« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

2009年11月26日 (木)

思い出した!

『鹿男あをによし』のDVDを借りてきて、本放映時に見逃していた第1話から見直していて、自分が新人教師の頃をつい思い出しました。

2年目の私が任された2年生のクラスは、その核になる生徒の大部分がいた1年生のクラスの担任が神経性胃炎で療養中というほどの問題児ばかりの学級でした。要するに新人以外はなり手がないということだったのでしょう。

表向きは新人の若さとバイタリティーでクラスをまとめて貰おうなんでしょうが、要するに私だったら潰れても構わないという事だったようです。

最初の朝礼の日。前のドアから入ろうとしたら二枚扉が開きません。変だなぁと思って後ろの扉も開けようとしたのが開かない。中に向かって声を掛け ても沈黙。仕方がないので、ドアをどんと押したら、どういうものかドアごと教室の内側に倒れてしまい、生徒は呆気にとられてました。

またドアの鍵が掛かって開かないのも困るので、ドアは廊下に立てかけておき、出欠を取りました。出席番号順に名前を呼んでると、椅子を後ろに引い て足を組んでる生徒が、「先生、ドア壊して怒られないんか?」と聞くので、「ドアが壊れた?開けたら倒れただけやろう。それともお前が壊しておいたの か?」と聞き返すと、「何で俺のせいにするねん」と言うので、「じゃー倒れたんでいいのやろう」と答えると、フンと顔を横に向けてしまいました。半月ほど 前のドアは廊下に立てかけておかれて、かなりやりにくいことになったようです。

半月後位に、朝礼に行くとその廊下のドアが無くなっていて、教室で聞いても誰も知らないと言うので、どうせなら全部のドアを外して仕舞おうと、夕方に自分で3枚のドアを外してしまい、ベランダに出しておきました。

翌日朝礼に行ってみると、どういうモノかドアが四枚ともちゃんとセッティングされていて、「どうしたんだこれ?」と聞いても誰も何にも言いません。まあいいかと出席を取り、平気な顔で教室をあとにしました。勿論、夕方ドアは四枚とも外して廊下に出しておきました。

でも翌朝にはちゃんと元通り。

こういうのを一週間ほど繰り返してると、ある夕方の終礼で、
「先生!」とある生徒が声を出しました。
「はい、なんですか?」
「先生がドアを毎日外してるんやろう?」
「うん」
「何でそんなアホなことをするん?」
「ドアがあるとまた鍵が掛かって教室に入れないやろう」
「・・・」
別の生徒が「先生、そんな子供みたいなことは止めろよ」
と言うので、
「君達もドアを閉めて私を入れないとかいうのは子供やと思うんですが」
「・・・」
先日、”先生、ドア壊して怒られないんか?”と聞いた生徒が
「じゃ、先生を閉め出さへんかったらドアはもう外さないということか?」
と聞いたので、「そうだね」と答えておきました。

以後、担任を終えるまでドアは二度と閉まることがありませんでした。

この話を聞いた山岳部顧問で数学の先生は、私と同じようにドアを閉め出された際には、屋上からラペリングで廊下に降りて、窓から教室に入ってました。私なら窓を閉められないように窓を全部外しますけどね。

それから十数年。このクラスの生徒の結婚式に呼ばれて、挨拶する前段で、司会の人がこの話をして当人を驚かせたというエピソードにされてしまい、 仕方がないのでスピーチのアレンジで、「本日お祝いにあのドアをお持ちできず残念でした」と言っておきました。会場大爆笑でしたけど、変な教師だというイメージが会場で生まれたのは言うまでもありません。

クリスマスのためのネタ教えます

早いもので来月の今頃はクリスマスも終わって、いよいよ師走だ!という気忙しい頃になっております。気が早いのですが、クリスマスに話すネタをひとつ。

「諸人(もろびと)こぞりて」は、欧米で有名なクリスマス・キャロル「Joy to the World! the Lord is come」(邦題:民みな喜べ)に、別の賛美歌の詞(Hark the glad sound! the Saviour comes)の邦訳をつけるという日本生まれのクリスマス讃美歌だってご存じでしたか。

