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2013年4月

2013年4月26日 (金)

気の長い話しになりそうだ

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=2193502

外交交渉では相手の狙いを理解した上で、自国の国益を最大化させる術を探らなくてはならない。そのためには過去の論理に固執し、思考停止してはならないと元外交官の佐藤優氏は指摘する。中国との交渉で日本が新たに示すべき覚悟とはどのようなものか。9月11日に日本政府は、尖閣諸島のうち3島(魚釣島、南小島、北小島)の所有権を民間の地権者から購入する決定を行ない、その後に中国では反日暴動が発生した。率直に言って、少なくとも今後数十年、日中関係が抜本的に改善することはないだろう。それは、中国で、民族形成(ネーション・ビルディング)が行なわれているからだ。民族形成に際しては、「敵のイメージ」が不可欠になる。民族は数百年の昔から存在したと思われているが、実際は長くても二百数十年の歴史しか持っていない。民族形成と産業化、近代化は同時並行的に行なわれる。チェコ人が形成される時はドイツ、ドイツ人が形成される時はフランスが「敵のイメージ」になった。中国では、20年くらい前から産業化、近代化が本格化した。それと同時に、中華帝国の漢人とは異なる近代的民族としての中国人が形成されつつある。この過程で日本が「敵のイメージ」に定められてしまった。だから、尖閣問題が一段落しても、靖国問題や南京大虐殺のような歴史問題をめぐる対日批判が、入れ替わり噴き出してくる。要するに中国の反日は、近代化、産業化と不可分の構造的性格を帯びている。この過程は中国の近代化が完成するまでの今後数十年間続く。その間、中国から日本は「敵のイメージ」にされ続ける。」※SAPIO2012年11月号

日本人は熱しやすく冷めやすい。尖閣問題にしても半年もすれば、”そんなこともあったよなぁ”と思ってしまう。しかし、中国の方は尖閣諸島の領海に何度でも侵入を繰り返し、何度でもここは自国の領海だという会見を繰り返すでしょう。その期間は佐藤優氏がいうように何十年の単位でしょう。

野田民主党政権は、我が国に何十年も祟る災厄をもたらしたという批判があまり聞こえません。中途半端に国有化で留めずに、魚釣島にでも灯台なりヘリポートなりを建設するところまでやっておいてくれなかったんですかね。管政権は原発のメルトダウンという災厄を残し、鳩山政権は普天間基地の県外移設と日米関係に災厄を残したことを思えば、この民主党政権の時代というのは、日本にとって最悪の時代だったんだなぁと思ってしまいます。

2013年4月25日 (木)

数字のマジック

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2408372

「世界24か国の即席ラーメン製造大手でつくる「世界ラーメン協会」は25日、2012年の全世界の即席麺の消費量が前年比2・7%増の1014億2000万食となり、初めて1000億食を突破したと発表した。統計は、袋麺とカップ麺のメーカー出荷量から返品などを差し引いた推定値で、消費量を世界の総人口(70億5210万人)で割ると1人あたり14・4食となり、毎月1回以上食べられている計算だ。中国やインド、ブラジルなど新興国での消費増が目立っており、同協会は「経済の発展で、ゆっくり食卓を囲む時間が取れなくなり、即席ラーメンの消費が増えているのではないか」と分析している。国別消費量は、中国・香港が最も多い440億食(前年比3・6%増)で、2位はインドネシアの141億食(2・9%減)、3位は日本の54億食(1・8%減)だった。国民1人あたりの消費量は、1位が韓国の年間72・4食。日本は42・8食で、インドネシア、ベトナムに次いで4位だ。」

即席麺を発明したのは日本ですが、現在では消費量で世界第3位(2011年現在)です。1位は記事にある通り中国なのですが、1人当たりの消費量となると実は韓国が1位なのです。人口が多い国では消費量も多いので、ついつい数字に騙されるのですね。中国では1年間に1人当たりの即席麺の消費量は30,8食です。これは日本よりも約13食も少ない数字ですから。ただし中国は世界消費量の半分を占める巨大な消費地であるのは確かですけど。

①韓国:消費量35,9億食→1人当たりの消費量74,2食
②インドネシア:消費量145億食→1人当たりの消費量60食
③日本:消費量55,1億食→1人当たりの消費量43,6食

