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2010年5月

2010年5月21日 (金)

陸沈と盲瞽

後漢の思想家、王充。彼の著した思想書『論衡(ろんこう)』の第12巻謝短篇の中に、こういう一節があります。

知古不知今、 謂之陸沈。
読み:古きを知りて今を知らざる、これを陸沈という。
意味:歴史を知って現実を知らないものは、陸沈(陸上で溺死すること)したようなものだ。

知今不知古、 謂之盲瞽。
読み:今を知りて古きを知らざる、これを盲瞽(もうぜ)という。
意味:現実を知って、歴史を知らないものは、盲人と同じである。

中国や韓国が日本の歴史教育に加入し、近現代史にまで干渉したがるのは、統治国としては当然の事です。朝貢国に歴史を学ばせないというのが愚民化政策の中で一番なのだというのが、よく判るお話しでしょう。逆に言うと歴史教育は国家の成り立ちにも関係する重大な問題なのに、日本ではどういうものか、その逆が正義だとされて来ました。正しい方向性を言えば右翼だとレッテルを貼られてきたのですが、その指令は誰が出してたのか、もう皆さん判りかけてきましたよね。

既に政治の上では日本は中国に相当な部分まで浸透されてしまってるんです。 これからは騙されてる振りをしながら、相手を騙す高等戦術が必要です。そういう頭脳のと胆力がある政治家を見出し、国政の場につけられるかどうかに、この国の将来は託されていると言ってもいいでしょう。つまり国民の資質が今問われています。

せめて先人の知恵には真摯に向き合い、学ぶ時間を持ちたいモノですね。

ちなみに、王充は今の十二支の動物を選んだ人物だとされています。彼は猫が嫌いだったのか、本来はあった猫を抜いたのだそうです。

「IF WE HOLD ON TOGETHER」が訳せない

ダイアナ・ロスの代表作に「IF WE HOLD ON TOGETHER」という楽曲があります。日本ではドラマの主題歌(「想い出にかわるまで」)としてリバイバルヒットしたので聞き覚えのある曲だと思います。でもそう思うのは40代の人でしょうが。

Don't lose your way
With each passing day
You've come so far
Don't throw it away
Live believing
Dreams are for weaving
Wonders are waiting to start
Live your story
Faith, hope & glory
Hold to the truth in your heart

If we hold on together
I know our dreams will never die
Dreams see us through to forever
Where clouds roll by
For you and I

Souls in the wind
Must learn how to bend
Seek out a star
Hold on to the end
Valley, mountain
There is a fountain
Washes our tears all away
Words are swaying
Someone is praying
Please let us come home to stay

If we hold on together
I know our dreams will never die
Dreams see us through to forever
Where clouds roll by
For you and I

When we are out there in the dark
We'll dream about the sun
In the dark we'll feel the light
Warm our hearts, everyone

If we hold on together
I know our dreams will never die
Dreams see us through to forever
As high as souls can fly
The clouds roll by
For you and I

さて、「IF WE HOLD ON TOGETHER」をどう訳したらいいのでしょうか? 英語を中学・高校・大学と8年間も習いながら、実に思い悩むのです。

そもそも「HOLD」ってどういう意味?と皆さん思いませんか。というか、KEEPとHOLDの違いを説明出来ますか?

"エッ"と思われた其処の貴方は此処を一読してみてください。

話は飛びますが、「HOLD」つながりですので、ご容赦頂きまして、小比類巻かほるという歌手を皆さんは御存知ですか。青森県の三沢市に多い変わった苗字の方ですが「こひるいまき」と読みます。彼女のヒット曲に「HOLD ON ME」というのがあります。

この曲がヒットしていた頃、同僚の英語の先生が学生に「HOLD ON ME」では意味が通じない。あれは本当は「HOLD ON TO ME」と云うべきところを口語で略してるというのも苦しい。「ONTO」を聞き落として「ON」と勘違いしてるようで格好悪いと言ってました。

この場合の「ON」の訳し方が難しいというか、「ON」の意味って実は英語を母国語にしない人間には難しいものです。簡単な英語ほど本当に難しい・・・・どうしよう(´・ω・`)

難しいついでにですが、あのレイモンド・チャンドラー( Raymond Chandler ) の名台詞に、

" If I wasn't hard,  I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I woudn't deserve to be alive."

というフィリップマーローの言葉があります。これをどう訳されますか?

