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2011年6月

2011年6月30日 (木)

天下りした元知事の戯言

http://president.jp.reuters.com/article/2011/06/30/74A40E5C-9B1D-11E0-B886-23F93E99CD51-1.php?__from=mixi

自衛隊は中部方面総監部のある伊丹の部隊が真っ先に倒壊した阪急・伊丹駅に偵察班を派遣したが、本格的な災害出動は、午前10時頃に行われた兵庫県知事の要請に基づき、姫路の部隊が出動した。だが、神戸での救助活動は午後一時過ぎからだった。社会党の首相は自衛隊嫌いで出動要請をためらったのでは、といった批判が噴出した。事務の官房副長官だった石原信雄(現地方自治研究機構会長)が反論する。

「出動をためらったなんて絶対にありません。自衛隊が見えないと首相官邸に随分、電話がかかってきたから、私も気になって防衛庁の村田直昭防衛局長に電話で言ったら、『やっています。道路が大渋滞で、主力部隊が入っていないだけで』と言っていた。それが実態です」

兵庫県知事だった貝原俊民(現兵庫地域政策研究機構理事長)は、本人の言によれば、当日、兵庫県庁から約4キロ離れた知事公舎で大地震に遭い、7時過ぎまで公舎で各所と連絡を取ってから、渋滞に巻き込まれながら、8時過ぎに県庁に登庁したという。

自衛隊への派遣要請の権限を持つ貝原は振り返って述べている。

「自衛隊と交信ができなかった。8時の段階で、姫路の連隊からこちらの係員にやっと通じた。『大災害だから、準備を。すぐ要請するから』と言ったところで切れて、それ以降、連絡が取れなかった。いまだから言ってもいいと思うけど、出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れですよ」

自衛隊出動問題も含め、初動のもたつきで多くの人命が失われたという悔恨は、村山に重くのしかかった。後に著書『村山富市が語る「天命」の561日』で、「『危機管理の体制に欠けていた』と、いかように責任を追及されても、弁明できない。お詫びをして反省する以外にない」と書いている。

だが、現在の菅と比べて、危機に直面したリーダーの姿勢という点で、阪神大震災の村山を称賛する声がいまにわかに高まっているという。

首相官邸で官僚機構を統括する立場にあった石原がこんな点を強調した。

「最高指導者には自分で全部、仕切る人もいるが、村山さんは閣僚経験もなく、就任まで野党の党首だったから、各責任者に権限を与え、フルにやらせて、どんな結果でも自分が全部かぶるという姿勢を示した。これは正しかったと思う。罷り間違えば政治生命を失うわけです。それを全然、意に介しなかった。そういう覚悟だった」

一方、16年後の菅は3月11日、参議院決算委員会での審議中に大地震に遭遇した。4分後、首相官邸に官邸対策室を置き、20数分後に宮城県の村井嘉浩知事から自衛隊派遣要請が届くと、北沢俊美防衛相に「最大限の活用を」と指示する。大地震の30分後に緊急災害対策本部を設置した。

早朝の阪神大震災と違って、昼間の出来事だ。加えて阪神大震災の頃の制度の不備や不手際、失敗体験の教訓が生かされ、初体験の原発事故を除けば、初動の対応は比較的迅速だった。


阪神大震災の後、翌年の春に海自の遠洋航海部隊が内地巡航で舞鶴に来港して、練習艦隊司令官主宰のパーティがありました。その席に私も連なっていたのですが、その後の司令官による二次会のパーティで記事に出て来る陸自中部方面隊の総監と直に話をしました。貝原元知事の云う話しとは全然違います。

この話しの裏を陸幕の知人に取りましたが、陸自側の認識は同じでした。口裏を合わせてるのだとしたら、その知人は何処かにそういう空気を乗せてきますが、それがありませんでした。それでも更に念を入れて別ルートでも裏どりをしてみましたが話は同じだったので、私はそれは真実だと今も思っています。