ちなみにですが、韓国では1963年に即席麺の生産を開始しました。日本で開発されたのが1958年です。この年に「チキンラーメン」が発売されました。1962年に麺とスープが別添えになった「明星味付ラーメン(現在は廃盤)」が発売され、1963年にその明星食品が韓国の「三養食品」と合弁で即席麺の工場を開設したのが韓国での即席麺の歴史の始まりです。この際に、日本では戦後賠償の一環として、民間からの技術供与が行うという側面もあったのですが、当時は朴正煕政権の軍政下。そんな話しを韓国民が知る由もありません。なお中国最大手のメーカーである康師傅(台湾系)は日本のサンヨー食品と、第2位の華龍日清は日清食品と提携しておりますので、こちらも日本の民間技術が供与されたという形態なのです。

即席麺は、インスタントラーメンとして欧米にも進出していて、米国でも韓国より多い40億食は生産され、1人当たり12食が消費されています。オーストラリア軍の戦闘糧食にはインスタントラーメンが採用されているのも有名なお話しです。宇宙食にも日清食品と宇宙航空研究開発機構(JAXA)の共同開発により「スペース・ラム」(Space Ram)という70°のお湯で食べられるカップ麺が実用化されています。

    2013年4月23日 (火)

    無理な進歩は落とし穴がある

    http://www.yonhapnews.co.kr/politics/2012/08/24/0505000000AKR20120824085100043.HTML


    「(韓国)防衛事業庁は24日、 K2戦車国産パワーパック(エンジンとトランスミッションを組み合わせた動力伝達機構)の試験評価完了が予定された8月31日までに不可能であり、試験評価延長するかどうかについて、国防科学研究所(ADD)の検討要求をしたと明らかにした。防衛事業庁は、この日「K2戦車パワーパックメディアの報道検討結果」というタイトルの資料を通じてこのように明らかにした。昨年12月19日から行われた運用試験評価(OT)の走行目標であった5440㎞の約58%である2千902㎞を走行した。昨年11月8日から始まった開発試験評価(DT)耐久度テストでは、走行目標110975㎞の40%である4717㎞を走行したと説明した。防衛事業庁側は "開発試験評価耐久試験の中間結果を見ると、2556㎞を走行した時点(今年3月15日)で、エンジン39件、トランスミッション33件など72件の不具合が発生した。運用試験評価でも、最近まで91件の障害が発生したとし、欠陥の発生により、試験評価完了時点が遅れていることを説明した。4月2日、防衛事業推進委員会がK2戦車パワーパックの初回量産分を海外から輸入することに決定した後も、国内のパワーパックで、「オイルパン取付ボルト折損」、「速度及び方向調整器スイッチ欠陥」、「駐車ブレーキバルブの故障」、「冷却水漏れ」など22件の不具合が発生したと防衛事業庁は明らかにした。ただ最近実施した酷暑100㎞連続走行と8時間の連続稼働試験では特に問題点は発見されていないとも伝えた。軍関係者は「今年8月運用試験評価が成功的に終わっても、2016年以後に戦力化がなされると予想していた試験評価が再び中断して戦力化が更に遅れると見られる」と明らかにした。軍当局は国産パワーパック開発が遅れていることによってK-2戦車の初度量産分100両にドイツ産パワーパックを適用することに去年12月最終決定をした。」

    戦車という戦闘車輌は、その国の自動車産業のレベルを知る写し鏡です。そもそも世界中で戦車を開発・生産出来る国は多くはありません。そんな中で韓国は後発の戦車開発・生産国です。

    韓国陸軍は、創設以来M41やM48パットンなどのアメリカ製戦車を主力戦車として使用してきました。ここで戦車の運用を学びました。1980年代になり戦車の国産を目指した時、国産が不可能という結論に至り、米軍の主力戦車M1エイブラムスを開発したアメリカのクライスラー・ディフェンス社(現:ジェネラル・ダイナミクス社)に設計・開発を依頼し、生産は韓国の現代車輌社(現代精密、現:現代ロテム)が担当して1987年に「88戦車」として公式発表されたのが、現在の主力戦車K1です。

    記事にあるK2戦車は、その後継戦車として自国で設計・開発されただけに、戦車の足回りの要である国産パワーパック(エンジンとトランスミッションを組み合わせた動力伝達機構)の事実上の不採用は大変な痛手だったことでしょう。

    なにせK2開発に際しては、エンジンは国産の4サイクルV型12気筒水冷式ディーゼルの1,500馬力が新たに開発されました。このエンジンは試作車のXK2に搭載されたドイツMTU社のMT883の不正コピーという噂がありましたが、公式には斗山インフラコア社とADDが共同開発したものとされています。この新開発エンジンは小型で同程度の馬力を発する他形式のエンジンに比べ省スペースを得られるため、余剰スペースにサムスンテックウィンの設計による100馬力の小型ガスタービン補助エンジンを搭載することを可能にしました。この補助動力装置はメインエンジン停止時に発電を行い、燃料を節約し、車体が発する熱と音響の減少効果を狙って搭載されたようです。

