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2013年6月 8日 (土)

人斬りが居た時代

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=2459075

「NHK大河ドラマ『八重の桜』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)が前半の山場を迎えている。1868(慶応4)年の「鳥羽・伏見の戦い」で幕府軍は敗れ、同年4月に江戸城無血開城がなされ、会津は新政府軍から「逆賊」として討伐の対象となった。9日放送の第23回では会津に同情する東北諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍と戦闘状態に入る。 そんな中、刀でいくつもの戦を切り抜けてきた新選組にも時代の荒波が襲い掛かる。「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ、局長の近藤勇までも失うことに。そして、土方歳三と斎藤一は会津にやって来る。同作で眼光鋭い斎藤を好演しているのは、ロックバンド・Dragon Ashのボーカル&ギター、Kjこと降谷建志だ。配役された斎藤一については「大河ドラマの『新選組!』(2004年)でオダギリジョーさんが演じた斎藤一も観ていました。るろ剣(和月伸宏の漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』)世代なので、そこで描かれた“悪・即・斬”のイメージ。自分も仲間と群れて行動しているので、新選組にシンパシーを感じる」と話した。『八重の桜』では、例えば新選組が活躍するハイライト「池田屋事件」が、会津藩目線で新選組の暴発として描かれたことで面白くないと思った新選組ファンも多かっただろう。 斎藤は新選組を率いて会津戦争に加わり、仙台への転戦を主張する旧幕軍とたもとを分かつ際には、「誠義にあらず」とあくまでも会津での戦いに固執する。維新後、八重の幼なじみ・高木時尾と結婚。警視庁に入り、西南戦争にも従軍する。斎藤と時尾(貫地谷しほり)の出会いのシーンは6月9日放送の第23回、北進する土方(村上淳)との別れのシーンは6月23日放送の第25回に登場する。『八重の桜』では、明治に入り会津の人間となった斎藤の人生も描かれる。」

記事の追記をしておくと、降谷建志の父親は古谷一行で妻はMEGUMI。奥さんの方も先週の回で登場してましたので、大河ドラマに夫婦で出演する珍しいケースだったと思います。

さて、『八重の桜』でワザと描かれないのが坂本龍馬。(土佐の脱藩浪士と言われている)敢えて描き方が薄いのが沖田総司です。この二人でそれぞれ大河ドラマが作れてしまうので、仕方がないとも云えるのですが、福山雅治が龍馬としてチラッと出てくるだけでも話題作りになるし、視聴率も稼げるのにと思うのは素人考えでしょうか?ただ歴史家的な視点だと、確かに土佐の脱藩浪士でしかないのでしょうけど。

逆に、これまでの新撰組モノでは脇役的な扱いだった斉藤一をクローズアップしてみせた(大河の「新撰組」ではオダギリジョーが演じて別格扱いであったが)のは降谷建志という配役のためだったと思うのですが、あの切れた演技は存在感がありますね。さすが名優の息子さん。血は争えないといいますか。しかし、殺陣はどうかなぁと思います。

幕末期、「人斬り○○」と懼れられた剣士は幾人もいましたが、斉藤一はまさに新撰組にいた「人斬り」でした。しかも彼は戊辰戦争を生き抜き、維新後は会津藩が改易されて生まれた斗南藩の藩士や警視庁の警察官を務めるなどし、大正4年に天寿を全うしているのですから、戦士としては強運の持ち主です。しかも仇敵であった薩摩の西郷隆盛が指揮する薩摩士族軍を西南の役で警視庁抜刀隊(正式には「別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長」)の一員として撃破する機会に恵まれ、雪辱を果たすことが出来たのですから、武士としても最高の人生だったでしょう。ただし、明治陸軍に志願しなかったところが、あの時代の雰囲気を教えてくれてます。

最近実写化された『るろうに剣心』のモデルの一人という説もあるとか、ないとか。

維新側の「人斬り」として高名なのは、「河上彦斎(肥後)」、「岡田以蔵(土佐)」、「中村半次郎(薩摩)」、「田中新兵衛(薩摩)」の4人。

河上彦斎は佐久間象山を暗殺したことで有名ですが、後に佐久間の偉大さを知り、反省して人切りを止めているため、幕末期のみの活躍に留まりますが、切った数はかなりの数にのぼると言われています。

岡田似蔵は書くまでもありませんね。

中村半次郎は維新後は桐野利秋と改名し、日本陸軍初の陸軍少将の一人になった偉い人。性格は勇ましいのですが、人斬りで公式にカウントされているのは1名のみです。

田中新兵衛は薩摩藩士ながら、土佐藩の岡田以蔵などと共に、土佐勤王党の武市瑞山の指示の元、本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを暗殺したと言われる人物。文久3年(1863年)の「朔平門外の変」で姉小路公知の暗殺犯として捕縛され、獄中で自刃。薩摩藩士とされていますが、実際は准武士的な身分で、剣の流派も自己流だったとか。今風に言えばテロリストという位置づけです。

幕末、武士の大半は心得として剣術や槍術を学ぶだけで、その手腕はまちまち。まさか実戦があるとは思わなかったので、身分の上下が真剣勝負の勝ち負けと比例はしない時代でした。戦国時代なら、合戦で生き残れないでしょうが、平和な時代はデスクワーク能力と政治力が出世できたし、封建制度の時代ですから門地が大きくモノを言う時代でもありました。ですから、幕末の動乱期が来ると、武士本来の武道のスキルが必要不可欠となる時代であったのに、幕府(政権)に近い徳川軍(幕府軍=旗本や御家人・譜代の諸藩)ほど役に立たない軍事組織であったのでしょう。

軍事力を配して平和を保つという考え方が如何に滑稽か。幕末史を学ぶだけでも判ろうと言うものですね。

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