貝原元知事は、知事公邸で震災に遭遇し、県庁から連絡が来てから登庁しようと判断し、じっと連絡を待ち続けていた。しかし県庁は被災していて、職員達が駆け付けるにも時間が掛かり、初動を制する時間は失われて行きました。そういう状況があって、知事はどうやって自衛隊に災害派遣要請を出せたのでしょう。自衛隊と交信できなかったといいますが、当時の防衛庁兵庫県地方連絡部に人を走らせたら、防衛電話でも無線でも連絡はつけられたでしょう。その頃知事が携帯電話を持っていたかどうかは知りませんが、そもそも自衛隊の中方総監部や姫路の特科連隊司令部の電話番号が、その携帯に登録されていたとも思えませんしね。

彼は自分が見殺しにした人の命を思いやるような神経は、どうやら持ち合わせていないようです。

それでも彼は兵庫県知事でしたから、日本国が受けた損害は限定できました。今は政府がこの状態ですからね。

しかし、政治家は嘘つきですね。

2011年6月29日 (水)

Evolution of Power

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1652996&media_id=125

関東での計画停電後に始まった政府と電力会社の合作による「節電しなければ大停電」キャンペーンが、セミの鳴き声とともにボルテージを上げ、全国的な広がりを見せている。騙されてはならない。彼らが節電を叫ぶのは、原発を止めたくないからである。大停電を煽ってまで経産省と電力会社が原発再開に邁進するのはなぜか。管内にある“巨大発電所”の存在を利用者に隠し通したいからだ。

本誌は6月24日号で、PPS(特定規模電気事業者)についてレポートした。PPSは自前の発電所で作った電気を販売する電気事業者で、高コスト体質が染みついた既存電力会社に比べ2~3割も安く電気を供給する。法律上、個人宅などの小口需要者は購入できないが、大口需要者たちは今やこぞって既存電力会社からPPSに乗り換えている。

15%の節電要請をしている関西電力エリアにはPPSなど「非関電」の自家発電所が418か所もあり、その出力合計は669.2万kW。そのうち96%が火力発電所で、中には出力140万kW(2基合計)を誇る神鋼神戸発電所(石炭火力)のように標準的な原発1基分(約110万kW)を上回る発電所もある。ところが、これらの自家発電は100%稼働しているわけではない。

エネ庁の統計によれば、近畿エリアにおける昨年8月の自家発電による発電量は約29.8億kWh。669.2万kWの出力でフル稼働した場合の約60%なので、40%分は“眠っている”状態といえる。出力に単純換算すれば「余力」は約268万kWもある。その中には関電の送電線とつなぎようのない離島の自家発電所や、製鉄所に併設された火力発電所のように、常に運転することが難しいものもあるが、そうした歩留まりを勘案して、今夏利用できる分を268万kWの半分と見積もっても、関電は原発1基分以上の電力を今すぐにでも得られるはずなのである。PPSや自家発電を持つ企業に、「ウチでは電力が十分に供給できないので、8月だけはフル稼働してください」と関電トップが頭を下げて回れば、電力不足はたちどころに解決する。

しかし、それこそ既存電力会社と経産省が最も困るシナリオなのだ。経産省幹部がこう語る。「PPSが本格的に供給する事態となれば、関電の電力網の中に“関電製の高い電気”と“PPS製の安い電気”が同居することになり、需要家から“関電の高い電気は要らない”という声が出てくるのは避けられない。 とりわけ消費者の目が厳しい関西では、電力自由化を叫ぶ声が一瞬にして膨れあがり、関電批判が噴き上がる。経産省と電力会社が築いてきた地域別独占体制と発・送・配電の一体化という仕組みが崩れてしまう」そうした事態を避けるために、既得権側はなりふり構わぬ抵抗を見せている。


電力不足がこれからも継続されるという事態が続くようなら、中小の事業所などでも、ソーラー発電と自家発電の併用による電力自給が進むかも知れませんね。大型のマンションなどでも屋上にソーラー発電を設けて、ある程度は電力を自前で賄うという路線は止められないでしょう。