    自動トランスミッションの方は、S&T大宇社と国防科学研究所が共同開発した電子制御式トランスミッションが採用されました。この際に新機軸として前進6段、後進3段の自動変速を可能にすることによって変速時の衝撃を減少させ、かつ完全デジタル制御、自己診断機能により運用性の向上を目指したのです。ところが、この新機軸が今回のトラブルの原因のようです。早い話、新機軸が仇になったということですが、ここに韓国の自動車産業における技術力の限界が透けて見えます。

    コピー製品を上手く作るところから、元の製品よりも高機能な製品へ昇華する術が育っていないと云うことなのではないでしょうか。

    2013年4月21日 (日)

    史実ではなく物語としてのリンカーン史劇


    映画『リンカーン』を見てきました。

    以前も書きましたが、米国の歴史、なかでも政治史を学ぶ機会のない大半の日本人には、どうして南北戦争が起きているのか?なぜ奴隷解放なのか?そこらが判らないまま、物語は議会闘争と駆け引きの話しに転がっていきます。

    映画の時間は2期目の大統領選に勝利して3カ月後の1865年1月から始まります。戦争の勝利は目前に迫っていましたが、このまま終戦してしまっては、彼が目指した「奴隷解放」は、南部諸州では実現されることはない。戦争が終わる前に、連邦憲法を修正しておかねばならないとリンカーンは確信しています。その為には前任期中に上院を通過したものの下院で否決された、「憲法修正第13条」を、再度下院でなんとか通すべく、採決の日までリンカーンは全身全霊をかたむける姿が描かれています。そして議決まで約1カ月におよぶ多数派工作を事細かに政界裏模様もしっかり光を当てているのも印象的です。

    さて、リンカーンをはじめとして議会の奴隷解放派はやたらと「freedom」を口にします。「freedom」を我々は学校で「自由」と教わりますが、そもそもこの「自由」とはどういう意味なのでしょうか。

    穂積陳重の『法窓夜話』によれば、加藤弘之から聞いたこととして、こういう話しを書いています。訳字「自由」は幕府外国方英語通辞の頭をしていた森山多吉郎が案出したのが最初であるとするが、文献上では文久2年初版・慶応3年正月再版訳了の「英和対訳辞書」(堀達三郎・著)に紹介され、慶応2年初版の「西洋事情」(福沢諭吉・著)にも訳字が見られるとする。鈴木修次によれば初出は森山多吉郎、福沢の西洋事情により広まったとすると。「自由」という言葉は日本人の創作ではありません。古典中国語では「後漢書」に自由という表記が見えます。ただし、その意味するところは「我儘で放蕩」です。徒然草の第60段にも「よろづ自由にして、大方、人に従うといふことなし」とあるほどです。

    この「自由」の意味にそうのが「freedom」です。ですから、リンカーンが奴隷の解放をするという意図は完全な抑圧から解き放つという意味になってしまうのです。故に、そんなことは許せないと猛反発する理由がここにあります。

    一方で「liberty」はラテン語「liber」を語源とします。その意味するところは「社会的・政治的に制約されていない」、「負債を負っていない」というところです。ですから「liberty」のいう自由とは完全なる解放ではなく、一定の条件付解放という意図を持ってしまいます。故に圧政などからの解放を「liberation(名:解放)」、それを行う者を「liberator(名:解放者)」というのも納得です。

    映画を見ていると、米国では共和党が善で、民主党は悪と思えてきます。監督のスピールバーグは民主党の高名な支援者の一人です。ビル・クリントン大統領とは親友だとも云われています。ですから、ここに彼の政治バイアスは働いていません。史実として、こうだったということです。

    むしろ、冒頭の場面で黒人兵士がリンカーンに雑談風に語る、「50年後には黒人にも参政権が与えられ、100年後には・・・」という部分に注目したいです。「・・・」は大統領が出ると言わせたかったんじゃないのかと思いました。その上で、黒人も血を流して勝ち取った解放。そしてアメリカ人として戦ってきた先人達を思えば、社会福祉に力点を置いた政治姿勢はどうなのかと云いたいのではないかと思えて仕方がなかったです。

    さて、米国映画の常として、俳優陣がよく演じる役に顔までなりきっているのも、この映画を見る楽しみではないでしょうか。

    フォトフォト
    (ダニエル・デイ=ルイス - エイブラハム・リンカーン大統領)