まあ、その話は今回したい話ではありません。
下の歌詞の話です。

    諸人(もろびと)こぞりて 迎えまつれ
    久しく待ちにし 主は来ませり
    主は来ませり 主は、主は来ませり

    悪魔のひとやを 打ち砕きて
    捕虜(とりこ)をはなつと 主は来ませり
    主は来ませり 主は、主は来ませり

    この世の闇路(やみじ)を 照らしたもう
    妙なる光の 主は来ませり
    主は来ませり 主は、主は来ませり

    萎(しぼ)める心の 花を咲かせ
    恵みの露(つゆ)置く 主は来ませり
    主は来ませり 主は、主は来ませり

    平和の君なる 御子を迎え
    救いの主とぞ 誉め称えよ
    誉め称えよ 誉め、誉め称えよ

この文語体まじりの歌詞は、唄うだけなら気になりませんが、こうやって文字で見てみると、何とも難解です。

例えば、「諸人(もろびと)こぞりて 」の「諸人」は「多くの人々」。「こぞりて」は「挙る」+「て」。「挙り」は「残らずに揃う」というような意味です。つまり「残らずに揃いて」。「迎えまつれ」は「迎え」+「まつれ」。「まつれ」は祀る=祈願する。

「多くの人々は残らず揃い、(主を)迎えるために祈願せよ」とでも訳せましょうか。

「悪魔のひとやを」ですが、「ひとや」+「を」です。「ひとや」は「人」と「屋」という漢字を当てれば分かり易いかも知れません。悪魔に虜にされ た人々の比喩です。昔は漢字で「人牢」と書いてあったとも言います。それを「打ち砕きて」なので、「悪魔の虜を解放して」とでも解したらよろしいのでしょ うか。

幼稚園の頃、クリスマスにこの歌を練習していたのですが、あの頃は日本語だとも思えませんでした。

人は見た目で判断しないのだ

私は元々、しっかり者に見られるし、他人様を巻き込むような旅行とか行事だと、かなり事細かに計画を立てて、念入りに実行するので、そこそこ信頼も篤いの だが・・・。これが自分だけのこととなると、結構出たとこ勝負だったり、ドジなことをしでかしたりする。この話を聞いた精神科の先生に自分をフォローしな い傾向は、かなり危険と指摘されたことがあるほどルーズ。

それでなのか日常生活で勘違いな行動に出て赤面する失敗はかなりある私。

先日、空港の保安検査場でANAカードのSKIPサービスを利用しようとカードを読み取り機に何度もかざしてるのにエラー。おいおい後ろが立て込んでるのに!と焦ってやっても駄目。カードをよく見たら似た色のスーパーのポイントカードだったヾ(*ΦωΦ)ノ

旅先でモバイルパソコンの調子が悪く、仕方なく会員になっているネットカフェに行った折のこと。会員カードを出したつもりが歯医者の診察券。しか し、暫く気付かずにいると、受付のおねえさんは冷静に「来週の月曜は診察ですね」と返してくれて、始めて間違いに気付いたヾ(≧∀≦*)ノ

ユナイテッドシネマのポイントカード「SPIS」を愛用している私。先月も福岡のユナイテッドシネマでレイトショーを見ようと、受付で、このカー ドを出したつもりが、TUTAYAのTカード。しかも、自分から「ポイントどれくらいあります?」と質問してしまい、受付のおねえさんに「ここでは判りま せん?」としっかり言われてカードを返された私。( ̄ー ̄?).....??アレ??

電話一本で申し込めて、目的地のホテルや旅館で支払いをすませられるというある大手旅行社の「旅がるプラン」で旅行した時のこと。ホテルについて フロントで「あのカルガモプランで申し込んだ孔子ですけど」と堂々と言ってしまい、自分でも”カルガモプランって?”と怪訝な思いにかられたっけ(;´艸 `)ぁぁぁ

遠い昔のフランスでのこと。エスカルゴを食べようと慣れないフランス語でギャルソンに注文。すると「どれくらい?」と量を聞いたような気がして、 適当に8個というつもりで「huitaine」と云ってしまった。すると6個入りエスカルゴの皿が8皿来てしまったが、”こんなに注文していない”という フランス語が思い付かず。黙々とエスカルゴを食べる羽目に。エスカルゴを8皿も食べまくる日本人は目立つよね。しかもそんな私にギャルソンは”ソースはパ ンに付けて食べると旨いよ”と何度も何度も勧めるし。(゚ε゜;)翌朝起きたらエスカルゴになってました。

2009年11月21日 (土)

Self Image

気は心と申します。人はその肉体を心で操縦しています。心が輝いている人、自信に満ちている人は、その内面の自信が外面にも現れて、容姿や人に与える印象すら変えてしまいます。