問題は個人の自宅です。何処の家でも太陽電池パネルを設置できる訳じゃありませんから、そういう非自家発電層は従来のとおり電力会社からの供給を受けるしかありません。

しかも送電網は従来通り電力会社の持ち物です。

この送電網は維持する費用に関して云えば、それを利用しようがしまいが常に必要になるものです。送電網は利益を生みません。その維持費用は電力を買う消費者の電力料金で賄われています。更に云えば、山の上の一軒屋などへの送電だと、そのユーザーの利用のみでは維持費用は当然赤字ですからね。送電と発電を分離したら、こうしたユーザーには送電に関する維持費も請求される可能性が出てきます。さらに新たな送電の開設には電柱を含めた新設費用が請求される時代になるかもしれません。そうなったら、僻地は自家発電が当たり前になるでしょうが、その費用負担が出来ない場合は、どう救済するのかが問題になってきます。

電力や電話は、ある部分で公共性のある存在です。

PPS(特定規模電気事業者)からの電力供給をあてにする事に関して云えば、数字の上では確かに記事の通りでも、例えば燃料の高騰によって売電して得る利益では割に合わないとなったら、自社向けのみの発電に留めて売電を休止する事態が生じたら、たちまちに電力不足が出現します。

電力の安定供給が当然という社会で半世紀近くやって来たのですから、その前提を簡単には崩せません。いつも云うことですが、社会の変革は革新的ではなくて、改善的な緩やかな変化を目指していくべきだと思います。

絶対に避けないといけないのは、こういう時流に乗っかって電力の自由化を表看板に、既存の送電網を開放しろと迫る営利に走りすぎてる新興売電勢力の跋扈です。電話やネットでは送電網と同じNTTの通信網を無料もしくは低価で提供せよという、その維持費用を払う気が無い孫正義のような似非改革開放主義者は、儲けにならないとなったらあっさり事業から撤退します。その品質も利用できるなら構わないだろうとギリギリ基準値を保障するだけ。

電力や通信は、その部分部分だけを見て判断をしたら、必ず見誤るほど大きなものです。

2011年6月27日 (月)

楽していて商売は成り立たないモノ

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1651600&media_id=125

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駅弁の老舗・崎陽軒が6月10日に発売を開始した「シウマイ」が入らない弁当「おべんとう魚」(670円)の売れ行きが好調だ。しかし、開発に至るまでには侃々諤々の議論が発生。特に営業担当者たちの反対は凄まじかった。東京事業部の石川勝裕・課長代理が振り返る。

「企画段階で“シウマイを入れなくていいのか”という意見が多数出ていましたし、販売店の中には、“シウマイがない崎陽軒の弁当なんていらない”と、受け入れを拒む声もありました。営業的に難しいと思い、私は“絶対に売れない。やめるべきだ”と進言しました」

しかし開発サイドも引き下がらない。「崎陽軒は弁当のプロだ。シウマイがなくてもうまい弁当は作れる」と反論して昨年12月に商品化に着手し、何度も試作を重ねていった。

実は当の開発担当者たちにも逡巡があったという。「おべんとう魚」の産みの親である新製品開発室の吉川里奈氏が語る。

「役員会でのプレゼンのために作った最初の試作品は、シウマイ抜きで作るというコンセプトだったはずなのに、なぜか日和ってシウマイを入れてしまったんです。その後も10回以上試作品を作りましたが、抜いては入れるという“一進一退”を繰り返しました。やはり、シウマイは当社の魂だと思い知らされました(笑い)」

役員会でもシウマイ論争は繰り広げられた。議論は白熱し、最終的に「魚がテーマなんだから、シウマイを入れないことにこだわろう」との結論に落ち着いたのだという。結果は冒頭の通り、大成功の滑り出しとなった。

「弁当の新製品は1日500食売れれば大ヒットといわれますが、『おべんとう魚』は午前中の販売だけで250食が売れる。現在は製造ラインの関係でこれ以上作れませんが、今後は徐々に増産していく予定です」(石川氏)


「おべんとう魚」は東京エリア限定のお弁当です。その中身は、鰆の照り焼き、つみれ揚げ、ニシンの昆布巻き、鮪とつきこんにゃくの炒め煮、煮物(蓮根煮、人参煮、里芋煮)、風味蒲鉾とクラゲと錦糸玉子の酢の物、桜漬け+白飯です。この内容のお弁当を美味しく作るのはとても難しい筈です。むしろ崎陽軒の定番である「シュウマイ弁当」の方が、シュウマイという不動の主役がいるのですから、弁当としては華があって作りやすいと思います。その華をわざと外すのですから、これは普段は脇役に徹しているおかず達の味に自信がないとできない芸当です。しかも今時値段が670円(税込)で、そのカロリーが499kcal。ちなみに定番の「シュウマイ弁当」は732kcalです。