    フォトフォト
    (サリー・フィールド - メアリー・トッド・リンカーン大統領夫人)

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    (トミー・リー・ジョーンズ - サディアス・スティーヴンス共和党議員)

    フォトフォト
    (デヴィッド・ストラザーン - ウィリアム・スワード国務長官)

    フォトフォト
    (ハル・ホルブルック - フランシス・プレストン・ブレア共和党議員)

    映画の中でリンカーン夫妻の夫婦喧嘩の場面が出てきます。リンカーンは妻のメアリーに精神病院に入れと云いますが、実際に彼女はリンカーンが暗殺されたショックで精神不安定となり、以後生涯を精神病院で過ごすことになりますので、アメリカン人にはさもありなんというプロットではと思いました。ただし、映画の内容全てが史実通りでないのは確認しておきましょう。

    私が一番不思議だったのは、リンカーン暗殺場面のこと。私の知識では夫妻で観劇中に暗殺されるのですが、映画では観劇中の夫人が暗殺を知らされるという風に作られています。私が習った史実はこうです。


    リンカーンと妻のメアリーはローラ・キーン主演の『われらのアメリカのいとこ』を見ることにしていました。リンカーン夫妻はさまざなストレスとを抱えていたので、劇を見て精神的にリラックスしたい思いがあったと云われています。一緒に観劇をしようと何人もの側近に声をかけましたが、ことごとく断られ、ヘンリー・ラスボーン(Henry Rathbone)少佐と婚約者のクララ・ハリス(Clara Harris)のみがこの誘いを受けました。大統領夫妻は開演後にフォード劇場に到着。ボックス席に入り、大統領が左側のロッキングチェアに座りました。暗殺犯のブースは俳優としてフォード劇場を知り尽くしていたので、難なくリンカーンのいるボックス席に入り込み、ドアにつっかえをして応援を阻止する備えをしました。ブースは大統領の背後に近づいて、後頭部めがけてデリンジャーピストルで銃弾を発射。撃たれた大統領はイスに座ったまま、前のめりになった。

    なぜ、スピルバーグは新解釈を加えたのか。その意図は一度見ただけは分かりませんでした。この映画から、南北戦争に興味を持って、少し勉強するのも楽しいのではないでしょうか。

    *穂積陳重の『法窓夜話』は岩波文庫に入っています。名著ですし、読みやすいので一読をお薦めします。



    2013年4月19日 (金)

    Obama Honors Bombing Victims in Boston

    http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=52&from=diary&id=2400121


    「オバマ米大統領は18日、連続爆発事件が起きたボストンを訪れ、大聖堂で行われた追悼式で演説し、「あなた方は再び走るはずだ」と市民らに激励のメッセージを送った。また大統領は「あなた方は事件から立ち直るための長い旅を始めたが、市も州も国もあなた方と共にある」と強調。犯人については「必ず見つけ出し、裁きにかける」と事件解決への意欲を示した。ボストン・マラソンのゴール付近で発生した今回の事件では、マーティン・リチャード君(8)ら3人が死亡、176人が負傷した。」

    オバマ米大統領が追悼式で演説するのをテレビで見ましたが、何時になく精彩を欠いている気がしました。原稿に目を何度も落としてましたし、表情が冴えないし、とても国民が勇気づけられるような雰囲気をつくっているようには思えませんでした。

    もっとも大統領の心中は苦悩で一杯でしょうね。

    なにせ、「財政の崖」問題で共和党が一部富裕層への増税を容認しましたが、その後も富裕層への負担増を求める大統領に対して共和党が猛反発。その後の財政協議が決裂したままなのです。仕方なく財政赤字を強制的に減らすため、国防費を中心とした歳出強制削減(13年度は850億ドル)が3月に発動され、政府職員の解雇の拡大や景気への影響が心配されています。また、5月半ばにも連邦債務が法定上限に達して債務不履行(デフォルト)危機が再燃する見通しなのも気に掛かります。こちらの事態収拾に向けた協議も、やはり増税問題がネックで難航しています。再選を果たしたオバマ大統領ですが、予算法案の作成権限は議会にあり、下院の主導権は共和党が握ったまま。財政運営と議会交渉を乗り切らない限り、社会保障政策などにも大鉈を振るわないといけない事態が起きるでしょう。

    2013年4月12日 (金)

