21日)
* 民間支援物資の輸送(仮設トイレ95台、携帯電話充電器1,000個)

○航空自衛隊分
7月24日(火) 現在
・車両:給水タンク18両含む56両
・人員:約140名

<航空偵察(情報収集)>
07/16 10:50~第6航空団(小松基地):F15J×2      
07/16 11:06~新潟救難隊:U-125×1         
07/16 11:14~新潟救難隊:UH-60J×1        
07/16 11:34~小松救難隊:UH-60J×1        
07/16 11:48~浜松救難隊:MU-2×1        
07/16 16:04~新潟救難隊:UH-60J×1       

<航空輸送実績>
07/16:V-107:新潟県庁~柏崎(県庁職員等空輸)
07/16:V-107:柏崎~新潟県庁(患者空輸)
07/16:UH-60J:新潟県庁~柏崎(医者空輸)
07/16:V-107:柏崎~新潟空港(県知事空輸)
07/17:UH-60J:新潟空港~柏崎(県知事空輸)
07/17:UH-60J:柏崎~新潟空港(県知事空輸)
07/18:CH-47J:新潟空港~柏崎1中(米軍救援物資輸送)
07/19:CH-47J:新潟空港~柏崎1中(米軍救援物資輸送)
07/20:CH-47J:入間基地~新潟空港(連絡幹部輸送)

3:給水支援(延べ約4790トン)(7月16日~)

* 柏崎市・刈羽村・上越市・出雲崎町の61ヵ所で実施

4:給食支援(延べ約30万食)(7月16日~)

* 柏崎市・刈羽村の35ヵ所で実施

5:入浴支援(延べ17200人)(7月17日~)

* 柏崎市・刈羽村の16ヵ所で実施
* 海上自衛隊艦船で実施 輸送艦くにさき(7月20日、21日)

6:天幕支援(約160張 設置)(7月18日~)

* 柏崎市の4ヵ所で実施

7:崖崩れ箇所の道路啓開(7月16日)

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2007年7月 9日 (月)

盧溝橋事件は七夕に始まった

日中戦争の発火点となった盧溝橋事件から7日で70年を迎えた。

ニュースなどを総合すると北京市郊外の盧溝橋に近い中国人民抗日戦争記念館では事件を体験した中国人元兵士を含む約 1000人が参加し、記念式典が開かれた。この式典には、「中国民間保釣(尖閣諸島防衛)連合会」や「愛国者同盟網」の反日活動家約30人らが招かれ、盧溝橋付近を行進したが、現地の報道では 混乱はなかった。同時に中国各地では、「七・七(盧溝橋事件)を忘れず、平和を大切にする」を統一テーマにした行事が行われた。

「盧溝橋事件」と中国共産党は史実上、何の関係も無いことなので、これは「反日」運動の一環的な行事です。そもそも「中国民間保釣(尖閣諸島防衛)連合会」なんてのが勝手に参加できるような式典でもありませんから、その裏側に中国政府が居るのは確実といえるでしょう。ただ、参加者千人ほどの式典に、日本もそう大騒ぎするほどのものでもありませんけど。

「盧溝橋事件」に関しては、日本側研究者は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ています。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を取るのが一般的です。

この事件を工作したのが中国共産党だという説も根強くあります。この説が単なる憶測なのかどうかは、次の中国の政権が登場するまで謎のまま残るでしょう。

当時の日本側の問題点は、そうした複雑で思惑の交錯する地域に駐屯させている軍隊に、冷静に外交を重んじ、挑発に安易に乗らないという信念を持たせられな かったことでしょう。

その原因のひとつは陸軍の一部に軍の利益を優先させ(己の功名も)、目先の事にしか考えの及ばない人々がいたことです。そして軍の人事に関して、影響力を 発揮できなかった政府の欠陥もありました。

ただし、歴史の教科書では紹介されることもあまりありませんが、事件翌日の7月8日4時00分頃には、『日中合同調査団』が北京を出発しています。彼等は5時00分前後、宛平県城(盧溝橋城)内に入り、中国側と交渉を開始していましたから、現地でもこれは単なるアクシデントとして終わるはずだったのです。

それをぶち壊すかのように、事件の発端に関わった演習中の日本陸軍・支那駐屯歩兵第1連隊では、合同調査団が北京を出発する1時間ほど前、伝令に 出た下士官が中国側から再び狙撃されたという報告を一木清直大隊長(ガタルカナルへ急派された際の指揮官)から受けた連隊長牟田口廉也(インパール作戦の指揮官)が 4時20分に戦闘開始を許可していたのが、功名を焦った輩の正体です。