そう考えると、崎陽軒の営業担当は、自社の調理の味に対して信頼を置いていないという話になります。逆に厨房の方は味に自信があるから、この企画を出しているという自負がありますから、営業の声に反発をする。

ここで上層部が考えないといけないのは、実は営業は安定した売上を誇る「シュウマイ弁当」を売っていれば安心という、或る意味、安定に胡座をかいていないかを疑うべきでしよう。定番を守りながら、自社の持っているポテンシャルを引き出し、さらなる定番を見出す努力が出来る企業と出来ない企業。そこがこの厳しい時代に生き残るかどうかの分かれ目ではないでしょうか。

3.11で我々が学ぶべきは、集中と一枚看板の危うさです。

最後に、崎陽軒の夏限定弁当の「おべんとう夏」(白飯(トッピング:シソの実ごまあられ、梅干)、シウマイ、太刀魚の南蛮漬け、海老の茶揚げ、春雨入り巾着煮、花わさびのお浸し、煮物(蓮根煮、人参煮、筍煮)、玉子焼き、蒟蒻と茎わかめの酢の物、ビワのシロップ煮)640円(税込)もお薦めです。

それと、これら崎陽軒のお弁当は羽田空港でも買えますことをお忘れ無く。

2011年6月26日 (日)

地に足の着いた思考は何処へ行った?

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1650361&media_id=14

「25日、原発の是非を考えるグループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」の結成総会が月島区民館であり、この試みの呼びかけ人でもあるジャーナリストの今井一、映画監督の小林聖太郎、専修大学教授の田村理らが登壇し参加者と意見交換を行った。本グループは原発国民投票法を求める市民運動を全国的に展開していき「脱原発」「原発推進」どちらにもかたよらず議論して最終的には国民投票により原発の存在を問い質していくという。震災から1年後の2012年3月の国民投票実施を目指す。」

『論語』のなかに、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」という一節があります。人間が作る社会の中には不条理なことが一杯あります。そんな社会では、足して2で割るという事が出来ない事があります。どちらが善で、どちらが悪という事が決められない場合も沢山あります。そういう事を常に感じていた孔子は、その時々の物事を判断する上で、どちらにも偏らず、かつ平凡な感覚でも理解できるような判断を是として、その徳を「中庸」と著したのでした。

今の日本で流行のようになっている「脱原発」。原子力発電を廃止して、新たな電力エネルギーを開発・完成させるまでの間には、当然時間が必要になります。仮に原発を全廃して全てを廃炉にする、その期間は最低でも30年。全体を見据えて日本の電力政策をどう変えるのかという計画があって、細目となる実行計画を作るという能力が必要と言うのを全体が理解していての投票でなく、今の気分で投票されてしまえば、こりゃ暴挙です。

常識的で穏当な判断や選択をできる国民力が必要だという議論から始めないといけないのでは?

そういえば孔子も「民に少なくなって久しい」と中庸の無さを嘆いていますので、大陸では既に死滅してるようです。

2011年6月24日 (金)

大事故が起きるよね

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1648637&media_id=20

「中国の国有企業で鉄道車両製造大手「中国南車」が高速鉄道車両「CRH380A」の技術特許を米国で申請する方針であることが24日、明らかになった。CRH380Aは、日本企業が開発した新幹線「はやて」をベースに開発されており、日中の特許紛争に発展する可能性がある。23日付の中国英字紙「チャイナ・デイリー」が報じた。南車が特許申請を目指しているのは、台車と車両の先端部分で、申請に備え、すでに米国で弁護士を雇っているという。米国の高速鉄道計画の受注競争で有利に立とうとする狙いがあるとみられる。南車は川崎重工業から技術供与を受けて高速鉄道車両の製造を始めた。CRH380Aは、6月30日に運行を始める北京―上海高速鉄道の主力車両の一つだが、中国側は「外国の先進的な技術は参考にしたが、独自に開発したもの」(中国鉄道省)との立場をとっている。」

