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2011年10月

2011年10月14日 (金)

Steve Jobs の遺言

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【PART1:BIRTH】

ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席できて大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

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さて、本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。

まず最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

私はリード大学(米オレゴン州ポートランドにある東部アイビーリーグなどと並ぶ名門大のひとつ)を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらは、まだ大学に居残って授業を聴講していました。 じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。

私の生みの母親は若い未婚の大学院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくてはと、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたのです。ところがいざ私がポンと出てしまうと、最後のギリギリの土壇場になって、弁護士夫婦はやっぱり女の子が欲しいということになってしまったのです。

それで養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところへ夜も遅い時間になって電話が行ったのです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」と。彼らは「もちろん」と答えました。しかし、これは生みの母親も後で知ったことなのですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし、父親に至っては高校もロクに出ていない訳です。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って、今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげたといういきさつがあって、私は養子に出されることとなりました。


【PART2:COLLEGE DROP-OUT】

こうして私の人生はスタートしました。

やがて17年後、私は本当に大学に入る訳なのですけれど、愚かな私は何も考えずにスタンフォード大学並みに学費の高いカレッジを選んでしまったものだから、労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていく事となってしまったのです。

そうして、大学へ入学して6ヶ月も過ぎた頃には、私はもう大学生活に何の価値も見出せなくなってしまっていたのです。

つまり、自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない状況にありました。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めたのでした。全てのことはうまく行くと信じて。そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。

だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

しかし、こうして自分の興味と直感の赴くままm当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたのです。


【PART3:CONNECTING DOTS】

ひとつ具体的な話をしてみましょう。

リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。

私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのかを勉強してみることに決めたのです。セリフ(文字を構成する線の端につくアクセント的な付属の画)をやってサンセリフ(セリフのない書体のこと)の書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり、それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんです。

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こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。

だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたのです。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のパーソナルコンピュータでした。

もし私が大学で、あのコースひとつの寄り道をしていなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体を見回しても、そうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。そして、パソコンには、今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかったということになります。

もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまでを読んで、点と点を繋げてみることなんて出来ませんでしたよ。だけど10年後に振り返ってみると、これほどまたハッキリ、クッキリ見えることもない訳です。

私が皆さんに聞いて欲しいのは、そこなんだよね。

もう一度言います。

未来に先回りして点と点を繋げて見ることは出来ない、君たちに出来るのは過去を振り返って繋げることだけなのです。だからこそ、今はバラバラの点であっても、将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならないと思うのです。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じることです。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができるようになるのです。

結果、人と違う道を行くことになっても、それは同じです。今自分が学んだり、会得したり、感じ入る事の全ての点が、やがては1本の線に繋がるのだと信じることで、全てのことは間違いなく変わるのです。


【PART4:FIRED FROM APPLE】

2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。

私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができたのですから。

実家のガレージでウォズ(ジョブズ、ロン・ウェインらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたApple Inc.の共同設立者の1人・スティーブ・ウォズニアックのこと)とアップルを始めたのは、私が20歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった2人の会社から、従業員4千人以上の年商20億ドルの企業になりました。

そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。

アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間(ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーのこと)を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けれど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。

しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていました。自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたのですから、私はもうズタズタでした。

数ヶ月は、どうしたらいいのか本当に分かりませんでした。

自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じていました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカード(ヒューレット・パッカードを設立者のひとり)とボブ・ノイス(Intelの創業者のひとり)にも会いました。

知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで、一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。ところが、そうこうしているうちに、少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。

私はまだ自分のやってきた仕事が好きでした。アップルでのイザコザは、その気持ちをいささかも変えはしませんでした。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたのです。その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだということが分かってきました。

成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった瞬間でした。

そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで、私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたのです。

Nextstation

それに続く5年のうちに、私はNeXT(当初はハード開発メーカーとしてビジネス市場向けのワークステーションを開発製造していた。のちにソフト開発に転じ現行の Mac OS X の大部分を基盤として開発。現在はアップルの子会社)という会社を始め、ピクサー(ルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を買収して設立したコンピュータグラフィックスの開発会社。『ジュラシックパーク』の興行的な成功でハリウッドにコンピュータグラフィックスアニメーション映画を根付かせ、ピクサーとしては『トイ・ストーリー』が成功し、現在はディズニーの子会社となっている)という会社を作り、素晴らしい女性(ローレン・パウエル)と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルに買収されて、私はアップルに復帰することになりました。NeXTで開発した技術も、現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。

妻のロレーヌと私は、一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも、患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。

皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。

それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけれど、自分が本当に心の底から満足を得たいのなら、進む道はただ一つです。自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかありません。

そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。もしも、まだそういう仕事が見つかっていないのなら、これから探し続ければいい。見付からないからといって、落ち着いてしまっちゃ駄目なのです。

心の問題と一緒で、そういうものは見つかるとすぐにピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていくものです。

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だから探し続けること。落ち着いてしまって探求心を無くしてはいけないのです。


【PART 5:ABOUT DEATH】

3つ目は、死に関するお話です。

私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。

それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。

そして、それから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいのだろうか?」と。

それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。

何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間にひとつ残らず、きれいサッパリに消え去っていく以外ないものだからです。

そして後に残されるのは本当に大事なことだけでしょう。

自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つないことに気付いて下さい。


【PART6:DIAGNOSED WITH CANCER】

今から1年ほど前、私は癌と診断されました。

朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかったような状態でした。ですから、具体的にすい臓癌がどういうものなのかも、すぐには判りませんでした

医師たちは私に言いました。

これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。

たった数ヶ月でね。

それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろということです。要するに、家族の皆にさよならを告げるということです。

私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。

そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。
内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。
私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。

何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだけれど、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。

にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なのです。

かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだし、そういうことになっているものなのです。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。

それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったら、それは他ならぬ君たちのことです。しかし、いつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来ます。とてもドラマチックな言い草で済まいけれど、でも、それが紛れもない真理なのです。

そう考えると、君たちの時間は限られています。まずは、それに気付いて下さい。そして、だから自分以外の他の誰かの人生を生きて、限りある時を無駄にする暇なんかないと確信して下さい。

けしてドグマ(ここでは独善的な考え)という罠に、自分の貴重な人生を絡め取られてはいけません。どうしてかというと、それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということなのですから。

その他大勢の意見の雑音に、自分の内なる声(心の叫びや直感)を掻き消されないことです。自分の内なる声というのは、どうした訳か君が本当になりたいことが何かを、もうとっくの昔に知っているのですから。

だから、それ以外のことは全て二の次でいいのです。


【PART7:STAY HUNGRY, STAY FOOLISH】

私が若い頃に、"The Whole Earth Catalogue(1960~70年代のヒッピーカルチャーに多大なる影響を及ぼした商品カタログ。「全地球カタログ」と邦訳されている。)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。それはスチュアート・ブランド(作家・編集者。インターネット初期から継続しているバーチャルコミュニティー「WELL」の創設者のひとり。)という男が、ここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。

  「The Whole Earth Catalogue」をネットで公開しているサイト
    http://native.way-nifty.com/native_heart/2009/01/post-bf6c.html

時代は60年代後半。

パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターと鋏、ポラロイドカメラで作ってありました。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念が、それこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

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スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出しました。

それがちょうど70年代半ばでした。

ちょうど私は今の君たちと同じ年頃でした。最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下には、こんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。

それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。

「Stay hungry, stay foolish.」

それからというもの、私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきました。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

「Stay hungry, stay foolish.」

ご拝聴ありがとうございました。

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(Steve Jobs氏の2005年6月12日スタンフォード大学の卒業式祝賀スピーチより)

原文は此処で読めます。
http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html

動画はYouTubeで公開されています。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=UF8uR6Z6KLc


先日急逝したSteve Jobs氏の、このスピーチを御存知だったでしょうか。

「人生はパズルのピースだ」という至言がありますね。私もよく人に「何事も経験だ。けして無駄な経験というものは人生の中でないものです」と云ったりしますが、Steve Jobs氏の話も、これらの考え方に似ていて、若い頃からの出来事を積み重ねていく日々を点に例え、将来の自分にとっては線となる貴重なキャリアの積み上げであると云っているように感じられました。

この示唆に富んだスピーチの肝要なところは、一つ一つの点が完成する線のどの部分になるのかは、後になってみないとわからないという部分だと思います。


2011年10月 1日 (土)

沖縄密約という古傷

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1759356&media_id=4

「1972年の沖縄返還に伴う日本の財政負担をめぐり、元新聞記者らが国を相手に、日米両政府間で交わされた密約文書の開示などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁(青柳馨裁判長)は29日、全文書の開示と請求全額の慰謝料支払いを命じた一審東京地裁判決を取り消し、請求を退けた。青柳裁判長は、国が過去に密約文書を保有していたと認める一方、「秘密裏に廃棄された可能性を否定できない」と指摘。不開示決定時に文書を保有していたとは認められないと判断した。昨年4月の一審判決は、文書を密約を示すものと認定した上で、「存在しない」とする国側の主張を「十分に探索したとは言えない」として退け、全文書の開示と総額250万円の慰謝料支払いを命じた。国側は控訴審で新たに、十分に探しても文書が見つからなかった証拠として、外務、財務両省が一審の結審後に公表した密約問題の調査結果などを提出していた。問題の文書は、軍用地の原状回復費400万ドルの肩代わりなどを合意した3通と、その翻訳文など。元毎日新聞記者の西山太吉氏らが外務、財務両省に開示を請求したが、不開示とされたため、2009年3月に提訴した。」