何故、人は自分を責めるのでしょうか?それは、こう言うことなんだと思います。 人間はセルフイメージ、つまり自分で自分のことをどう思っているのかという固定観念を持っています。このセルフイメージは、主に小さい頃にできあがると云われています。それは、自分自身で作ってきたものではなく、ほとんどの部分は、親や先生、友達などからの影響でできあがったものなのです。 つまり他人から与えられたものです。 その他人から与えられたセルフイメージを、何の抵抗もなく受け入れてしまって出来たのが、今の私たちのセルフイメージだということです。そして、その与えられたセルフイメージどおりの役割を演じているのが、今日の私たちだと言うわけす。 だから、自分のセルフイメージが良くないからといって、別に貴方が悪い訳ではないんです。此処はとても大事なことなんです。貴方自身が悪い訳じゃないというのを、今ここで納得して下さいね。 自分の本当の姿、自分が出来ることをを正しく認識していれば、見栄を張ることもなく、例え人より下に見られても別に気にすることなく生きていけます。自分が自分であるために、自分らしく生きるために、今の貴方のセルフイメージを変えてみる気はありませんかというのが、人生一度は立ち向かわないといけない自分を探す旅の目的です。 実際、セルフイメージは今からでも変えることができます。そして、セルフイメージを変えて新しい自分を作れば、今まで難しいと思えてた事が簡単に達成できたりするものなのです。そうですね。こう考えてみて下さい。俳優は役を演じる時に、その役柄の人物に成り切ると云います。これもある種の擬似的なセルフイメージを作ると云うことなんです。俳優によっては役柄に入れ込んでしまい、本当の自分が消えてしまうこともあるといいます。


1. 私たちはセルフイメージに従って行動する

重要な事実は、「私たちはセルフイメージに従って行動する」と言う事です。「自分はこういう人間だ」というイメージに従って行動するのです。それだけでなく、どんなに努力したところで、それに逆らって行動することができないのです。例えば、“自分は社交的な人間だ”というセルフイメージを持っていれば、“知らない人と話をする”のも苦ではありませんが、“自分は内向的だ”と考えていれば、どれだけ、社交術の本を読んだとしても、なかなか“知らない人と話をする”ことはできないのです。 これは“知らない人と話をする”のが苦手だから、“自分は内向的だ”というセルフイメージが作られるわけではありません。”自分が内向的だ”と思っているから、知らない人と話をする時に緊張して、上手くしゃべれなくなり、その経験を重ねることで、自分は内向的だと思ってしまうようになるのです。 全ての始まりはセルフイメージから始まっています。 だから同じ知識や才能でも、成功する人としない人がいるのには、こういう理由があったからなのです。成功する人は、自分は成功すると思っているからこそ、それに従って行動できるのです。しかし、自分は成功できない人間だと思っている人は、どれだけノウハウを学んだとしても、行動が伴わないのです。何故なら、それはセルフイメージに反する行為だからです。 ほとんどの人は、自分の成長や、成功などを求める時に、外面的な事からスタートします。例えば、本を読んで知識をつけたり、何かの技術を身につけようとしたりするのです。しかし、内面的な事を変えようとする人はごくわずかなのです。実はそのイメージ作りにこそ成功の足掛かりがあるのだと気付いて下さい。


2. セルフイメージは自分の好きなように作り替えることができる

セルフイメージは子供の頃に作られると云いましたが、それが一生そのまま変わらないわけではありません。 それは変えることができます。年を取りすぎているとか、そんな事は関係ありません。実際に「変えよう」と思わなくても、セルフイメージは変化し続けているものなのです。だから、あなたがやるべき事は、その変わる方向を自分の望んでいるいい方向に向けてあげればいいだけなのです。 あなたにも習慣や癖はあるでしょう。そして、「習慣を変えてください」と言われたら、年齢がいくつだろうが意識すれば変えることができると思えるはずです。セルフイメージもそれと同じです。ほとんどの人が自分の行動を変えようとしてもなかなか上手く行かないのは、それが直接、外側の事を変えようとしているからです。自分の内側の事よりも、外側の事を変えようと努力するからです。外側の行動を変えたければ、まず自分自身への考えを変えなければいけません。