こういうことは平気なのは中国ですから、驚くには値しないですよ。日中両国の発展のためになんて奇麗事はやめて、これからは技術の供与も注意深くしておかないといけませんね。

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どこからみても、これは新幹線ですが、彼らはそうは言わないのです。

そういう危惧よりも、私が心配なのは事故のことです。

何でも聞くところによりますと、上海鉄路局で実施された試験走行で416.6km/hを記録したとか。これはベースになっているJR東日本の「はやて」の性能を考えると不思議でもなんでもない数字ですが、それが世界記録であったことを国威発揚に使えるとして、通常営業速度を350km/hにすることにしたというのが曲者です。

日本では地震などの際に安全に停車できることを考えて、300km/hでの運転をしているというところが省かれているのですから。つまり安全をあまり考慮していない公共交通だという点で、今後中国での運行が始まれば大事故が起きてしまい、多くの死傷者を出してしまう可能性があるというのは危ないところです。

日本の新幹線は1964年の運行から既に半世紀。その期間に積み上げてきた技術が今の新幹線の高速運行を支えています。その日本が踏み込めない領域に、コピーの新幹線で先に踏み込んでいく中国の危うさは専門家なら誰もが理解できるところだと思います。

そのうちに、中国政府は日本のJRに対して、新幹線はCRH380Aの特許を侵害しているとか言い出すのでしょうね。

2011年6月22日 (水)

ドイツを真似すると意味が無い

「ドイツのメルケル政権は6日、2022年末までにドイツ国内の全原発を廃止することを定めた原子力法改正案を含む10の法案を閣議決定した。法案によると、福島第一原発事故を受けて暫定的に停止している7基と、それ以前から事故のため稼働を停止していた1基の計8基は、このまま稼働を停止する。さらに15、17、19年に各1基を、21年と22年に各3基を、それぞれ廃止する。ただ、冬場の電力不足に備え、現在稼働停止中の原発のうち1基を、稼働再開可能な「待機状態」に当面置くかどうかについては、検討を加えることにした。また、閣議では再生可能エネルギー法改正案などの関連法案も決定。太陽光など再生可能エネルギーの普及、送電線網の建設促進などを図る方針を決めた。」

世界には大人の国と子供の国があると思います。

大人の国では、物事は善と悪だけではなく、その他の形態も複数あると理解をしていて、時には寛容も必要な場合があると認知され、必要悪が存在する余地があると許容する余裕があります。

逆なのが子供の国です。物事は善悪のみでしか判断をしないし、規則で定められた通りが正しくて、不寛容は当たり前という国です。

子供の国の人間から見ると大人の国はいい加減で適当に見えます。大人の国から子供の国を見ると、小学校ではないんだけどと失笑するでしょう。

さて、ドイツはどちらの国なのでしょう?

ドイツの偉大な哲学者カントは、ドイツ人の観念の中に「理性」があることを明確にしようと試みました。ただし、明確化のために除外した領域がありました。そのひとつが「自然」です。

ドイツ人と自然というのは、その気質にも多大な影響を与えるほど大きな存在です。ドイツ人が森を大事にするのもそうした心理の表れでしょう。こんな風にドイツ人は自然を大事にする民族性があるのですが、ウッカリすると自然を守るというスローガンが掲げられると、深く考えもせずに賛成してしまう傾向があるから困ります。

不思議に思われるかも知れませんが、ナチツドイツは失われた自然の回復(復古)を国民に説いて、ドイツ人が過去は偉大な民族であったと国民を鼓舞する政治的な手法で人気を得て政権についたんですよ。無論これは、巧妙に計算されたことで、その先にあったのは独裁政権を確立していったのですから、ウカウカ自然の回復という甘言を鵜呑みにすることは危険があるということをドイツ人は嫌と云うほど体験したはずです。

しかし、それも今のドイツ社会で風化しているかどうか、それは私には判りません。ただ、今回の素早い原発廃止という方針を見ていると、それが自然回帰に根拠を発しているのなら、これは恐ろしい回帰になる契機になりはしないかと懼れます。