作家・丸谷才一は、こう訳しています。 「男はタフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。」 と。

さて、話を戻しまして、「IF WE HOLD ON TOGETHER」をどう訳したらいいのかですが、ある人はこういう風に訳してくれています。

If we hold on together
I know our dreams will never die
Dreams see us through to forever
Where clouds roll by
For you and I

力を合わせて困難に立ち向かえれば
夢はきっと生き続けられるわ
全てを越えていつか永遠の高みへといざなってくれる
そこではきっと輝く白い雲が遥かにたなびいているわ
二人のために

何だか聖書みたいな訳文だなぁと思いませんか。聖書の一節に、こんな文章があります。

"Love the Lord your God with all your heart and with all your soul and with all your mind and with all your strength."

『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(マルコの福音書 12章30節 )

『IF WE HOLD ON TOGETHER』の歌詞も、どうも聖書の一節、一節の言い回しを参考にしたというか、教会でのお説教の言葉を繋いだと申しましょうか、何だかそういう風にワザと書かれていて、聞く方に(この場合はアメリカ人)耳馴染みの良い言葉を選んでいる気がして仕方がありません。

英語を長年学校で習っていても、結局のところ歌謡曲の歌詞すらなかなか意味が取れない。受験英語と揶揄される由縁です。欧米の文化、特にキリスト教文化を学ばないと本当の英語は理解出来ない、そう切歯扼腕する今日この頃です。

2010年5月17日 (月)

「五・一五事件」を忘れない

http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8F%B2%E7%99%BA%E6%8E%98%E3%80%883%E3%80%89-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%B8%85%E5%BC%B5/dp/4167697025/ref=pd_sim_b_2

「厖大な未発表資料と綿密な取材によって、昭和初期の日本現代史の埋もれた事実に光をあてた不朽の労作が新装版で登場。昭和七年、大胆不敵な手口で大森の銀行を襲ったギャングの記事が新聞の社会面に躍った。その直後、警視庁は共産党幹部の一斉検挙に着手。この二つの事件は、共産党に潜入した謀略者“M”が周囲を完全に欺き、操り、演出したものであった。謎の“M”の正体に迫る「スパイ“M”の謀略」、他に「『桜会』の野望」「五・一五事件」。」

松本清張の歴史推理作品『昭和史発掘』の新装文庫版が文春文庫で読めます。上にあげたのは文庫版の第三巻の内容案内です。

さて、この前の土曜日、5月15日は1932年(昭和7年)に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件「5・15事件」が起きた日でした。この反乱事件のちょうど4年後、1936年2月26日に「2・26事件」は起きるのですが、この事件と「5・15事件」は首謀者などは違っていますが、一つの線上にある事件として見れば、「2・26事件」の起きた5年後に日本が太平洋戦争へ突入していく原因のひとつが分かるだけに、我々はけして忘れてはいけない歴史上の出来事だと思います。

よく昭和の時代は軍部の時代で、10年以降は軍部独裁だった・・・みたいな事を平気で言う人がいますが、そりゃ東京裁判史観というか、左翼のプロパガンダというか、まあ戦後にそうでも思わないと辛かった時代の残滓なのです。

ちょうどドイツがナチスの暴虐ぶりをあれはナチスが行ったことでドイツ人がした事じゃないというロジックと同じです。ナチスを選挙で選び、ヒトラーを総統にしたのは、紛れもなく選挙による国民の意思です。だからヒトラーはベルリン攻防戦の終焉に、ベルリン市民を避難させたいと申し出たヘルムート・ヴァイトリング、ベルリン防衛軍司令官の言に対して、 「彼らが選んだ運命だ。自業自得だ」(映画『ヒトラー最期の12日間』より)というのですが、これは本編とは違う脱線ですね。

さて、話を「5・15事件」に戻しますと、事件の前年に満州事変が勃発。事態の収拾に苦慮した第2次若槻内閣は総辞職。総選挙を経て政権与党の立憲民政党は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に圧勝し、犬養内閣が組閣されます。

この頃、日本政界は立憲政友会と立憲民政党の二大政党制時代。当時与党の立憲民政党は、「議会中心主義」・「人種・貧富の差の解消」・「国際正義に基づく協調主義」・「国民の自由の擁護」などを掲げ、主に大都市の有権者の支持を集めていた政党です。何処か今の民主党に似ています。