    「Love her or hate her」(彼女を愛するか、憎むか)

    http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=2391728



    4月8日、イギリス初の女性首相マーガレット・サッチャー氏が、10年にわたる認知症の末、脳卒中で亡くなった。87才だった。エリザベス女王(86才)は「悲しいニュースだ」と声明を発表。キャメロン英首相(46才)はスペイン訪問を途中で切り上げ緊急帰国した。世界にも悲しみは広がった。アメリカのオバマ大統領(51才)は、「世界は最も偉大な自由の擁護者の一人を失い、米国は真の友人を失った」と声明を発表した。しかし一方で、インターネット上には、彼女の死去を歓迎するページが設置された。元炭鉱労働者はフェイスブックに「人生で最良の日だ」と書き込んだ。テレビの中継でも、涙を浮かべながら悲しむお年寄りの女性が紹介された後、「私の街をぶちこわした。彼女の死を歓迎する」と答える男性が登場するといった異様な事態になっている。評価が真っ二つに分かれる女性であった。それでも現代を生きる女性にとって、彼女の存在が大きなものであったことは間違いない。それは、映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』で、サッチャー氏を演じ、昨年のアカデミー賞主演女優賞を獲得したメリル・ストリープ(63才)の追悼の言葉にも表れている。「世界中の女性たちに、お姫さまになるという幻想ではなく、別の夢を抱かせた」食料雑貨店を営む中産階級の家に生まれたサッチャー氏は9才のとき、学校から優秀賞をもらい、「私は、幸運だったのではない。それだけの努力をした」と言った。「彼女のお父さんは13才までしか教育を受けなかったのですが、独学で勉強し、雑貨店を経営しながら、市会議員、上級議員、そして市長にまで上りつめた人。その父から“他の人がやるからというだけの理由で、何かをやってはだめだ。できないとか、難しすぎるということはない。男も女もない”と言われ、“自助努力”の教えを受けたんです。彼女は他の女の子たちと遊んだりせず、勉強に打ち込んでいたんです」 私立の女学校に進学後、名門オックスフォード大学へ。卒業後は、化学者としてプラスチック工場で働いた後、保守党の支部に入会し、1959年に下院議会議員選挙で初当選を果たす。630人の議員中、女性はわずか5人。33才のサッチャーは最年少だった。そして1979年にイギリス初の女性首相となる。54才。首相としては若く、女性で、平民という、異例ずくめの首相だった。

    マーガレット・サッチャーが英国の首相であった時、アルゼンチンと長年に渡り領有権が争われていたフォークランド諸島に突然アルゼンチン軍が侵攻を始めました。自国の領土を回復するのですから宣戦布告などありません。しかも英軍は財政難の影響で縮小傾向にあり、本国を遠く離れた離島に警備のため置いていた兵力は31名の海兵隊員と11名の海軍兵の計42名のみでした。侵攻当日、1982年4月1日に先遣隊としてアルゼンチン軍がフォークランド島に送り込んだのは、92名のコマンド隊員でした。しかし思いがけない英軍側の抵抗にあった先遣隊は、翌朝に900名の本隊の到着を待って英軍の抵抗を封じることになりました。フォークランド島がアルゼンチンによって占領されたのは4月2日のことでした。


    (原潜として初めて敵艦を魚雷攻撃で撃沈した「コンカラ」の凱旋時の様子)

    この事態を受けたサッチャーは4月3日にイギリス軍へフォークランド諸島奪還のために派遣部隊と機動艦隊の編成を命じました。イギリス海軍は4月5日に艦隊旗艦の空母ハーミーズを中核とした空母2、駆逐艦10、フリゲート艦13、揚陸艦8隻、輸送艦他支援艦16の計49隻から成る機動艦隊(第317任務部隊)をポーツマス港より出撃させます。さらにフォークランド諸島奪還の中継基地としてフォークランド諸島北西約6000kmに位置する英領アセンション島の利用を決め、4月5日から18日にかけて、イギリス空軍の手で艦隊支援用補給物資が次々と集積されていきました。4月12日には先行してフォークランド諸島に向かっていたイギリス海軍の潜水艦隊が同海域に展開を完了(この時、潜水時の速力は40ノット以上、つまり時速でいえば70キロ近い高速だった)。ただちに、イギリス政府はフォークランド諸島の半径200海里(370km)を封鎖海域とし、以後この海域に他国籍の艦船の侵入を禁じることを世界に宣言してみせました。そして4月21日にはSASによるサウス・ジョージア島上陸偵察作戦が開始されます。この早業に世界は驚きました。なにせ英軍の総勢は陸海軍で23,000人。侵攻を受けてから僅か3日間でこれだけの戦力を用意し、本国から離れること18,000㎞の彼方に送り込んだのですから。