そういう所をよく知っている、英国やフランスは、このドイツの行動に密かに眉をひそめているでしょうね。

何でも極端に先鋭化するというドイツ人気質を知らずに、原発廃止を素晴らしいことだと持ち上げる日本人の単純で不勉強な識者の不勉強さには私は呆れてしまうのです。

口で言うだけじゃ駄目

「福島第1原発事故を受け、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)などが結成した「さようなら原発1000万人アクション実行委員会」は15日、国内にある全原発の廃炉に向けて、1000万人を目標とした署名活動を開始すると発表した。9月19日には5万人規模の「脱原発」集会を開催したいとしている。呼び掛け人の一人である作家の澤地久枝さん(80)は記者会見で「1000万人が『原発は嫌だ』と署名したら政治家も無視できないだろう。各地で同様の活動をしている団体とも連携していきたい」と語った。作家の大江健三郎さん(76)や瀬戸内寂聴さん(89)、音楽家の坂本龍一さん(59)らも呼び掛け人に名を連ねた。」 

主旨は大変結構です。ただ、この国のインテリは立派なことを色々云うのだけれど、具体的な行動を起こすことはないと相場が決まってます。いわゆる言い逃げなんだから、そりゃ何でも云えます。ましてや、原水禁が絡んでいるんだから、こりゃ或る意味政治工作です。

原水禁は1965年に部分的核実験禁止条約の賛否をめぐって原水爆禁止日本協議会(略称「原水協」)の中の日本社会党・日本労働組合総評議会系グループが条約に賛成する立場から、原水協の主流派だった日本共産党系と対立、脱退して結成した組織です。この分裂に際して、当時のソ連が原水禁を全面的に支持したのは有名なお話しです。よってソ連の核実験には何のリアクションもしなかったというご都合主義の団体さんです。

さて、毎度言っておりますが、原子炉を廃炉にするには一基当たり約5千億円掛かります。今日本で稼働している原発は51基。処分費用は約27兆円にもなります。そして廃炉に掛かる時間は30年。物価が上がることを考えたら、この処分費用は倍になる可能性が高いのです。

まっとうなインテリなら、処分費用を民間でも負担するための基金を創設するために寄付を募るのではないですか?

どうせ解体費用は税金と電力会社に出させたらいいのだからと思ってるのでしょうけど、それって全部国民に費用を負担させているのと変わらない訳ですが、こういう運動をしてる人達はそれは言わないで理想家を気取るのです。

大江健三郎の老害だけでも迷惑なのに、原発事故をネタにして再び政治運動による影響力の回復を狙う原水禁の手助けなんて、いい迷惑です。

ゆめゆめ甘言にのらないようにお願いします。

仁義道徳にもとるなかれ

最近、車を運転して感じるのですが、横断歩道を歩いている人は、青信号なのに歩行者優先を守り、横断歩道前で車が止まっていて、ラッシュ時には数珠つなぎになっているのを横目に見ながら、あまり小走りになる人がいないのです。例え走れない事情があるにしても、会釈をする人も少ないのにはガッカリします。

私は親に、人に迷惑を掛けるなと耳にタコができるくらい言われて育ちました。ですから、人に気をつかうというのは当たり前と思う方なので、利己主義な人が自分だけしか気遣わないのを見ると腹が立つ方です。

特に、いちゃいちゃしながら、なかなか横断歩道を渡らないカップルなんかに出くわすと、轢いてやろうかと思ったりしながら、ブレーキを踏んでる方です。

さて、皆さんは「利他主義」という言葉をご存じでしょうか。

これは利己主義の反対にある考え方です。まず他人の幸福や利益を図ることを第一とする考え方なのです。仮にですが、自分で進んで周辺の人々が幸福になるように努力し、自分以外の他人も同じように努力するようにしていけば、全員が幸せになっていくというロジックです。

最近有名になっているドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)が、生前に尊敬した人の中に渋沢栄一がいます。その渋沢栄一は、「私利を追わず公益を図る」というのをモットーにしていました。これは論語に基づいた思想なのですが、彼の著書『論語と算盤』には、

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。


と書かれています。

事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。


という渋沢の経営理念は、今の日本が考えてみないといけない倫理ではないでしょうか?