立憲民政党の顔であった濱口雄幸は、総理大臣として内閣を組織しますが、ロンドン海軍軍縮条約における「統帥権干犯問題」がきっかけになって右翼によって狙撃され、一命は取り留めますが後にこの怪我が元で亡くなっています。政治家へのテロが激しくなる契機になった事件ですが、その原因となった「統帥権干犯問題」を言い出しのが現鳩山総理の祖父にあたる鳩山一郎だったのは御存知の方も多いと思います。

犬養内閣を率いる犬養毅は、当時の護憲運動の旗頭ともいえる存在で、国民の人気が高かった政治家でした。内閣組織後は、緊縮財政をやめて積極財政に転換させ、その指導を高橋是清に委ねます。満州国の承認問題では陸軍と対立し、孫文と個人的に親しかったので、中国国民党との間に独自のパイプがあり、彼自身が大アジア主義的な外交を目指していたため、中国との関係には殊更慎重な姿勢ををみせ、外交交渉で解決しようとしていました。この対中融和路線が陸軍は不満で、右翼とも共闘して犬養内閣打倒の動きが強まると、当時陸軍の重鎮だった上原勇作元帥に書翰をおくり、陸軍の中堅将校団の政治介入を諭すように示唆。このことも陸軍部内では批判の的だったと云います。

「5・15事件」の顛末は今一度ご確認をお願いするとして、この事件に際して森恪内閣書記官長の関与が当時から疑われていたこと。それを松本清張はとても関心を持って『昭和史発掘』に書いていることを書き添えておきます。

森恪は中国語(北京語、広東語)、英語に堪能な三井物産の社員で、後に上海支店長などを歴任します。市井の商社マンの枠に収まらず、孫文の辛亥革命の際しては資金援助をしたり、日露戦争後に満州で権益を強める陸軍とも協調して、大陸での進出を推し進めたいわば対中強行派。彼は満州事変などでも政界から後押しをした一人です。どういうものか「5・15事件」の起きた年の暮れに急死。持病の喘息に肺炎を併発したと公式には云われていますが、彼の死を看取ったのは十河信二(戦後新幹線を推進した鉄道官僚)と鳩山一郎だったのは注目に値します。

「5・15事件」に注目しないと行けないのは、この事件以降、軍の政策に政治家が反旗を翻すことはテロの対象になりかねないという教訓を政界に与えたことです。財政逼迫の状況で、行革を進めるためには、軍の予算も手を付けなければ行けない訳です。それが言い出しにくい雰囲気が出来上がった訳です。

更に拙いことに、当時のマスコミは「5・15事件」に当事者に同情的な報道をして、世論を誘導したため、犯人たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、それを受けた軍事法廷は自国の総理を軍人が暗殺するという不祥事にも関わらず、判決で禁固刑に処されただけで死刑判決を受けた者が皆無という異常事態になり、世間もそれを歓迎するという不可思議な状況があったということです。このことは当時の日本が軍部独裁だったからでは説明がつかないお話しでして、冒頭で紹介したヒトラーの言葉、「彼らが選んだ運命だ。自業自得だ」というのと同じで、日本が太平洋戦争に突入していく過程で、それを是とする民意が存在したことを示していると見ることも出来ます。

また、軍部独裁であったのなら、事件の実行犯の一人である元陸軍士官候補生の池松武志が、離現役の元軍人であり陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所での審理を受けたの事も書き添えておきます。実は当時の日本でも軍部が専横出来る部分は軍事に関する面だけで、後の横車は通らない場面が多かったし、官僚主義の縄張り意識は強く、幾ら陸軍が横柄でも大蔵省には気を遣う場面も多かったのは事実です。

いずれにせよ、この事件を分水嶺にして、日本の政党政治は混迷し、やがて二大政党制は一党制になり、議会政治はその機能を失うようになります。挙げ句の果てに終戦を内閣の相違で決められず、昭和天皇の御聖断に頼るていたらく。

なにやら今の日本の世相に似通った雰囲気の昭和初期のお話し。

普天間問題が混迷を極めると、日米同盟の堅持を胸に秘めた外務省や通産省の若手官僚が総理官邸を尋ねて、拳銃で鳩山総理を暗殺。その時総理は「私を信じて欲しい」といい、若手官僚は「貴方は信用出来ない」とか云ったら、平成史に残る大事件になるのでしょうね。そして、マスコミはアジア主義を大きく取り上げて、中国と共にアジアを発展させるという亡国の笛を吹くようになるんだったら・・・カナダあたりに今から永住権を取る準備でもしておかないと。

坂本龍馬が大ブームなのは、国民が再度の回天を望んでる現れなんでしょうか?