    (アルゼンチン軍機の攻撃を受け炎上するイギリス海軍のフリゲート「プリマス」)

    この時のことを後にサッチャーは、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べています。

    これがサッチャーの毀誉褒貶の誉褒だとしたら、毀貶の方は色々と逸話が残されています。どれも彼女が政権を担っていた時の政策によるものが主です。しかし、こんな話しも有名です。

    サッチャーの長男マークがダカール・ラリーに出場中に一時行方不明となったことがあります。この事態を聴いたサッチャーは、当時首相の職にあったのですが、「息子が見つからなかったら、レースを中止にさせる」と開催側に圧力をかけたと言われています。最終的にマークは無事に発見・保護されたのですが、捜索に英軍の派遣を示唆するなど常軌を逸した言動もあったといわれています。このマークは、それから数年後、当時居住していた南アフリカ共和国で、「赤道ギニアのクーデターを企んでいた傭兵へ資金援助を行った」容疑で逮捕されてしまいましたが、サッチャーはすぐに200万ランド(約4千万円)の保釈金を支払い、イギリスへの帰国を認めさせています。翌年には南アフリカ政府と司法取引をし、「資金提供は認めるが、クーデターの意図は知らなかった」ということで、懲役4年(執行猶予付き)と300万ランド(約6千万円)の罰金を支払い事なきを得たのでした。

    この親馬鹿ぶりは尋常ではありませんよね。あの織田信長も息子には異常な親馬鹿だったといいます。偉人の有り様には、どこか桁外れな面があるのかも知れません。

    ご冥福をお祈りします。

      2013年4月 8日 (月)

      ただの傍証が大ニュース?

      http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=2386128

      「1957年夏、米軍の旧立川基地にデモ隊が侵入した砂川事件で、基地の存在を違憲とし無罪とした1審判決(59年3月)後、最高裁長官が上告審公判前に、駐日米首席公使に会い「判決はおそらく12月」などと公判日程や見通しを漏らしていたことが、米国立公文書館に保管された秘密文書で分かった。1審判決後、長官が駐日米大使と密会したことは判明しているが、基地存在の前提となる日米安全保障条約改定を前に、日本の司法が米側に図った具体的な便宜内容が明らかになったのは初めて。専門家は「憲法や裁判所法に違反する行為だ」と指摘している。布川玲子・元山梨学院大教授(法哲学)がマッカーサー駐日大使から米国務長官に送られた秘密書簡を開示請求して入手した。書簡は59年7月31日にレンハート駐日首席公使が起草。田中耕太郎長官に面会した際「田中は、砂川事件の最高裁判決はおそらく12月であろうと考えている、と語った」「彼(田中氏)は、9月初旬に始まる週から、週2回の開廷で、およそ3週間で終えると確信している」などと記している。実際には、公判期日は8月3日に決まり、9月6、9、11、14、16、18日の6回を指定し、18日に結審。最高裁大法廷は同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻した。書簡はさらに、田中長官が「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話した、としている。60年の日米安保条約改定を控えた当時、米側は改定に反対する勢力の動向に神経をとがらせており、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいた。それだけに、田中長官が1審破棄までは明言しないものの「評議が全員一致を生み出すことを願っている」と述べたことは米側に朗報だったといえる。布川氏は「裁判長が裁判の情報を利害関係のある外国政府に伝えており、評議の秘密を定めた裁判所法に違反する」とコメントしている。また書簡では、砂川事件1審判決が日米安保条約改定手続きの遅れにつながっているとの見解を日本側が在日米大使館に伝えていたことも明らかになった。書簡は情報源について「(日本の)外務省と自民党」と記している。」

      今回の布川玲子・元山梨学院大教授が発見した在日米国大使館からの電文は、2008年に新原昭治(国際問題研究者・非核の政府を求める会核問題調査専門委員)が公表した秘密文書の傍証にあたるものです。「しんぶん赤旗」(2008年4月30日版)で報じられたのを読んだ記憶があります。

      一部の報道では日本の司法の独立を疑うという論調も出ているようですが、私には当時の最高裁長官であった田中耕太郎その人が問題だった気がします。

      田中耕太郎は鹿児島の人で、第一高等学校から東京帝国大学法科大学法律学科へ進学。在学中に高等文官試験に合格。大正4年東大を首席で卒業し内務省へ入省するが1年半で退官。大正6年に東京帝国大学法学部助教授に転身。大正12年に東京帝国大学教授、昭和12年には東京帝国大学法学部長に就任。昭和16年、帝国学士院(日本学士院の前身)会員に選定。昭和20年10月には文部省学校教育局長に転じ、昭和21年5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相のまま6月に貴族院議員に就任。昭和22年に参議院選挙に立候補し当選。緑風会に属した。その後も文相として教育基本法制定に尽力。昭和25年に参議院議員を辞職して最高裁判所長官へ就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例として、また長官在任期間歴代1位(3889日)として、歴史に名を残しています。