3. 一度セルフイメージが変われば、全てが自然に開けてくる

一度、新しいセルフイメージができると、それに合った行動は極めて自然でスムーズになります。なので、新しいセルフイメージに合った事が簡単に達成できるのです。私たちは新しいセルフイメージができると、それに合った行動はとても簡単になります。今まで気合いの必要だった仕事も簡単にできるようになります。例えば自分が営業マンだと思っていれば、人にセールスのプレゼンをする事は、とても簡単な事でしょう。しかし、世の中にはそれがとても苦手でプレゼンを目の前にすると緊張する人もたくさんいます。例えば自分が起業家だと思っていれば、新しい事業をスタートしたり新しい商品を出すのは、とても簡単な事で何の気合いも必要ないでしょう。しかし、世の中にはそれができない人がたくさんいます。


これから自分のセルフイメージを作る時には、身の丈にあった良い面も悪い面も全てを否定しない姿にして下さい。今更自分へ格好をつけても始まりません。私はこんなもの。それが嫌なら離れて下さいでいいじゃないですか。どうせ捨て台詞を吐くのなら、こっちの方が自分も楽でしょう。

自分の容姿や能力は、人とそれぞれ違います。これは個性であって、能力ではありません。そこは誤解しないで下さいね。

2009年11月20日 (金)

他者は自分の鏡

「キライでも、なぜか気になる人がいるわけ」

この長い文章を要約するとこういう感じになります。

新しい付き合いが始まると、どうしても苦手な人が出てきますよね。これはどうしてなのでしょう?

人間には誰でも、意識の部分で「自分はこういう人間だ」と思っている姿とは相容れない、むしろキライで否定したい性質や考え方を無意識のなかに持っています。これをユングは「シャドー」と名づけました。どうしてもキライなのになぜか気になってしまう人がいるのは、その相手に自分が消し去りたい「もう一人の自分」を見るからなのです。それが“シャドー”です。この心の動きをユングは「投影」と呼びました。

キライな相手に会ったときには、その人のどこが自分をイライラさせるのかをよく観察しましょう。その部分が特定できたら、「自分にもそんな一面があって、それを否定したいから拒否反応が起こってるんだな」と、感じることが大事です。

シャドーは誰の心にも潜むもので、消し去ることはできません。自覚している自分像だけでなく、シャドーも含めてすべてが自分だからです。したがって、それを否定するのではなくまるごと受け止める必要があります。そして、自分のシャドーを受け止めたら、意識の上でコントロールしていくように心がけるといいのです。自分のシャドーにあらかじめ気付けていたら、シャドーが出すぎて自己嫌悪に陥らないようにセーブすることもできますし、人を傷つけることもなくなります。

そういう意味でも、キライな人を含めていろいろな人と付き合うのはとても大切なことです。みなさんも、さまざまな出会いの中から、自分と向き合うためのヒントを見つけてみませんか 


カール・グスタフ・ユングは、スイスの精神科医・心理学者。深層心理について研究し、分析心理学(通称・ユング心理学)の理論を創始した人物として知られています。

そのユング心理学の元型の一つが、記事にある「シャドー(Shadow)」、つまり「影」です。ユング心理学では「影」は否定的な意味を持つ自己の一部分を云います。記事にもあるように、自己の全てを受け入れて、影を認めることから、自己を知る旅は始まります。ユングは影を自我に統合することが、自我発達の道であり、自己実現の道であると説いています。

「投影」とは、自己の悪い面を認めたくないときに、他の人間にその面を押し付けてしまうような心の働きの事を言います。「他者は自分の鏡」というように人間は普通、自分については案外知らなかったりします。他者の目を通して初めて自分の知らなかった面に気付くことはよくあることです。投影とは、その一種で、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたということを指します。

この記事を一言でまとめると、自分を知るためには多くの人と知り合い、自分に合わない人に出会ったら、どの部分が自分に合わないのかを見付けて、その部分が自分にもあることをまず認識することから始めようと云うことになります。好きな人とだけ付き合う狭い社会を築いてしまうと自己実現や自我の発達は遅れてしまうということですね。まあ、偉くなるとこういう社会を求めがちになるのが常です。いわゆる裸の大様という奴ですね。

子供の発達段階で、学校が必要なのも、こうした環境下に強制的に身を置いて貰い、社会への適応性を養うと共に自我の発達を即する目的があるからです。

ところで、ユングと聞いて私が思い出すのは、シンクロニシティ(Synchronicity)の話です。シンクロニシティとは「意味のある偶然の一致」のことです。日本語訳では「共時性(きょうじせい)」と言います。非因果的な複数の出来事の生起を決定する法則として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理になりうるとして、ユングによって提唱された概念です。

シンクロニシティが意味するのは、何か複数の事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起するということです。