色々考えさせられた、この週末でした。

2010年5月12日 (水)

ポピュリズム の台頭

「財政再建に熱心に取り組むことを表明しているキャメロン党首の首相就任が決まったことを受け、ポンドが急反発した。11日夜の取引では、一時、前日終値より1%ポンド高ドル安の1ポンド=1.50ドルまで上昇、その後は1.49ドル台での取引が続いている。ポンドは、6日夜の総選挙の出口調査の結果、「宙づり議会」が確定的になったことを受けて急落、7日の早朝には一時、1ポンド=1.4475ドルをつけた。 その後、保守党と自由民主党との連立協議が進んだことを受け、10日には1.50ドル台を回復した。だが両党の協議が暗礁に乗り上げ、ブラウン首相が10日午後5時に自民党との連立協議を宣言したのを機に、再び急落。労働党と自民党の交渉が始まる11日昼には1.47ドル台にまで下げるなど、乱高下していた。 英国の09年の財政赤字は、国内総生産(GDP)比で11.5%と、欧州連合(EU)ではアイルランド、ギリシャに次ぐ高水準に達しており、財政再建が急務となっている。」

英国人は、政党に投票するのであって、個人の候補者に投票するのではないというのが、これまでの英国の伝統であったと思います。だからこそ、戦後は二大政党制が続き、政権交代もあって、民意はそれなりに政治に反映されたと信じられてきました。

しかし、今回の選挙で、その伝統に変化が現れています。なにせ英国で連立政権が発足するのは、第2次世界大戦中に当時のチャーチル首相が挙国一致内閣以来です。もちろん戦後では初ですから。しかもチャーチル首相の挙国一致内閣は戦時内閣です。宥和主義を掲げたチェンバレン内閣では国は守れないという判断を国民がした非常事態の場合でした。

英国人というのは、革命よりは改革を求めるところがあって、劇的な変化には激烈な副作用が伴うことを知っています。それ故、出だしはスローモーでかったるくもありますが、一旦歯車が動き出してしまえば、トコトンやり遂げるしつこさは世界随一。アングロサクソンは本当にしつこいタフネスです。(だからトンデモ兵器を真面目に作ったりするんですよ)

そんな英国人気質の有権者が、政党の政策に関心を割くのではなくて、候補者個人の主張や政治ビジョン、はたまた容姿などに関心を寄せて投票するような話しになると、ポピュリズム の台頭を招くのではないかと懸念してしまいます。

EUの影響がこう言うところにも現れてきてると思うのは私の愚考でしょうか?

翻って、今の日本の政治状況を見てみると、二大政党制へ移行するんだという表の看板に有権者は何となく弊風を払う期待感を抱いて、それを受容する雰囲気が出来ています。しかし、それを声高に主張してきた民主党は、政権与党になるや、そのポピュリストぶりを臆面もなく発揮しつつあるのは御存知の通りです。

そもそもポピュリズム的な政党は、選挙戦においては、大衆迎合的なスローガンを掲げ、政党、労組等既存組織を利用せず大衆運動の形を採ります。しばしばマスコミを通じた大がかりな選挙キャンペーンが展開され、ひとつのムーブメントを起こして体臭の任期を独り占めしようとします。そして、ひとたび政権に就くと、ポピュリストは支持者に判りやすい「敵」として既得権益(公共団体の民営化、大企業の解体、規制緩和、減税、外国資本の排除、資産家に対する所得税率の上昇、反エリート・官僚キャンペーンなど)の解体を目指す政策や主張を行います。経済政策に関しても積極財政に向かい、大きな政府路線を突き進むため、その政権下では財政赤字を気にしない労働者層への政治的・経済的厚遇(平均賃金の上昇、年金政策の強化、医療・福祉の充実など)を進めます。

無論、それらが成功すれば支持は集まり、政権は長期化へと向かうのですが、財政規模が実態に見合わない以上、ふくれあがる歳費は借金で賄うしか無く、その借金を海外から調達したら、ギリシアのような状況が最後には訪れることになります。