      早い話が、当時の総理吉田茂に近い人物だったということです。吉田は『造船疑獄』で、犬養健法務大臣を通して、検事総長に佐藤栄作(当時の幹事長)の逮捕を延期させる戦後唯一の指揮権発動を行ったのは有名な話しです。砂川事件で在日米軍基地が憲法違反という判決が出て、日米安保条約そのものの違憲性も問われかねないと吉田総理が田中長官に圧力を掛けたと想像するのも難くないのです。吉田総理がここまで対米関係を重視したのは当時の日本周辺の政治情勢を知らねばなりません。正義を通して国が滅びても良いという論理は、国民全体のことを考えたら云えない台詞だと私は思いますけどね。

      ところで、記事にある布川玲子氏ですが、最終学歴は早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程満期退学。大学は早稲田大学第一政治経済学部政治学科(1963年入学)です。当時の同級生だった鈴木邦男(一水会代表)によると布川氏は「社思研」(社会思想研究会)のメンバーだったそうです。社思研は社青同解放派の拠点サークル。つまり布川氏は全共闘のシンパだったということです。早大政経学部の自治会は社青同解放派が握っていたので当然といえば当然。団塊世代のインテリの典型のような方です。

        2013年4月 5日 (金)

        少し遅れたエープリルフール話

        http://japanese.ruvr.ru/2013_01_31/103102190/

        「日本の奇跡」の秘密はどこにあるのだろうか? 日本はなぜあんなにも早く戦後復興を果たし、世界の経済大国の列に並ぶことができたのだろうか? これらの問いにはエコノミストだけでなく歴史家も取り組んでいる。 専門家らの間では日本の戦後復興が迅速に行なわれた背景には、日本の会社員、労働者の勤勉さ、日本の高級官僚の権限の大きさ、米国からの潤沢な財政支援の3つの要因があるとされている。最初の2つの要因には誰も疑問を呈さないだろうが、3番目に関しては米国は確かにアジア圏に共産主義が拡大しないためのバリアとして日本を使うために援助したが、それでも自国経済と互角で張り合うライバルを育てようとは思わなかったはずだという疑問がでてくる。では日本は第1級の産業と科学を打ち立てるための資金をどこから捻出したのだろうか? 
        歴史家の中には水兵、イムリオ・イソカワの話がこれに関連するという声がある。 話はロシアの巡洋艦「アメチスト」が1904年南シナ海のダナング沖合いで日本の水雷艇125を沈没させたところから始まる。水雷艇の乗組員は全員海の藻屑となったと思われていたが、2年後の1906年初頭、フランスの砲艦「クルーレ」は北アンナン島の沿岸でいかだに乗った一人の水兵を発見した。水兵はぼろぼろの服装で憔悴しきった様子で、自分は水雷艇125の乗組員の生き残りで名をイムリオ・イソカワといい、1年半にわたってたったひとりでパラセル諸島のある島で暮らしていると語った。 イソカワさんは日本に帰国した後、3年間、病院で心理療法を受け、その後、軍人恩給をもらって家族と暮らし始めた。イソカワさんは医師らや友人らに島で素晴らしい宝物を見つけたと話していたが、もちろん信じてはもらえなかった。ところがイソカワさんの死後、45年初頭、イソカワさんの家にはその宝物に大きな興味を示す人たちが東京から訪ねてくるようになった。その際、自分たちとの話については広めないでくれと頼まれた。

        1945年6月、パラセル諸島のある島に日本の潜水艦I-409が到着した。その乗組員と船長は日本の軍事諜報機関からの命令で差し向けられたのだった。後日、潜水艦の水上機のパイロットは水兵らが島の海岸線にある洞窟から樽のようなものを運び出していた様子を空から目撃したと語っている。樽の中身については水兵らには知らされなかった。だが、この作戦に関与した人間はその後全員、人間魚雷に配置されている。 その10年後の1955年、水上機のパイロットは長崎で偶然、潜水艦の元船長に出会った。その際、船長は初めて赤裸々な事実を語った。実は自分は将校には内緒で樽の中身をいくつか覗いた。すると樽は縁ぎりぎりまでぎっしり真珠が詰められていた。しかも価値の非常に高い黒真珠。樽は全部で20個ちかく。しかも1樽の重さは100キロはくだらなかったから、当時でも100-150億ドルはくだらなかっただろうというのだ。そんな真珠が一体どうしてこの島にあったのだろうか? 一説にこれは16世紀に大活躍したマレーシアの海賊ブングワラ・アナムバスのものだというのがある。アナムバスはパラセル諸島のどこかの島に陣営を築いていたらしく、イソカワさんが見つけたのはその宝物だろうというわけだ。しかし、潜水艦I-409がお宝を発見したあと、その真珠はどこに行ってしまったのだろう?