それでも18時42分には現地からの報告を受けた参謀本部から、上級司令部の支那派遣軍司令官宛に、「事件の拡大を 防止する為、更に進んで兵力の行使することを避くべし」と、不拡大を指示する総長電が発せられています。

7月9日になると、停戦交渉により、深夜2時00分頃「とりあえず日本軍は永定河の東岸へ、中国軍は西岸」へという日本側の「兵力引き離し」提案を、 中国側が呑む形で、停戦協議が成立。撤退予定時刻は当初5時00分でしが、中国側内部の連絡の不備もあり、最終的な撤退完了は12時20分頃までずれ込み ましたが、無事に停戦は実効しています。

翌々日となる7月11日の20時00分に現地停戦協定が成立。(松井-秦徳純協定)。その内容は、「責任者の処分」、「中国軍の盧溝橋城郭・竜王廟からの撤 退」、「抗日団体の取締」を骨子としています。実は日中の全面衝突が始まることになる発端の「広安門事件」は、この後の26日に起こり、2日後の28日から北支で拡 大していったのです。

その背景には陸軍中央の軍首脳部内で拡大派と不拡大派の暗闘があったのは事実です。なにせ停戦協定の成立した同じ日に、内閣は五相会議で、「威力 の顕示」による「中国側の謝罪及保障確保」を理由とした三個師団派兵等が合意されているのですから。

外交上から見たら、これは停戦合意への明らかな裏切りで す。

もしも、盧溝橋事件で日中が全面戦争に突入したという誤解があるようでしたら、これを機会に少し学び直されてはどうでしょうか。そうでないとこれから中国人との論争に言い負かされるかもしれませんので。そして詳しく知れば知るほど、この事件は謎と不可解に満ちていると知ることになると思います。

2007年7月 6日 (金)

海を制するモノが世界を制する

http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB001120/id/200706281102?vos=nr25alsc0149001

「ここ数年、海運業が大好況だ。2007年3月期、海運大手3社(日本郵船、商船三井、川崎汽船)は揃って過去最高の売り上げを記録。株価も大きく上昇しており、特に川崎汽船の株価はここ5年で約10倍! にもなった。海運業が盛り上がれば船が足りないという話になる。そのため、今は造船業も活況だ。昨年、日本の造船量は1975年以来、実に31年ぶりに過去最高を更新した。それでも「まだまだ船の数は足りない状況」(同)だという。海運&造船業の活況はまだ続きそうなのだ。」

海運という視点で見ると、「従来の共産圏と資本主義圏の壁がなくなったことがあります。資本主義国同士の貿易にロシアが入り、中国が入って、世界の荷動きはとても増えました」と記事にもあるように、東西・南北の対立や壁は海運の世界では過去の話で、様々な貨物が七つの海を行き来しているというのがよく判る。我々は普段、海を見ても海岸から少し沖までの場合が多いので、その海を貨物船やタンカーがひしめき合っている姿は想像しにくい。

日本の食料をささえているのも海運だし、エネルギーをささえているのも海運なんだということを、我々はあまり意識していない。故に有能な政治家も育たず、海に関する外交では常に敗北してきた。例えば、東シナ海のガス田開発問題しかり、竹島問題しかり。やっと海洋担当の国務大臣が設けられたが、その所管業務に制海権だとかシーレーンといったものは含まれまい。といって防衛省にしても、領海領空の守りは語れても、そこから先の話となると、憲法上の制約もあることだし、表だっては語れない。迂闊な発言は面白おかしく扱われ、マスコミによる理不尽な解釈と講釈が垂れ流されて、正論もそれをめぐる冷静な議論も、存在しないかのように扱われる。

ひとたび日本の海路に問題が生じ、海運が滞ることになれば、物価は高騰し、生活は逼迫して、パニックだって産みかねないのにである。

「安全と水はただ」という日本の気風は実生活では徐々に変わってきているけれど、ひとたび自分達の想像も及ばない世界の話となると、相変わらず「安全はただ」という気分は残されている。そして日本の海の安全を誰が守っているのか。それに考えの及ばない人の方が多い。実はアメリカ海軍、太平洋海域はその第七艦隊の威光によって、この生活が守られているなんて誰も知らない。