そういう馬鹿馬鹿しさを、ローマ時代からの歴史と、幾多の政争を経て来た歴史を通じて理解しているから、英国人はあの欧州を覆ったヒトラー率いるナチズムムーブメントですら、一部の跳ね返りモノ以外には受け入れられず冷笑を持って迎えられたと云われてきたんですが、そんな国でもポピュリストが受けるご時世なら、日本のような民主主義が何たるかを判らないで、何となく民主主義な国民には騙されてるとか言っても無意味なのかも知れません。

ほんまに大丈夫?日本。

2010年5月11日 (火)

政治家に求められるもの

「谷亮子が出馬表明 現役は続行」

このニュースを目にした時、たまたま朝読んだこんな記事のことを思い出しました。

「政治の混迷が、つづいている。もはや、政治とは何か、がわからなくなっているのではあるまいか。思い出すヒントはある――“美談”から、政治を見るのだ。もっとも、世に“美談”と称するものの、なかには、いかがわしさを感じさせるものも少なくない。ところがここに、“美談”の極致(きょくち)ともいうべき実話が存在した。地方行政がまだ可憐(かれん)であり、官吏たちが庶民に“公僕”として一生懸命であった頃のこと。大阪府第15代知事・林市蔵(1867~1952)にまつわる話である。」

作家加来耕三の文です。

政治家に学歴や教養はあった方が良いですが、無くても別に構わないと思います。問題は人間性。人を見る温かい気持ちと、自ら信じることをやり通す剛直さなくして、政治家の資格は無いと思います。

谷亮子氏が柔道馬鹿で柔道しか判らないのなら、政治家としての資質はないでしょう。でも、柔道を通して会得した人間性が上述したようなものであるのなら、充分その資質はあると思います。

いずれにせよ、政治家は何を云うかではなく、何を成したかで、後世の歴史家から評価される仕事です。

ましてや、選挙に出馬するのは憲法で保障された国民の権利です。誰も彼女の決断を責めることは出来ません。ただし、当選しても力を出さねば、タダのタレント議員で終わるだけの評価が待っているのは確かですけどね。

さて、そんな政治家に何を求めたいか。最初に紹介した林市蔵の話に戻りたいと思います。

大阪北浜にある土佐堀の近く。大阪市中央区北浜4丁目。淀屋橋の南詰めに銅像が建っています。民生委員の父と呼ばれた林市蔵の像です。

林は熊本県の生まれで、熊本県人だったら誰でも知っている熊本県立済々黌高等学校(彼は旧制の中学出身)を経て、第五高等学校から東京帝国大学法学部に進み、卒業後は高等文官試験に合格して拓殖務省に入省。拓殖務省が内務省へ合併されると内務官僚として地方行政にたずさわった人物です。

戦前は、日本の地方行政は内務省の所管でした。知事は選挙ではなく、内務省の官吏が選ばれて赴任する仕組み。林も明治41(1908)年に三重県知事。大正6(1917)年1月、山口県知事。12月大阪府知事を歴任しています。

そんな林が大阪府知事に赴任した翌年、晩秋の事です。(彼の在任期間は2年5ヶ月)

大正七(一九一八)年晩秋の10月9日の夕暮れ。市蔵は淀屋橋(大阪市中央区)南詰めにあった理髪店「モーラ館」で整髪中、ふと鏡に映っている風景に目をとめた。橋のたもとで幼児を背負った中年の女が新聞を売っている。「ちびたげた、汚れたうわっぱり、枯れ葉を舞い上げながら吹き抜ける秋風と、薄暗い街灯がいっそう疲れた表情をひきたてていた」と後に語ったと伝える市蔵は、散髪が済むと気さくに語り掛け、彼女の身の上話に耳を傾けた。夫が寝込み、家具や布団まで売りつくしたが、物価の騰貴で生活できず、上の二人の子どもは学校をやめて新聞売り。それでも苦しいので看病の合間にこうして自分も手伝っています-との話に、市蔵は思わず目頭を押さえる。

林はこのあと近くにあった淀屋橋派出所に出向き、自分が知事であると明かして(当時の警察は内務省の管轄下にあったので部局は違っても上司には変わりがなかったので)、居合わせた巡査七藤健之助に、その新聞売りの親子の身元調査を命じます。現存する復命書によると