何だか小難しい言い回しになってますが、例えば、電話を発明したのは誰ですか?と聞くと、大半の人はアレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell)の名前を挙げます。しかし、実は同時期にイライシャ・グレイ(Elisha Gray)もほぼ同じ原理の電話機を発明していたことは知る人ぞ知るお話しです。グレイは特許の出願において、ベルに遅れを取ったため発明者とは認知されませんでした。でもその後一念発起してファックスの原型となるテレオートグラフ(後のテレックスの原型)を発明し、文字を遠くに電送することに成功して、雪辱を果たしたことで知られています。でも知名度はベルには及びませんでしたけどね。

このベルとグレイが同時期に同じ電話を発明するような事象をシンクロニシティと呼ぶ事ができます。

世界の何処かで旅客機が墜落すると、まるでそれに合わせたかのように飛行機事故が続くのもシンクロニシティと呼べばいいのかは、私には判りません。

2009年11月18日 (水)

『盲亀浮木』(もうきふぼく)

『盲亀浮木』(もうきふぼく)とは、目の見えなくなった老海亀が百年に一度浮き上がってきた時に、偶然穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むという寓話から出来た言葉。その意味するところは「出会ったり、物事が実現したりすることがきわめて難しいこと」の例え。ただし、この出会いとは狭義には尊い教えに出会う可能性の事でしかないが、広義には人と人の出会いに例えられることが多い。

『雑阿含経』の中に出て来る純然たる仏教用語なのも忘れてはならない。


ある時、釈尊が「たとえば大海の底に1匹の盲亀がいて100年に1度、波の上に浮かび上がるのだ。ところがその海に1本の浮木が流れていて、その木の真ん中に1つの穴がある。100年に1度浮かぶこの亀が、ちょうどこの浮木の穴から頭を出すことが1度でもあるだろうか」と尋ねられた。

阿難という弟子は「そんなことはほとんど考えられません」と答えると、釈尊は「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。しかし、全くないとは言い切れぬ。人間に生まれるということは、今の例えよりも更にありえぬ難いことなのだ」とおっしゃっていられます。

ちなみに類義語は、『千載一遇』であることは意外に知られていない。こちらも本来は仏教用語。千年に一度出会うかどうかという風な意味である。


ある数学者が計算したら、その確率は”114京9286兆4919億5633万3945年に1度”ということらしい。

『涅槃経』には「地獄に堕ちるものは十方世界の土のごとく、人間に生まれるものは爪の上の土の如し」とも説かれている。要するに、仏教では人間に生まれたことは大変有り難いことだから喜ばねばならないと人に説くことが一つの教義にもなっているということ。

その有り難い人間同士が出会うのは、盲亀浮木の確率どころの話しではない。そんな大変な偶然の中で出会った人と人。でも、その大変さは案外忘れられがちな気がする。だから出会いに感謝すると云うことも、ついつい忘れがちになる。

もちろん自分が生まれてきたことも、大変な偶然の産物であって、その大変さを思えば、自分を大切にしない人は罰当たりとしか云いようがない。

生い立ちの悲しさ、生い立ちから来る苦しみ、生きていく上での不運、それらを嘆く前に、まず自分が此の世に生を受けたことを感謝し、生まれた事だけで充分幸せだと思えば、我が身がいくら他人に比して不幸に感じられたとしても、それを気にする必要がないことに気付くだろう。

だからこそ、私は人との出会いは大切にしたいと思う。

私はこの話を大学の禅堂で今は亡き心の師である老師から直に聞く機会があった。老師は私に会うと何時も「お前のその利かん気が抜けたら、徳のある顔をしているのだから、一角の人徳者になれるぞ」と諭された。生意気な私は「人を助ける前に自分をまず助けたいのです」と反論すると、「人を助けることが自分を助けることだと気付かない内は自分など助けてやることは出来んわ」とやり返されたものである。そう言いながらも老師の目は常に慈愛の眼差しを私に向けてくれていた。普段は大徳寺の最高位にある高僧で、私のような者が会話をするのもかなわない相手なのだが、私は人との出会いには恵まれていたようだ。

その分、嫁との出会いには恵まれていないようだが・・・。(笑)←未だ独身!!

国文学を学ぶ傍らで、積極的に禅学や仏教学の講義にも認められる範囲でだが出てみた。何かにすがったり頼ったりすることが生来嫌いな性格故に、己を知り、己に打ち克つことを説く禅学は体質にあったようだ。私は、この勉学の機会を経て、人に優しくなれたし、人を助けることに迷いが無くなった気がする。

さて、そんな奇跡の出会いをしている私達。それにお互い感謝をしているだろうか?