この現実を知れば、左翼政党が「日米安保解体」とか軽く言うのが実に幼稚な議論に思えてくる。つまりアメリカ以外の誰が日本の海路の安全を保証するのか。そこを示さずにこの議論をしても無意味に過ぎないからだ。その尻馬に乗って騒いでいる人達は、自らの主義主張のために、餓死寸前になっても、その主張を貫き通せるか、試しに示して欲しい。

当たり前に存在するモノ達。それが実は守るべき最たるモノ達なんだということを、よく理解しておいて欲しい。


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2007年7月 1日 (日)

何時まで不毛な議論狩りをするのか

まだこういう風にしか原爆問題を扱えない、政界やマスコミには幻滅を感じます。何十年同じパターンでやる気なんでしょう。今回の久間防衛大臣の発言に関しての反応を見るにつけそう思えてなりません。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070630-00000135-jij-pol

では、久間章生防衛相はどんな風に話したのでしょうか。

30日、千葉県の麗澤大学で講演した大臣は、「(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原子爆弾を広島と長崎に落とした。そこまでやったら日本も降参し、ソ連の参戦を止めることができるということだった」と説明。さらに、「(終戦により)北海道は占領されずに済んだが、間違うと北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は、取られても何もする方法もない」と述べた上で、「(原爆で)本当に無数の人が悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と述べたと読売新聞の記事は伝えています。ちなみに久間氏は長崎県出身です。

この発言を受けて出てきた反応が以下のものです。異様に反応が早いのは新聞社などが取材したから。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070630-00000115-yom-pol

久間防衛相が30日、米国の原爆投下に関し「しょうがない」と発言したことに対し、広島県被団協(坪井直理事長)の畠山裕子事務局次長(68)は「原爆で亡くなった人々は仕方なく死んだのか。被爆者の気持ちが日本政府に伝わっていなかったと思うと、悲しくて言葉が出ない」と述べた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070630-00000078-mai-pol

野党側は民主党の菅直人代表代行が島根県出雲市で記者団に「防衛相としてふさわしくない発言。原爆投下そのものを容認するような姿勢は、日本の主張と矛盾する」と非難。

社民党の福島瑞穂党首は「安倍内閣が戦争被害者に対して冷酷であることを示している。安倍首相が直ちに罷免するよう求める」との談話を発表した。

共産党の志位和夫委員長は新潟市での記者会見で「閣僚失格。国会、選挙戦で追及する」と指摘。

国民新党の亀井久興幹事長も「罷免要求も考える」と語った。

私が憤るのは、政治家であれ、知識人であれ、原爆の使用を肯定的に捉えるような言葉尻があったら、それが与党や政治的に左翼寄りでない場合は、今起こってるような騒ぎを演出するということです。

さて、次の発言を見て下さい。1964年10月30日の参議院予算委員会において中国の核実験について日本共産党の岩間正男参議院議員によるものです。「(略)このたびの核実験によって少なくとも次のような大きな変化が起こっております。(略)世界の四分の一の人口を持つ社会主義中国が核保有国になったことは、世界平和のために大きな力となっている。元来、社会主義国の核保有は帝国主義国のそれとは根本的にその性格を異にし、常に戦争に対する平和の力として大きく作用しているのであります。(略)」と発言をしている

中国の核兵器は「戦争に対する平和の力」だという発言です。当時の日本では原水爆禁止運動が盛んな時期だったのですが、それで今のようなバッシングがあったかというとそうではありません。しかも1963年に共産党は「地下核実験を条約によって認めることになる」として条約に反対し、同時に、「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのもので容認すべき」と主張しています。ただし、こんな珍妙な論理には当時の普通の人々もついていけなくなり、「原水爆禁止運動」は国民的運動から、政治色の強い党派間のむき出しの争いに成り下がったのです。

世界で唯一の被爆国、日本で巻き起こった原水爆兵器の禁止運動は、政治党派による系列団体化という争いに巻き込まれ、今は単なる政治ショーとしてしか存在していません。こうしてしまった連中の末裔が、久間防衛大臣を非難してる政党の人々であるんですから、呆れてしまいます。

「広島に投下された理由」として広島の平和記念資料館ではこんな解説をしています。

戦争末期、日本の主要都市はアメリカ軍の空襲でほとんど壊滅状態でした。そのなかで、原爆投下目標として広島が選ばれたのは、次のような理由から、と推測されます。

1.都市の大きさや地形が、原爆の破壊能力を実験するのに適当であり、同時に原爆投下後の破壊効果を確認しやすかったこと。

2.軍隊、軍事施設、軍需工場などが集中し、しかも無傷であったこと

日本では「実験」的に原水爆は使用されたというのが常識のようです。

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