大正七年十月九日午後五時三十分、交番に府知事林市蔵閣下がおいでになり、事情を説明され調査するよう命じられた。女は北区本庄葉室町に住む仲仕(なかし)富島由松(42)の妻女イサ(35)で、十一歳を頭に二女二男がおり、八月、由松は脚気(かっけ)重症となり、イサは二児の手を引き一児背負いて夕刊を売り、五十銭ほどかせいだが、物価高で生活できず入質するも質草なくなり、困憊(こんぱい)したるありさまが判明。由松は十一月下旬にならねば回復せぬと聞く…。

とあります。おそらく林もこの報告を聞いたのでしょう。其れを受けて彼が思ったのは「府下の多くの社会事業が、どうして、このような困窮者を見落としているのか」という疑問でした。当時でも貧困者への医療扶助制度はありましたし、小学校にも貧困家庭に対する授業料免除制度もありました。要するにこの親子はそれを知らないのではないか、そういう疑問です。

日本の社会保障制度は、ヨーロッパの制度などを参考にして、大正時代に徐々に整備され、昭和期にも拡充はされていきましたが、ヨーロッパなどと大きく違ったのは教区(教会の管轄地域)制度が無いことです。つまり、救済を求めてきて貰わないと制度が利用出来ない仕組みでは、そもそもその入口にたどり着けない人々が大勢存在しますが、欧米では教会に市民が救済を求めたり、あるいは教会が独自の活動で救済活動を行うために、そこへ接触する困窮者が大勢いました。それらの人に牧師や修道士・修道女などがボランティアで相談員のような仕組みを持ちやすかったのです。

欧米でのセツルメントは自然発生的に生まれたのですが、日本の場合は小さなコミュニティーでは存在しても、大きな組織としてのセツルメントは自然発生とは行かず、当時の日本人の倫理観として、お上に頼るのは恥という風習も手伝い、制度は整備されても利用する人がいない状況がありました。

林府知事は、それではと自治体側から積極的にセツルメントを行うために、大正7年10月7日、「大阪府方面委員制度」は府令二五五号で公布したばかりだったのです。これが日本で初めての民生委員制度の始まりです。当時のマスコミや有識者はこの制度の導入を猛反対し、バッシングされている最中に夕刊売りの親子に出会したことになります。

方面委員制度は、(1)生活実態調査(2)戸籍整理(法律的保護受給のため)(3)救療行為の徹底(4)保育所、幼児教育設備の強化(5)特別配慮の五項目を柱とし、方面委員は無報酬とされていました。方面委員は、大阪市域を16方面に分け、1方面に10~20人の委員を置いて、訪問する一世帯ごとのカードを作成させ、生活実態の調査に乗り出しました。また府庁には社会福祉を担当する救済課を新設し、行政の窓口とします。

林は、実態調査に出掛ける委員や役人たちに、(1)自分の足と目で仕事をせよ。人に任せるな(2)きれいな靴を履いてはならぬという二点の注意を諄いほど説いて言い聞かせたそうです。そして林知事自身も町へ出て、町を歩き生活困窮者に声を掛けて回り、自らの目で実態を知ろうと努力しました。

当初バッシングされたこの方面委員制度ですが、大正13年には全国28府県が同じ制度を採用し、昭和3年には全国で実施される事となるなど、市民生活に定着し、戦後は民生委員制度と名を変えて現在にも存在します。

せめて大阪の府内の小学校では教科書に載せて紹介しても良いような逸話ですが、林がそこまで社会福祉に尽力したのには訳があります。

それは彼自身が幼少期に父を亡くし、母の内職で生計を立てる貧しい家に育ち、苦学して大学を出て、苦労を掛けた母に恩返しが出来ると思った矢先に母を亡くすという体験をした人だったからです。

林市蔵は今風に云えば官僚です。行政マンとして社会福祉制度の普及に尽力した人物ですが、今求められている政治家の条件として、彼が方面委員に説いた、

(1)自分の足と目で仕事をせよ。人に任せるな
(2)きれいな靴を履いてはならぬ

というのを政治家の条件として挙げておきたいと思います。

彼の偉業は「なにわ人物伝」(大阪日日新聞)の下記のアドレスで詳しく読むことが出来ます。なお、冒頭で紹介した家加来耕三の文は、おそらくこの記事がネタ元でしょう。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090221/20090221009.html
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090228/20090228126.html

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