2009年11月12日 (木)

原因探しをやめてみませんか!

『氷点』の著者、三浦綾子は、まるで病気のデパートのように、生涯にわたり多くの病気に罹りました。その事を或る時、三浦綾子は人に聞かれて、「自分は神様にえこひいきされているのではないかと感じるのです。それは、病気をするたびに、新しい発見と成長があったからです。」と答えています。

人は回復する見込みのない病や、病により重い障害が残ることを宣告されると、一般的には、こんな心のプロセスを辿り解決をしようとします。

1.現実の否認(認めない、信じない)
2.原因探し(「どうしてこの私が」という怒り)
3.取り引き(真面目に生活するからなどという自分への条件の提示)
4.受容(病を受け入れて平安を得る)

そういう視点で三浦綾子の心理的なプロセスを見ると、私には、なぜこんな困難に出会うのかと考えるのではなくて、何のために、この困難はやって来たのかを 考えようとする姿勢が見えてきます。こういうポジティブな気持ちで困難に出会ならば、私たちの心は、けしてその困難に押しつぶされることはないのかもしれ ません。

なぜなら、私達は、まず困難な事態が起きたら、その原因を考え、次に原因を取り除けば、問題は解決すると教わり、そう訓練されて来たから。ですから、何事にも、その原因は何かという「原因探し」をするのが当然だと思いこんでいます。

悪い出来事が起きた時、「なぜなのか」という原因を考えると、たいていは悪いことしか思いつきません。原因を探る行為には、心理的にいえば「犯人探し」を することです。それが自分から派生するモノにしろ、他人からであったにしろ、犯人が見付かれば、次はその犯人を攻撃する気持ちになります。そうすることで 責任転嫁が出来るからです。一旦自分の外へ出してしまおうとするのです。

心理療法の一つに、家族みんなが集まって行う「家族療法」というものがあります。ある心理療法士が言っていました。「お父さんが会社を休み、お兄さんが学 校を休んで、家族みんなが協力して家族療法を受けようと思ったときには、実は問題はもう解決への1歩を踏み出している。」のだと。

心理学的に考えてみると、私たちの心や行動の問題と、その原因は複雑にからみあい、単純にこれだというひとつの原因を決めることができません。世の中のあ らゆる原因という奴は、必ず答えが存在するゼロ和ゲームではなく、答えは存在しないが問題は存在するという非ゼロ和ゲームであるという認識が出来るかどう か、そういう問題なのです。

これも児童自立支援施設の先生がある保護者に言っていた言葉ですが、「学校にはいろいろ文句を言いたいこともあるでしょうけれども、学校も傷ついているこ とが多い。学校や教師を責めるのではなく、互いを認め合い、譲り合って、良い協力関係ができたときの方が問題も解決しやすい。」のだと。

この話を聞いた時、私は旧約聖書の「ヨブ記」を思い出しました。「ヨブ記」でも、神は不幸が襲ってきた時、意味のない原因探しをやめて、その出来事を受け 入れることができた時に、光明(解決の糸口)が見えてくると説いています。原因探しや犯人探しを止めて、現実を素直に受け入れると、人の心は平安になりま す。そして、さらにその突きつけられた困難の中から、自分への意義を見いだせた時に、私達の心は前向きな気持ちになるのだと諭すのでした。

例えば、大病をしたとします。私自身大病の経験がありますが、入院中は治癒の見込みが立つまでは、本当に治るのだろうか?あるいはこのまま死んでしまうのではないかと不安に思いました。どうして私がとも思いました。しかも退院後に軽い鬱病になってることが判明。仕事復帰をフイにして、自宅療養になり落ち込みましたが、色々なストレスや疲れで病気になり、精神の方も癒さないといけない時期だったと思っています。温泉へ湯治に行ってると、私なんかよりも難病に苦しまれてる人が、私を励まして下さったりするんです。「貴方は仕事に復帰できるんですよ。」それだけ幸せなんだと。

大きな困難に出会うと、人は誰でも、取り乱したり、落ち込んだりするのは当然です。大切なことは、自分自身を責めてはいけないと云うことです。そういうプロセスを大事にすれば、後日訪れる心の平安や平常心のもとになることがあるのですから。

何事にも「なぜ?」を問おうとせずに、「何のために?」と考えることの大切さを知って欲しいと思います。

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2015年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
フォト
無料ブログはココログ