        戦後、石油王ジョン・セクストン氏の個人コレクションに1000万ドル相当の黒真珠がいくつか発見された。この線をたどると米国企業「ラジオテクニクス」の元経理長ロナルド・スミート氏が浮かび上がってきた。スミート氏の話では、戦後すぐ、破綻の瀬戸際にあった会社のオフィスに2人の日本人がきて、うまい取引を申し出た。その取引とは1943年の創業以来、この会社が開発したすべてをアタッシュケース2個分の真珠と交換するというものだった。アタッシュケースを開けると真珠の大半は黒真珠だったという。米国人はこれに同意し、糸目もつけないいい暮らしをした結果、全財産を失った。そのかわりに日本には軍需、民需両用の様々な生産を行なう企業が誕生し、大成功を収めた。こんなわけで今、ヨーロッパや米国にある黒真珠の出所をつきとめようとすると、戦後、アタッシュケースに真珠をつめて世界を回り、最新の技術を買いあさった日本人数名の軌跡につきあたるかもしれない。



        まず、この記事に出てくる”日本の潜水艦I-409”というのは、恐らく伊409という潜水艦のことを云いたいのでしょうが、そもそも伊409が存在しません。伊400潜水艦型では実際に就役したのが伊400と伊401、伊402の3隻のみです。建造計画上は、伊403(第5234号艦)から伊417(第5248号艦)までが予定(改マル5計画)されていました。しかし、戦局の悪化などで5隻に建造計画は圧縮され、実際には3隻が就役できたにすぎませんでした。伊400潜水艦型は第二次大戦当時、世界最大の潜水艦でした。戦闘爆撃機として活躍できる水上攻撃機晴嵐を3機搭載できる能力を持つ潜水艦空母でもありました。後に米海軍の戦略型原子力潜水艦のモデルともなった伊400潜水艦は結構有名です。それ故に、こういう話しでも出てくるのでしょうが、それならちゃんと調べてから話を作ると多少信憑性は高まろうというものなのですが。ついでに書くと、ロシアの巡洋艦「アメチスト」やフランスの砲艦「クルーレ」も本当に存在するのやら。

        という風に浅学な私でも、この話が与太話の類であることは充分見抜けるのですから始末に悪いですね。

          2013年4月 1日 (月)

          ほらを吹いてみました

          http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2377740

          「3月31日付の北朝鮮の朝鮮労働党機関紙・労働新聞(電子版)は、「軍の打撃手段は射撃対象を確定した状態にある」と強調し、米軍の横須賀基地(神奈川県)や三沢基地(青森県)が「わが方の射程内にある」と主張した。」

          米軍基地を仮に北朝鮮が核攻撃した場合、まず核攻撃を阻止する行動に出るでしょう。いわゆるミサイル防衛網が反応する訳です。そして、次に報復攻撃がなされるでしょう。こちらは非核攻撃になるのか、核攻撃になるのかは米軍が受けた被害の度合いやら政治的な判断により決まることでしょう。ICBMに通常弾頭の配備はありませんから、非核攻撃の場合はトマホークによる攻撃となります。仮に平壌に限定して攻撃をおこなうとしたら、政府機関は壊滅させられるでしょう。無論、政府高官は地下のシェルターなりに避難はしているでしょうが。何れにしても、その攻撃で北朝鮮が得るモノは何もありません。

          ということで、こりゃ単なるほらでしかありません。

          第二次大戦以降、核保有国に対しての核攻撃はおこなわれたことがありません。それは核による報復攻撃を受ける可能性があるからです。お互いの国が核攻撃で滅びるかもしれないですからね。そして忘れてはいけないのは、北朝鮮の核攻撃が横須賀基地を逸れて戸塚あたりに落下して核爆発をおこしたら、米国は確実に核での報復は選択しないということです。

          その時に日本政府はどうするべきなのか。報復をするという選択肢がどんな実行力を伴うものなのか?全然議論が出来ていないのですから・

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