元毎日新聞記者の西山太吉氏って、どういう人なのか。皆さんはご存じですか。今の60代の方なら、”ああ、あいつか”と思い出される方も多いと思います。ご存じない方は『西山事件』で検索されてみると詳しいいきさつが判ると思います。とはいえ、それじゃ話が進めにくいので、簡単に背景を説明します。

毎日新聞の記者だった西山氏は、、1971年の沖縄返還協定にからみ、当時の佐藤内閣が、米ニクソン政権との間で、公式発表では米国が支払うことになっていた地権者に対する土地原状回復費400万ドルを、実際には日本政府が肩代わりして米国に支払うという密約をしているとの情報をつかみます。そして、その情報を西山氏が社会党議員の横路孝弘と楢崎弥之助に漏洩したことで、国会を紛糾させる事態に発展しました。

問題は、横路孝弘議員と楢崎弥之助議員の出してきた資料が外務省の内部文書であったことです。正規のルートで入手出来る代物では無かったことから、検察が動き、情報の漏洩先が明らかになりました。情報の漏洩先は外務省の既婚の女性事務官でした。西山氏は取材と称して、この女性事務官に接近し、後の裁判の公式記録では、飲食に誘い泥酔させた後に強引に肉体関係を結び、度重なる性交渉を経て、内部文章を漏洩するように働きかけたことにより入手されたものだったのです。

この事が表沙汰になると、他の新聞社やテレビのワイドショーは、毎日新聞と西山氏へのバッシングを展開して、これが毎日新聞の不買運動にまで発展。最終的には毎日新聞は倒産に追い込まれました。結局、これをもって大手メディアは「密約の有無」という問題追求から撤退してしまい]、沖縄密約についての政府の責任追及は完全に蚊帳の外に置かれるという結論が生まれます。有罪判決を一審で受けた女性事務官は控訴せずに刑は確定(懲役6月・執行猶予1年)。公務員の身分を失い、夫妻は離婚に追い込まれますが、西山氏は『報道の自由』を掲げて裁判を継続。最高裁で敗訴してしまうまで戦い続けたため、世間からの批判を一身に受けることと成りました。

最高裁の出した判断は、こうでした。「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである」、「報道機関といえども、取材に関し他人の権利・自由を不当に侵害することのできる特権を有するものでない」と。この判決以降、日本における報道の自由とは、違法性の高い取材であれば、報道の自由が無制限ではないと定められた事になります。

どうですか。黴の生えた過去の経緯を世間が忘れた頃に、自らの違法な取材は刑に服したから不問とばかりに起こしたような裁判で、最終的に勝訴が得られるとは、まずまともな人間であれば思いません。私に云わせれば、西山氏は昔の意趣返しに裁判をしてるとしか思えません。

しかし、西山氏ばかりを責める訳にはいきません。漏洩されたと知りつつも、その情報を国会審議の戦術に利用した側は責任を未だに問われていないからです。しかも横路孝弘は、その後に北海道知事を務めて国政に復帰。今や衆議院議長です。旧社会党系の議員には、この手の人がのうのうと議員として高給を貰い、議員宿舎を利用しながら、公務員宿舎の建設に反対しているんですから、厚顔無恥も甚だしいですね。

追伸

この話に友人のたかぎ@FDRさんが、こういうコメントを下さいました。

「沖縄密約事件はさておき。沖縄返還に係わる複数の密約が存在したのは事実であり、その複数の密約を結ばなければならなかった事情というのは、手付かずの研究分野でもあります。西山事件を持ち出して話をそらす動きは今でもない訳でないというのは、困ったもので・・・。 」

大変有意義な指摘だと思います。ついついスキャンダルに目を向けるように誘導されて、我々は沖縄返還に伴う密約全てに目を向けるのを止めてしまったのですから、西山氏(西山事件)が果たした役割は大きかったと云わざる得ません。これが、英国のジョン・ル・カレーの手に掛かれば、全体像を睨んでCIAが日本外務省当局の上層部に圧力を掛け、スクープ狙いで外務省の女性事務官と不倫関係にあった西山記者に目をつけ、ワザと密約の害にあまりならない部分をリークさせた・・・というストリーを作るかも知れませんね。


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