何処かの宰相に聞かせたい言葉ですが、これが我が国の偉人の言葉だと知っている人もすくないのも大問題なのかもしれませんね。

2011年6月21日 (火)

EgoismからAltruismへ

最近、車を運転して感じるのですが、横断歩道を歩いている人は、青信号なのに歩行者優先を守り、横断歩道前で車が止まっていて、ラッシュ時には数珠つなぎになっているのを横目に見ながら、あまり小走りになる人がいないのです。例え走れない事情があるにしても、会釈をする人も少ないのにはガッカリします。

私は親に、人に迷惑を掛けるなと耳にタコができるくらい言われて育ちました。ですから、人に気をつかうというのは当たり前と思う方なので、利己主義な人が自分だけしか気遣わないのを見ると腹が立つ方です。

特に、いちゃいちゃしながら、なかなか横断歩道を渡らないカップルなんかに出くわすと、轢いてやろうかと思ったりしながら、ブレーキを踏んでる方です。

さて、皆さんは「利他主義」という言葉をご存じでしょうか。

これは利己主義の反対にある考え方です。まず他人の幸福や利益を図ることを第一とする考え方なのです。仮にですが、自分で進んで周辺の人々が幸福になるように努力し、自分以外の他人も同じように努力するようにしていけば、全員が幸せになっていくというロジックです。

最近有名になっているドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)が、生前に尊敬した人の中に渋沢栄一がいます。その渋沢栄一は、「私利を追わず公益を図る」というのをモットーにしていました。これは論語に基づいた思想なのですが、彼の著書『論語と算盤』には、

富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。


と書かれています。

事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。


という渋沢の経営理念は、今の日本が考えてみないといけない倫理ではないでしょうか?

何処かの宰相に聞かせたい言葉ですが、これが我が国の偉人の言葉だと知っている人もすくないのも大問題なのかもしれませんね。

2011年6月14日 (火)

反原発は「ヒステリー」

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1636690&media_id=4

「自民党の石原伸晃幹事長は14日の記者会見で、福島第1原発事故後の反原発の動きについて「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは心情としては分かる」と述べた。表現が不適切との批判も出そうだ。石原氏は、代替エネルギー確保や製造業への影響など原発を止めた場合の課題を挙げて「『原発推進なのか、反対なのか』という問いがあるが、簡単な話ではない」とも語った。」 

イタリアでは原発建設の再開は国民投票で否定されたというニュースが、さも英断!流石だ!という論調で報道される中で、この発言には見識を感じますね。

そもそもイタリアは原発を廃止にした後から、足りなくなった電力をフランスから買っています。つまり、フランスという国がないと消費する電力は賄えない構図になっているのです。そのためか電気料金はEUでも高い方に数えられるのがイタリアなのです。フランスが売却している電力料金を値上げしたら、それは即座にイタリア市民の電気料金に跳ね返ってくるのです。

そういう生活を30年ほど経験したイタリアと安い電気料金で、次々新製品が発売される家電製品のある生活を謳歌してきた日本とを安易に比較してはいけないと思います。

冷静になって考えてみて下さい。火事に遭ったから、もう一生火は使わないぞと思う人は、そうはいないでしょう。包丁で手を切ったから、二度と包丁は使わないと言う人もいないでしょう。原子力発電も、より安全で津波などの被害に遭ってもメルトダウンに至らない設備のあり方を検討し、数十年掛けて原子力発電所を無くしていくか、あるいは継続していくかを考えていけば良いだけではないでしょうか。

例えば数年後に中東で大きな戦争が起きて、それは長期化したら原油の供給は大きく減ることになります。天然ガスもやってこない。そういう状況で電力供給を維持する事が自然エネルギーだけで可能かどうか。そういう想定をしておかないで、気分で反原発では、現実に停電続きになったら、こんな筈じゃ無かったと思うだけです。

脱原発に至るには、様々な未来のエネルギーを研究しながら、原子炉発電も継続し、徐々に切り替えていくことしか現実論はありません。何事も性急で極端に事を成せば必ず矛盾や歪みが残ります。我々が考えないといけないのは、エネルギー供給の改革ではなくて、改善なのです。

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